[ひと口キロク] 完璧より"不完璧"が好き(写真付き)
日本に帰るとなんでも完璧すぎて圧倒されてしまう。最初は興奮して、感動して、日本最高となるのだけど、数日経つと、全くもって面白くなくなってしまう。
海外に住んでいると、日本の「完璧」に憧れて、こちらの「不完璧さ」を批判してしまうことがある。
でも結局不完全の方が愛らしくて、議論の余地があって、飽きない存在なのかもしれない。
「完璧」とか「不完全」とかそんなことを意識したのは、街並みをフィルム写真で撮りだしてから。
日本の風景はすべてが美しくて、計算されていて、写真に写り込む人でさえも、計算され尽くしたファッションを身に纏っている気がする。ズレがない。まっすぐで美しい。アウトローさがない。海外で幻想になっている「日本的サイバーパンク」は見当たらない。
メキシコに住んでいる。
同じ言葉で比較すると、ズレまくり。曲がりくねっている。アウトローがいっぱい。こちらの方がパンク的。
住むことを中心に考えると、明らかに後者の方が暮らしにくい。想定していることが起こらないし、それ以上のことが起こる。
しかし、「五感」中心に考えると、後者は楽しい。不完全だから、いろいろ発見があるし、思考は止まらない。
「完璧」だから、すでに誰かが答えを作ってくれている。
例えば中途半端な場所で人が立っていても、理由を説明できたりするし、考える前に、誰かが理由を言ってくれるか、本当に無意味であれば、その人を排除しにかかる。
「あの〜すみません。ここで立たれていると通行の邪魔になるので、別のところに移動してください」という風に。
「不完全」は、中途半端な道端に人が立っていても、答えなんて求めたりしない。落書きがあっても、調和する。排除もしない。
そこにいるのだから、それでいい。意味を求めることがナンセンス。
何気に撮った風景が、カラーマッチしていたという発見。薄いターコイズブルーとタコス屋さんの赤。この写真の登場人物はみんな赤をまとっている。
後ろに見える歩道のど真ん中に構える屋台。場所がおかしいなんてない、もうそこに屋台があって、その周りに人が通るということ。
あふれんばかりの浮き輪。「ばかり」ではなく、もはやあふれている。
これでも、動かすことができるし、わたしのような観光客はこれが楽しい。ツッコミどころがあるほうが豊か。写真を撮っていたのはわたしだけであった。
フィルムならではの光が中央に2本、スッと入っていることが美しくて、ただのビーチにある椅子やパラソルでさえも哀愁を放っている。「完璧」な国なら、人がいなければ撤去するのかも、椅子はもうちょっと丈夫なやつかも。
メキシコのパーティなどでよく見かける軽めのプラ椅子。気取ってなくていい。4人の大人がコロナビール片手に談笑している光景が想像できる。気取らないビーチ。
撮影した場所は、週末になると家族連れで賑わう国立公園。人気のいない奥に進めば、盗人に会うか、この生き物に出会うことになる。わたしたちは後者だった。
背景は廃墟のような、建てかけの家のような倉庫のようなものがあり、周りは草で覆われていて、時々白い花が顔を出している。草むらをかき分けると、金髪で顔がブルーの生き物に出会うことになる。
70年代とかにちょっとしたアミューズメントパークを作ろうと張り切った土地主たちが置いて行った産物かもしれない。多分、途中でうまくいかなくなって放棄したに違いない。
寂しさを吹き飛ばすような、この生き物のニッコリの笑顔には、ちょっと哀愁さえ感じる。
死者の日の中心地。この日は雨が降っていたので、傘を持つ人やレインコートを着る人など、とにかく荷物が増える。だから余計に人が混雑していた。
その中で小さい日本人が時代遅れのフィルムカメラを取り出し、写真を撮るもんだから目立った。
お気に入りは中央の死者の日メイクをしている男性。メイクのせいか、顔が悲しそうに見えて、まるでこの日が死者の日ではなく、間違えて死者が下界に降りてきて、迷っているかのよう。
10月になると、どこに行ってもこんなマスクが露天で売られている。
ピエロをみただけで怯えてしまう、ホラーに免疫のないわたしには、道を歩くのも恐る恐る、できるだけみないようにしている。
こんなのがハロウィンでみんなが仮装していたら、31日は怖くて外なんて歩けない。
31日は仮装をする楽しいイベントなんてこの国では思えない、だから勇気を振り絞って撮った一枚。