思想とは何か 主義とは何か 哲学とは何か 仏教の観点から
世間の学者はみずから完全なりと思いなしたことを行う。かれらは、これが真実である、と考える。世の学者たちはめいめいの見解に住みついて、互いに異なった執見を懐き、真理への熟達者であると称して、種々に論ずる。ー「このように知る人は真理を知っている。これを非難する人はまだ完全者ではない」と。わが説にのみ清浄があると説き、他の諸々の教えには清浄がないと言う。このように一般の諸外道は執着し、かの自己の道を堅くたもって論ずる。もろもろの審判者がかれの所論に対し「汝は敗北した、論破せられた」というと、論争に敗北した者は悲泣して愁い、「彼はわたしを凌駕した」といって悲嘆する。これを見て論争を離るべきである。賞賛を得ること以外に他の利は存在しないからである。
哲学的見解を保持して論争し、「これのみが真理である」と言う人々があるならば、汝はかれらに言え、ー「論争が起こっても、汝と対論する者はここにはいない」と。
この文字というものはつまらぬものである。長老らよ。このつまらぬことがらについて論争に陥るな。
自己の見解に対する執着を超越することは容易ではない。
仏教は哲学だという意見があるが、仏教は哲学ではない。「教え」である。その教えとは「全ての見解を捨てろ」という教えである。ニヒリストは「正しい思想など何もない」という「学説」を吐くだろうが、仏はニヒリズムという学説も捨てる。「思想」とは要するに、執着であり、苦しみだからだ。
では仏教の目指すものは何か?「苦しみの終わり」である。そのために全てを捨てる。「自分は人間である」という思いさえも捨てる。
仏教は「正しい」「間違っている」という言葉より「上手い」「下手」という言葉を使う。思想に執着している人間は、思想の正誤に関わらず、生きるのが下手だ。
「仏教」さえも捨てるべきものだ。釈迦は「川を渡ってもイカダを担いでいるものは愚かだ」と言っている。苦しみが滅したのに、仏教に執着している者は愚かだ。仏教徒として完成することは、仏教徒でなくなることだ。
みんな思想家になっている。フェミニズム。反出生主義。ネトウヨ。弱者男性論。キリスト教。新興宗教。お釈迦さまが生きた時代もこんな魔境だったに違いない。
実践的に「生」の次元で哲学を捨てる。僕は言葉で真理が分かると思わない。僕は、仏教にしか誠実さが感じられない
「ボクの考えでは」とよく言うが、
その「ボクの考え」なんか、
どうせダメなのだ。
黙っとれ。