ナチスの映画になった南アフリカのトランスヴァール共和国大統領ポール・クリューガー
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日本のアパルトヘイトの情報は総て嘘なんだけど、どこから話そうかと思案中。歴史の順番からにしてみる。左はナチスドイツ、右は当時ナチスドイツと同盟であった日本でのポスター。
トランスヴァール共和国大統領
南アフリカにて、1852年にオランダ系移民のボーア人が建国し、1902年まで存在した共和国。
1830年代より、イギリス領ケープ植民地のオランダ系移民、ボーア人が、イギリス統治の反発から、内陸へ集団移動した。これをグレート・トレックという。その結果、ヴァール川の北方のトランスヴァールにボーア人が拠点を築くことになった。イギリスのケープ植民地との武力闘争を経て、1852年にサンド・リバー協定が成立し、トランスヴァール共和国が建国された。
Paulus Kruger(ポール・クリューガー)
ステファノ・ヨハンネス・ポール・クリューガー(1825年10月10日 - 1904年7月14日)は、トランスヴァール共和国の政治家。
第1次ボーア戦争
1877年、イギリスがトランスヴァール共和国を併合すると、クリューガーは共和国併合に反対し、使節として2度渡英したが交渉は決裂。1880年12月13日、プレトリアの南西にあるパールデクラールにおいてボーア人の集会が開かれ、この集会においてトランスヴァールはイギリスへの徹底抗戦を議決。副大統領であったクリューガー、軍の最高司令官であるピート・ジュベール、共和国初代大統領であったヨハネス・マルティヌス・プレトリウスの3人による三頭政治体制をとることを決め、16日にイギリスに最後通牒を突きつけた。第1次ボーア戦争ではトランスヴァールは体制の整わないイギリス軍に対して有利に戦いを進め、1881年2月27日のマジュバの戦いにおいてジュベール将軍がイギリス軍を決定的に撃破し、1881年8月にはプレトリア講和条約が結ばれ、共和国は独立を回復した。
戦後
ピート・ジュベール
1880年から1900年まで、トランスヴァール共和国軍最高司令官を務め、第1次・第2次のボーア戦争を指揮した。
平和が戻った後の1883年、三頭政治を解消し通常の体制に戻るために大統領選挙が行われ、ジュベールは立候補したものの、クリューガーに敗れた。
1886年、ヨハネスブルグにおいて金が発見された。このニュースを喜んで伝えに来た部下に対し、ジュベールは「お前は喜んでいるが、むしろ泣いたほうがいい。この金は我が共和国が再び血に染まる原因となるだろう」と言った。
金はゴールドラッシュを呼び、トランスヴァールの国力は急速に増大していったが、果たしてジュベールの言ったとおり、ゴールドラッシュはイギリス系移民(外国人=アイットランダース)の大量移民を呼び、最終的にトランスヴァールが侵略される原因となった。
1899年に第2次ボーア戦争が勃発すると、ジュベールは再び軍最高司令官としてイギリス軍と戦ったが、腹膜炎を起こし、1900年3月28日にプレトリアで死亡した。最高司令官職はルイス・ボータが継いだ。
ルイス・ボータ(Louis Botha1862年9月27日 - 1919年8月27日)は、南アフリカの政治家。アフリカーナー。南アフリカ連邦の初代首相を務めた。
鉄道や軍事施設を襲撃してイギリス軍を苦しめ、ボーア人の人口以上のイギリス軍相手に2年間持ちこたえた。1899年11月15日のイギリス軍装甲列車への攻撃時には、従軍記者としてイギリス軍と行動を共にしていてた後の英国首相、ウィンストン・チャーチルを捕らえた。
何故、殺しておかなかったんだ!(;´Д`A
南ア(ブール)戦争(1899~1902年)
ボーア=プール(同じみたいだ)
1899年、トランスヴァール・オレンジ両国のブール人(オランダ系移民の子孫)に対してイギリスがおこした戦争。トランスヴァールで金(1884発見)が、オレンジではダイヤモンドが発見され(1867)、イギリスはこれらの鉱物資源をねらって戦争をはじめた(セシル=ローズは1895年にトランスヴァールに侵入したが失敗した。)。最初、イギリスは大軍をもって短期間で決着をつけようと考えたが、ブール人の強い抵抗にあって2年7ヶ月の長期戦となった。戦費も2億7千万ポンドを費やし、イギリス経済を圧迫した。
トランスヴァール大統領
1883年の大統領選挙にはクリューガーとジュベールが立候補し、クリューガーが選挙に勝利。クリューガーはトランスヴァール大統領に就任し、以後4期連続当選を果たし、1900年までトランスヴァールの大統領を務めた。政治家としては保守的であり、あまり洗練されてはいないが飾らない態度と、トランスヴァールの独立を力強く訴える政治姿勢が地方の保守的ボーア人から強く支持された。
1886年、国土中央にあるヨハネスブルクにおいて金鉱が発見されたことで、トランスヴァールは転機を迎えた。財政は急速に好転したが、ゴールドラッシュとともに大量に流入したイギリス系の移民(外国人=アイットランダース)の増大によってボーア人は白人の中でも少数者に転落する危惧を抱いた。クリューガーはアイットランダースの勢力を削ぐため、選挙権をトランスヴァールに14年以上居住した白人のみに与えるように選挙法を改正したが、これがイギリス系の不満を招き、ケープ植民地首相セシル・ローズらによって政府転覆とトランスヴァール併合の計画が再び練られるようになる。
ローズはベチュアナランドやローデシアを英国領に編入し、トランスヴァールに圧力をかけた。それに対抗するため、クリューガーはデラゴア湾鉄道の建設を行い、ヨハネスブルクからポルトガル領モザンビークの港町ロウレンソ・マルケス(現マプト)へのルートを自国の手に握った。さらに1895年にはスワジランド(現:エスワティニ)を併合し東に勢力を伸ばした。また、ドイツ帝国と接近しイギリスと対抗した。
1895年、ジェームソン襲撃事件が起き、クリューガーはイギリスを激しく非難。さらに事件の翌日、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世より事件解決の祝電が送られる。この両事件によりローズは失脚したものの、イギリスとトランスヴァールとの対立は決定的となった。
第2次ボーア戦争
1899年、オレンジ自由国の仲介によって和平会談が行われたものの、会議は決裂。クリューガーはイギリスに宣戦布告し、第2次ボーア戦争の火蓋が切られた。汚い手口の!イギリス軍にトランスヴァールは敗北し、1900年6月5日に首都プレトリアが陥落。クリューガーと政府は東部へと逃れたが、10月にクリューガーはモザンビークへと追い込まれ、国外逃亡を余儀なくされた。その後ボーア人の窮状を訴えるためにヨーロッパに向かい、各国を訪れたものの救援を得ることはできず、1902年には敗戦しスイスに亡命することとなった。1904年、亡命先のスイスのヴォー州クラレンスにおいて死亡した。
セシル・ジョン・ローズは占領地に自分の名「ローデシア」を冠した。トランスヴァール国はほぼ同じ位置、かっぱらわれた。➡︎今は”お金が紙くずで有名な、あの”ジンバブエ共和国!!( ̄◇ ̄;) リンク
オレンジ自由国もイギリスの植民地に
1902年のフェリーニヒング条約によってイギリスの植民地になった。1928年から1994年までの南アフリカの国旗では、中央部にオレンジ自由国の国旗があしらわれていた。
1910年、南アフリカ連邦の建国により行政区分に組み込まれ、オレンジ自由州となった。(オレンジ川という川があるのでオレンジが国名なんだ)
人物
クリューガーは背が高くがっしりとした体格をしており、ダークブラウンの髪と茶色の眼をしていたが、髪は年とともに白くなった。若い頃には口ひげを生やしていたが、後年には口ひげをそって頬髯を生やし、見事なヒゲと黒いフロックコート、シルクハット、そしてヘビースモーカーである彼のパイプが彼のトレードマークとなり、諷刺画などにもこの姿でよく登場した。敬虔なオランダ改革派教会の信徒であり、聖書を愛読した。
第二次世界大戦中にはナチス・ドイツによって、彼の抵抗を描いた反英プロパガンダ映画『世界に告ぐ(Ohm Krüger)』が製作され、エミール・ヤニングスがクリューガーを演じた。
『世界に告ぐ』(独: Ohm Krüger)
『世界に告ぐ』(独: Ohm Krüger)は、1941年にドイツで製作された伝記映画です。監督はハンス・シュタインホフ。第二次ボーア戦争を題材にした作品であり、イギリスがボーア人に対して行った残虐行為を宣伝する一種の国策映画として製作された。劇中では南アフリカの政治家、ポール・クリューガーの生涯とトランスヴァール共和国の崩壊を描いている。
あらすじ
19世紀後期。英領ケープ植民地から北へ移住したボーア人(アフリカーナー)たちはトランスヴァール共和国を建国し、平和な日々を過ごしていた。トランスヴァール領内に世界最大の金鉱脈が発見されると、イギリスの政治家セシル・ローズはトランスヴァール侵略を画策。宣教の名目で黒人たちを焚きつけ謀略を企てるも、トランスヴァール共和国大統領ポール・クリューガーは異変に気付く。
セシル・ローズとジョゼフ・チェンバレンはヴィクトリア女王に開戦を促すが、女王は戦争より友好条約を結んで金の採掘権を得る方が得策と考え、クリューガーをロンドンへ招く。クリューガーは自国の利益のため採掘に重税を課し、専売権をトランスヴァール側が握る条件で条約に応じる。納得できないセシル・ローズはクリューガーに面会し、買収を目論むが失敗。イギリスの露骨な企てにボーア人たちは激怒し、第二次ボーア戦争が勃発する。トランスヴァール軍は遊撃戦でイギリス軍に抵抗し、連戦戦勝を続ける。
苦戦に悩むイギリスはホレイショ・ハーバート・キッチナーを最高指揮官に任命し、正規戦から民家や農場を焼き払う焦土戦術に切り替える。多数のボーア人女性や子供が強制収容所へ監禁され、相次ぐ悲報にクリューガーは視力を失い始める。クリューガーの息子ヤンは、イギリス留学経験がある反戦主義者だったが、妻ペトラがイギリス軍下士官に襲われたのをきっかけに抵抗を決意し、欧州諸国に働きがけるようクリューガーを説得する。クリューガーは欧州諸国へ渡るが、援助を得られず、失意の中失明する。
ヤンは、捕らえられた妻ペトラに会うため収容所へ忍び込むが、イギリス軍に捕らえられてしまう。イギリス軍は見せしめでヤンを絞首台の上に立たせる。ヤンは処刑の直前に空を見あげると「イギリスに呪いあれ!」と叫び、壮絶な最期を遂げる。ペトラも同時に「イギリスに呪いあれ!」と叫び、逆上したイギリス軍将校に射殺される。イギリス軍は反発するボーア人の女性たちに銃を向けると大量虐殺を開始し、トランスヴァールの大地は墓標で埋め尽くされるのであった。
第二次世界大戦でイギリスを指導したウィンストン・チャーチルは、従軍記者として第二次ボーア戦争に参戦している。
イギリスとナチスドイツは既に戦争に入っている時代。映画の粗筋を読んで盛りすぎだ思ったのだが、事実はもっと酷かった・・・・!(;´Д`A