救済のパラドックス
この世は逆説に満ちている。救済という観念も逆説的なものの一つであると思う。
僕はメンタルヘルスの問題、死の恐怖、それにこの世の無価値さについて憤りと苦悩を抱えていたので「救い」を絶えず求めていた。救われたい。このような「逆転の一手」を象徴しているのが「NHKにようこそ」というアニメであると思う。最後まで見ていないのだが、引きこもりで無職の男を、若くて顔の良いメンヘラ女が救済するという話だった。主人公の境遇に共感するところもあり、物凄く惹かれた。今でも「中原岬(作中のキャラ)」を待ち続けている弱者男性を見る。僕もずっと中原岬を待ち続けていた。だがそんな人間はいない。押し入れにドラえもんを探すのと同じだ。
僕はスピリチュアル的、実存的な意味でも救われたかったが、メンタル界隈にいると、「境遇」や「精神病」からの救済を待っている人が大勢いる。「早く救われたい」「死は救済」というツイートを何千何万と見た。
メンタル界隈での「救済」の象徴は「理解のある彼くん」だろう。中原岬と、理解のある彼くん。そういったものが「救い」として強烈に求められている。
メンタル界隈にいなくても、人間は救いを求めている。「救い」という概念を大きく広げると「人生」は救いの連続であることになるように思う。受験に合格して救われる、いい会社に入って救われる、家族を作って救われる。「ここまで行けば安心だ」というのを時間的に前方に置き入れて、そこまで努力をする。「ここまで行けば安心」というのを「神の国」に置き換えれば、そのままキリスト教になる。「神の国に安心して行くために、善行に励む」というのがキリスト教だ。「次の期末テストが終わればひと段落だ」というのも神の国だ。いい点数をとれば救済=安心できる。
「救い」を強く求めるほど、苦悩するんじゃないか。「理解のある彼くん」や「中原岬」といった存在しない「偶像」に救済を求めるほど苦悩が大きくなる。「受験」といったものに「ここまで行けば安心」を置いている人は、受験に命をかけることになる。「何が何でも期末テストで安心しなければいけない人」というのは絶えず不安だ。
救いを時間的な前方に置き入れる、というのは苦悩である。僕はクリスチャンの人とは2人としか関わったことがないが、2人とも「救われるかどうか、不安がある」と言っていた。
「悟り」というのも同じなのだと思う。「ここまで行けば安心」というのを前方に置いて修行をする。どこまで行っても救われない。「未来に救われる」という観念を持って修行をしているのだから、現在は苦悩だ。
この辺の機微を沢木老師は非常に的確に述べている。
「救いなんかいらん」のが救いである。その救いもいらない。