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43.天皇制の律令政治の年貢(税)

人様のBlogなので無料。このままリンク先の先方に飛んでもよい。本当にこれ、今は学校で教えているの?それならば素晴らしいことだが、マジですか?

ワシが読むためにコピペした。最近のスマホ向けらしい「隙間だらけの文章はワシには読みづらいのなんの」。そして、ウケを取る文章が多すぎて、知りたいことがパット分からなくなるのでそれは端折ってある。少し文直しているけど、農民のしたたかな前向きな話にするとか。

テーマ:古代史
今回は、「律令国家における百姓の暮らし」です。みなさんは、『続日本紀』という歴史史料を知っていますか?

古代天皇国家は歴史史料の編纂を命じ、合計6つの史料を完成させました。これらは「六国史」と総称されています。『続日本紀』は「六国史」の2番目の歴史書で、奈良時代の歴史の基本史料になります。ちなみに1番目の歴史書が、『日本書紀』です。


この『続日本紀』に次のような文章が掲載されています。

「養老元年五月丙辰、詔して曰く、率土の百姓、四方に浮浪して課役を規避し、遂に王臣に仕えて、或は資人を望み、或は得度を求む。王臣本属を経ず、私に自ら駈使し、国郡に嘱請して遂に其の志を成す。茲に因りて、天下に流宕して郷里に帰らず。…(略)…。」

現代語訳

「西暦717年5月17日、天皇(当時は女帝の元正天皇)のお言葉として伝えるには、全国の人民が、自らの本籍地を離れ、様々な場所に逃げて税を納めない状況である。王族や上級貴族に仕えたり、出家(しゅっけ:僧となること)したりして、税の負担を逃れている。また王族や上級貴族が、役所を通さずに、国司や郡司などの役人に直接頼んで、人民を勝手に自らの配下に入れている。こういう現状があるため、人民は郷里に帰ることなく、他所で生活している。…」

人民が本籍地を勝手に離れて、逃げる…??
しかも現在の感覚で言えば、国民の義務ともなっている納税の義務を放棄している(汗)

ここで、国家と人民の関係を掘り下げてみます。

国家→口分田→人民

国家→ 租税 ←人民


上記の簡略な図は、班田収授法を示したものです。

口分田は、天皇(国家)から全ての人民に貸し与えられる土地です。公地公民制に基づいて、口分田が国家の所有地である以上、死亡したら口分田を国家に返却しなければならないことになります。

では班田(土地を分けること)収授(土地を回収したり分配したりすること)は、どのくらいの周期で実施されるのでしょうか?

その周期は、「6年ごと」に実施されることになっています。

班田収授を6年に1度実施するために、6年に1度「戸籍」が作られることになります。

免許証は所在地をこまめにチェックしたいために、
面倒くさい更新がある。(汗)

口分田は、「6歳以上」の全ての人民に配られるのですが、6歳になったらすぐにもらえるものではありません。

班田が実施される年に6歳でなければ口分田はもらえません😢

班田の年に5歳だった場合は、次回の班田、つまり11歳の時にようやく口分田をもらえるようになるわけです。

さて、口分田をもらうと税の負担が生じます。

これが「租(そ)」です。

租は口分田の収穫から3%程度の稲を納めるもので、税負担としては決して重いものではなかったと考えられ、口分田の分配は天皇の律令国家として人民の最低限度の生活を保障するための政策であったと考えられています。

稲で納める税には、「」の他に「出挙」と呼ばれるものがありました。

「出挙」は「すいこ」と読みます。

出挙は、天皇の国家春に稲を「強制的に」貸し付け、秋の収穫時に利息とともに徴収する、という税でした。

出挙は、地方の重要な財源でした。利息の上限は5割

「春に国家から100万円を貸し付けられて、今年も頑張って仕事をするように!と言われる。そして秋になったら、頑張りました!と言って150万円にして返すようなもの。」

「相当、厳しい…。」

では、もし返済できなかった場合はどうなるの?

その場合は、役身折酬(えきしんせっしゅう)、労働という形で返済しなければならない…。

この他にはどのような税負担があったのでしょうか?

このお話は次回に。

前回お話しました「租(そ)」は、土地税です。つまり、土地に対してかけられる税になります。

これに対して、課役と呼ばれる租税が存在します。

この課役を徴収するために、毎年計帳と呼ばれる課税台帳が作成されます。

各戸主に、家族の氏名・年齢・性別・身体的特徴などを申告させたものを、国司が国ごとにまとめるのです。

「課」は、調と副物のことです。

調は、各地方で生産される絹・絁(あしぎぬ:粗く織った絹布)・糸(絹糸)・綿・布(麻布)などの繊維製品を徴収するのが原則でした。

各地方の特産品である鉄・鍬・塩・水産物を徴収する場合もありました。

納められた繊維製品は、中央財政の主要財源として、役人の給料や中央官庁運営費に当てられました。

副物は、調に副(そ)えて徴収された物品のことです。

紫・漆・塩・紙・樽など、様々な染料・工芸品・調味料などを納めさせました。

「役」は、庸(よう)と雑徭(ぞうよう)のことです。

庸は、都での歳役(肉体労働10日間に代えて、布(麻布)2丈6尺(約8㍍)を納める税です。

収められた布は、都の造営などで労働に従事した人々(地方の農民を農閑期に都に派遣)に対して支払われる費用に当てられました。

雑徭は、年間60日を限度として、地方で土木工事などの労働に従事する税のことです。

これら課役は、人頭税といって、人に対してかけられる税でした。

ここで少し考えたいことがあります。

調・庸は、都で消費されるものです。当然ですが、地方で徴収された調・庸を都まで持っていかなければなりません。誰が都に運ぶのでしょうか??

答えは、農民です。

調・庸は納税負担者(=農民)が都まで運ばなければなりませんでした。
これを運脚(うんきゃく)といいます。食料なども自分たちで用意しなければなりませんでした。

高等学校で使用する図説などには、例えば関東から都(奈良時代は平城京・平安時代は平安京)まで、上りで約30日。下りで約15日。下りの日数が上りの半分なのは、荷物を降ろして軽くなるからです。

持参した食料が尽きて、帰路には餓死する者が多くいた、とされています。

過酷すぎます……


「租」・「課役」以外にも、まだ税の負担があります。それは、「兵役」です。
兵士として徴発されると、諸国現代では各県に該当する)に設置されている軍団という場所で、軍事訓練を受けることになります。兵士は、武器や食料を自分で用意しなければなりませんでした。大変な負担となったのです(涙)

兵士の中には、衛士(えじ)や防人(さきもり)になる者がいました。
衛士は、天皇の住まいである皇居を守ることを任務としています。期限は原則1年間の任務とされました。

防人は、北九州の防備にあたることを任務としています。期限は原則3年間の任務とされました。

10日間に1日の休暇はあった。

衛士・防人の任に当たっている時は、課役(調・庸・雑徭)が免除になっていました。

これらの他にもまだ、「仕丁(しちょう)」と呼ばれる負担がありました。

50戸に2人の割合で、3年間中央官庁の労働に従事する。費用は50戸で負担することになっており、2人のうち1人が労働、もう1人が労働者の世話を担当する仕組みでした。

ここまで農民の税負担の状況を見てくると、あることに気づきませんか?

つまり!

最低限度の生活を保障してくれている口分田の分配に対して、税負担が異常に重いのです。

これ、保証する意図はないよな。

「明らかに、国家から与えられる口分田に対して、支払うものが多い状況が分かると思います。皆さんなら、ちゃんと租税を納めますか?」

「払わない!というより払えない!!当時の農民が重すぎる税納入を拒否して逃げた理由がよくわかります」

「では、皆さんであれば、どこへ逃げるのでしょうか?」

原則、逃げだしたら、国家が捕まえにやってくることになっています。
さぁ、皆さんならどこに逃げて行きますか?この続きは、次回にしたいと思います。

前回のお話の続き。

重い税負担に苦しんだ農民は、どこへ逃げていくのか?

<京・畿内へ逃げていく>
京は、都が置かれた地のことです。奈良時代であれば、平城京。平安時代であれば、平安京になります。畿内とは、京周辺の特別区域のことです。

具体的には、大和国(現:奈良県)・河内国(現:大阪府)・摂津国(現:大阪府・兵庫県)・和泉国(現:大阪府)・山背国(現:京都府/のち山城国に改称)の5つの国を指す。

なぜ、京・畿内へ逃げていったかと言うと、この地域は、課役のうち庸が免除されていたから

それではなぜ、庸が免除されていたのか?それは、この地域に住む住民が雇役(こえき:肉体労働)されていたためです。つまり、都造営のための工事現場で働かされていたからです。

さらに課役のうち調が、畿内以外の国々の半額とされていました。また、調の副物(そわつもの)という税もありましたが、京・畿内は免除されました。

完成していない都の造営や、国家的事業として推進される寺院の建設に従事する労働力として使用されたため、京・畿内は庸・調・副物などの税負担が免除されたのでした。

以上のような説明は、「国税庁」のホームページ内にある「税の歴史クイズ」の中にも載せられています。


<私度僧(しどそう)となる>
私度僧とは、政府の許可を得ずに勝手に出家した僧のことをいう。教科書には、私度僧になることで税負担を逃れる者があった、と書かれてあります。

少し細かいですが、このことに関して説明します。

歴史資料を調べてみると、私度僧になることは法律で禁止されており、その刑罰は「棒で尻を100回叩く」ことになっています。通説では、私度僧は課役を不正に逃れる者として、厳しく取り締まられたとされてきました。

しかし、最近の研究では、

私度僧が取り締まられた実例はなく、刑罰に処された者は1名も確認されていません。私度僧は実際には容認されていたと考えられています。

なお、課役が免除されるのは、官度(かんど:政府の許可によって僧になること)のみで、私度は免除されません。

ちなみに、平安時代に「真言宗」を開いた空海も、最初は私度僧として活動し、のちに官度僧になっています。


<偽籍(ぎせき)>
これは、逃げていく、ではなく、税負担を逃れるための方法の1つです。古代律令国家において、兵役・労役(労働)・課役をされるのは、成年男性でした。

つまり、女性には重い税負担がない。ですから、戸籍を偽って女性の数を多くすることで、税負担を逃れたのです。

女性は死亡しても除籍されなかったため、高齢の女性が圧倒的に多い戸籍が存在します。つまり死亡しても、そのまま戸籍に残しておいたのです。

男の子が誕生しても、戸籍への新規の登載がほとんどなく、女の子として登載する。

こうして、課役の負担を少なくし、かつ国家より配られる口分田を確保するために、戸籍を偽る行為が多発する。

なお、「逃げる」という行為は、2つある。「浮浪(ふろう)」と「逃亡(とうぼう)」です。

浮浪とは、本籍地を離れて他所に流浪すること。本籍地を離れていても、課役を納めている状態のこと。

逃亡とは、本籍地を離れていて、課役を納めない状態のことを言います。上記以外に農民達は重い税負担を逃れるため、どこに逃げていくのでしょうか?

この続きは、次回にしたいと思います。

2018-10-19 09:07:04
前回の続きになります。
租税負担を避けたい農民たちは、どこへ逃げていくのか?ということでした。

歴史では「当事者意識」がとても大切です。つまり、その人の立場に立って物事を考える、ということです。

「逃げる」という行為ですが、問題は「逃げた」後の生活の保障についてです。

逃げた先で、「衣食住」が保障されていなければ、逃げること自体が自殺行為なのです。では、どこに逃げていけばよいのでしょうか??

古代律令国家に生きた農民達は、かなり早い段階から本籍地を離れています。

政府は口分田を農民に配る義務を負っていましたが、その口分田を農民にしっかり耕してもらわなければなりませんでした。理由は、「荒廃田にしないため」でした。

奈良時代には全国の人口も増えていきましたが、浮浪・逃亡などによって荒廃田も増加していきます。農民に配るための口分田が減少していくことになってしまいました。

そこで天皇律令政府は口分田の不足を補うために、いやいや農民に口分田の私有を認める政策を採用することになりる。

●723(養老7)年 三世一身法(さんぜいっしんほう)
●743(天平15)年 墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)

この2つの法令は大変重要です。農民に開墾地の私有化を認めたのです。

しかし!

農民の私有とされた地は、租を納めるべき地である輸租田(ゆそでん)です!

農民に開墾地の私有は認めるが、その土地は天皇律令国家の税のかかる地、つまりは国家の土地であることに変わりはなかった

農民に土地を開墾させて、国家が管理できる土地を増やすことで、土地支配の強化を図る政策だった。

では、荒廃地などを利用可能な地にしたり、開墾地を増やしたりする人たちとして、どのような人たちが想定されていたのでしょうか?

農民個人の労働力では、開墾できる土地の面積も限られる。天皇国家としては大規模な開墾を「ある勢力」を利用した。

教科書などには、次のように記載されています。

「国家の土地政策によって、貴族・寺院や地方豪族たちの私有地拡大が進んだ。特に東大寺などの大寺院は、広大な原野を独占し、国司や郡司の協力のもとに、付近の農民や浮浪人らを使用して、大規模な原野の開墾を行った。」

ここに答えが書かれています。

貴族は多くの特権や経済力を持っており、多くの農民達がその庇護を求めて貴族のもとに集まりました。貴族は集まった多数の農民を使用して、大規模な土地開発を行ったのです。

では、東大寺はどうでしょうか?

奈良時代では、仏教を厚く信仰した聖武天皇によって、仏教は鎮護国家の役割を担いました。

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聖武天皇701年〈大宝元年〉生まれ。(在位:724年3月3日- 749年8月19日)

そして、全国に建てられた国分寺というお寺の頂点に立ったのが、東大寺でした。

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東大寺は国家の保護を受け、天皇日本国家の安寧のために存在した。だから、天皇国家の許可を受けて僧になった官度僧は、課役が免除。

つまり僧は、鎮護国家のために存在していたわけです。

鎮護「神からの天罰・人民の兵乱などをしずめ、天皇国家の平和を守ること。」だ・・・ほんとうの意味は。

現代で言うところの、国家公務員のような存在、と私は説明しています(笑)

東大寺などの大寺院は、広大な土地を所有しており、その土地を耕作させるため、逃げてきた農民達を積極的に取り込み、労働力として使った

この状況は地方においても同様で、大土地開発は権力者天皇朝廷に期待されたのです。

地方の権力者であった郡司(ぐんじ:地方官)は、雑徭のために集められた農民を使用し、大土地開発を行う。

地方における開墾は、郡司の力なくしては成功できませんでした。郡司の力は絶大でした。権力者のもとには多くの貧乏な人々が、その庇護を求めて集まってきます。

集まってきた人々の「衣食住」の面倒を見る代わりに、労働力を提供させ、吸い取り、多くの利益を上げる。

郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)は、日本の律令制下において、律令国内の各郡を治める地方官である。中央官僚である国司の下で、郡の行政に当たり、その地の有力者が世襲的に任命された。

律令制開始時に、古代からの地方豪族は、統治権(領主権)は中央国家へ収公されたが、地方行政官として古代からの氏族制に基づき村落に対する行政を任された。

これ・・まだ強い力を持つ豪族に、敵にならないように美味しい餌で釣ったたと思うのだ。

大土地開発によって利益を上げたい権力者と、納税負担を逃れたいと考える農民の利害を一致させ、支配をモデファイしたわけです。

当時を生きた農民達は、実にしたたかな天皇律令国家の罠に絡め取られて、それは現代の私たちも同じ・・・。

終わり

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