天皇家は「姫氏」を名乗っていた時期がある。「姫氏」=周
3632文字
銅鐸
銅鐸は、中国古代の青銅楽器の一つで、後に弥生人(大陸から日本列島に渡ってきた渡来人の一支)が朝鮮半島を経由して日本に伝えた。上には鹿、鳥の画像が多数あり、歴史学者によると銅鐸は祈祷と災い祓い用だという。日本の法学者の一人は銅鐸は熊崇拝の韓国人が持ってきたと言った。九州北部で最も多く出土している。高句麗慈江道でも出土している。
弥生時代の青銅器。筒状で裾(すそ)の広がった身と鈕(ちゅう)と鰭からなる。大陸から伝えられた鐸が変形して日本独特のものに発達した。初期のものは鳴らした痕跡があるが、後期のものはその機能を失っている。いずれにしても宗教的儀式に関連するものであったことは確実とされる。外面に施される文様は、基本的に袈裟襷(けさだすき)文と流水文に類別されるが、人物・動物・建物などを絵画的に表現したものもある。分布は、近畿を中心として本州西部、四国に集中する。九州北部からは鋳型が出土しており、この地でも製作されていたことは確かである。
中国
日本
周王朝と姫一族ー天皇家の苗字
日本の国民はすべて苗字をもっているが、天皇家には苗字が無い。ところが、ある時期まで、天皇家は「姫氏」を名乗っていた時期がある。天皇家は689年の飛鳥浄原令の発布以前まで「姫氏」を名乗っていた。正式には大王(おおきみ)の姓氏である。平安時代の講書(日本書紀を天皇に講義した記録)に書かれている博士の質疑の一つに「わが国は姫氏と呼ばれているのは何ゆえか。」とある。
姫氏とは中国の古代の周王朝の国姓である。周は紀元前1046年頃に建国し、紀元前256年に秦に滅ぼされた。政権が変わると旧王族は根絶やしにされるが、秦の場合は異例で、周王族はその後も存続が許されていて、血筋は絶えることはなかった。
奇しくもわが国ではその頃から銅鐸が造られるようになった。日本が姫氏国だと日本の使節が自ら称したと古い歴史書に記されている。日本は「東海姫氏国」と呼ばれていた。昔から知られていることで、記されている文献は一つや二つではないという。 そして、日本書紀を編纂した天武天皇のときに、中国の属国から脱するために、天皇家の苗字であった姫の姓を消したとされる。
ただし、姫の姓は周王朝と日本だけではない。ウィキペディアによれば「周王室から分家した姫姓の諸国として呉(諸説あり)・燕(諸説あり)・晋(もとは唐、諸説あり)・韓(晋の分家で分岐国、晋と同様に諸説あり)・魏(もとは畢、晋の分岐国)・管・魯・鄭・衛・霍・?(東?/西?に分岐)・曹・蔡・虞・滕・随・韓(戦国の韓とは別国家)・劉などが挙げられる。その後、春秋戦国時代の激動の時代の中で次第に姓は氏(例えば公孫氏など)を用いることが多くなり、周およびその分家の国が滅んでいく中で?姓と称する者は徐々に消滅していった。」となっている。
周以後の多くの国が、姫姓を名乗っており、属国であった日本の大王が姫姓を名乗ったとしても、周の姫氏の血筋がつながっているかは不透明である。
周の武王は⤵︎
戸矢 学 (著)
About this Title
■【まえがき──ヒルコから始まる根元の系譜】
天皇家に苗字のないことは周知のことだが、実は「姫(き)」氏なのだという説がある。
かなり古くから一部に知られている説で、平安時代の講書(『日本書紀』を天皇に講義した記録)などにも書かれている。博士への質疑の一つに「わが国が姫氏国と呼ばれるのはなにゆえか」とある。
姫(き)とは、中国の周王朝の国姓である。つまり、もし天皇家の苗字が姫氏であるならば、日本の天皇は周王朝の血筋であるということになる。
日本で最も古い氏族の一つである紀伊の国造家は、紀(き)氏という。紀長谷雄や紀貫之らを輩出している名家の中の名家である。キイ、キノと呼んだりもするがキ氏が本来で、姫氏と同じ発音だ。
そしてその古い系譜は紀元前にまで遡る。紀氏が海人族を従えて水軍を組織していたことを思うと、中国江南あたり(呉・越などの海人族)と古代から行き来があったというのも現実味がある。鯨漁が発展した下地には、海人族の卓越した漁撈技術があったのだろう。
呉→吴(異体字)
元々の姫氏国である周は、紀元前一〇四六年頃に建国し、紀元前二五六年に秦に滅ぼされた。奇しくもその頃から、わが国で「銅鐸」が造られるようになる。
また、なぜか周王族はその後も存続を許されていて、血筋は絶えなかった。政権が代わると、前の王室を根絶やしにするのが中国の通例なので、秦のこの措置は異例である。
日本が姫氏国であるとは、中国の歴代王朝を訪問した日本の使節みずからがそう称したのだと、中国の古い歴史書に記されている。どうやら中国の為政者や学者たちの間では昔からかなり知られていたことのようで、記されている文献は一つや二つではない。
この説の肯定派の代表は儒学者の林羅山、否定派は国学者の本居宣長で、一時期かなりの論争があった。
皇室が本当に周王家の血筋であるか、また姫氏であるかはともかくとしても、かつてそう名乗っていたことだけは確かだろう。歴代の中国王朝に対して、朝貢使が「日本国王の姓氏」として皇帝に答えているのだ(他に国姓は「倭(わ)」「天(あめ)」などの異説もあるが、あえて採り上げるほどの根拠はない)。
国家によって派遣された朝貢使が、国姓を問われて勝手に創作するはずもないので、あらかじめ確認もしていたであろうし、遣使団の中でも主要メンバーには共通認識であったに違いない。
遣隋使や遣唐使などの遣使は、少ないときで五十人規模、多いときは590人もの集団(733年)であったが、中心は身分の高い知識人たちである。皇室ともなんらかの交流があり、歴史関係の資料に接する機会もあっただろう。そういう彼らの応答であるから、いい加減なものであろうはずがない。
とすれば、それにはそれだけの理由があるのが当然で、もしこれを解き明かすことができるなら、そこからさらに様々な歴史の裏側も見えて来るだろう。
そしてその手がかりが、始源の「謎の神」にあると私は考えた。
ヒルコである。水蛭子、蛭兒などと「記・紀」には記される。
神々の物語を、その後に続く歴史記録から逆算すると、ヒルコ誕生は周の滅亡というタイミングにきわめて近い。
ヒルコは、イザナギ、イザナミの最初の子(『古事記』)でありながら、棄てられた神である。アマテラス、ツクヨミ、スサノヲの兄であるのに、この処遇はいかなることか。しかも神であるのに、その来歴がまったく記されていない。
記・紀にはこの世界のあらゆる神が描かれていて、なかには「こんなものまで」と思わず言いいたくなるような神までいる。
それなのに、ヒルコは尊貴の生まれでありながら、何の来歴も示されずに遺棄されるのだ。
はたしてこの神は、どこから来て、どこへ行ったのか。
始原の神でありながら、生後すぐに葦船に乗せて海に流されたとのみ記されるとは、なんと不可解で象徴的な神話なのだろう。
神々の物語を単なる空想お伽噺として片付けるのは簡単だが、歴史的事実を表象化したものだととらえれば、むしろ事実はシンプルな形で浮かび上がって来る。
日本人のルーツは、神話の中にこそあるのだ。しかも歴史的事実として、である。私はそう確信している。
姫姓の秘密とヒルコの系譜、──本書ではそれを解き明かそうとしている。
しかもその事実は、驚くべき事にわが国の建国の由来をくつがえすような秘史を私たちに覗かせてくれることになる。この国の歴史の根源に至る扉は、この系譜を辿ることによって初めて開かれるだろう。