SNS ②Your sidekick
前回の続きです。
①では、問いを投げかける形にしましたが、いかがでしたでしょうか。
今回の記事では自分への問いかけをしていただくのと共に、自分を客観視して考えていただきたいのです。
さて、前回の記事では人生全てにおいての行動の主目的が見せびらかす事、見てもらう事に変わってきてしまっているのでは無いかという話をしました。
次はトモダチについて考えていきたいと思います。
ここで過去に時間旅行をして1990年に20歳だったBさんと、2022年に20歳のCさんにインタビューをしてみます。
ワタシ:「あなたはトモダチと何で繋がっていま
すか?」
Bさん:「友達とは絆で繋がっています!」
Cさん:「LINEです。」
「あ、インスタもです。」
という答えになりました。
絆はどこに行ってしまったのでしょう。
絆というのは目に見えない、いわゆる偶像ですが
もしかすると、とても大切な物ではなかったでしょうか。
そして「繋がる」の意味を履き違えてはいないでしょうか。
フォローフォロワーや、LINEの「トモダチ」という目に見える繋がりと、絆で繋がる友達。
どちらが強固で、どちらが安心できるでしょう。どちらかが答えというわけではありませんが、
“ネットワークを通じても繋がっているから安心”
ならまだ良いのですが、
[繋がっていないと不安で、ネットワークで繋がっていない=繋がっていない→不安]
[LINEのトモダチではない=トモダチではない]
になってしまうのであれば相当深刻であり
どこかでそもそもの認識の間違いを断ち切らない限り、この負の循環は永遠に続いてしまうのでは無いでしょうか。
「あなたはトモダチは何人いますか?その中でも親しい友人は誰ですか?」
こう、ゲンダイジンに問いかけると、
「LINEのトモダチは○○人と、Instagramでは○○人と繋がっています。LINEのお気に入りのトモダチは○○さんと○○さんで、Instagramの親しいユウジンは○○人に設定しています、とでも答えるでしょうか?」
友達というのは、リスト化するものでも無ければ、関係を可視化できるものでも無ければ、
SNSの繋がりを根拠に、「トモダチ」であるといえるものでも無ければ、
親しい友人に設定しているから「シンユウ」である訳でもありません。
LINEのトモダチだからトモダチ、Instagramで相互にフォローしているからトモダチでは、
全くもってありません。
そして悲しい時に「悲しい」とSNS上に載せ、
「大丈夫?」とコメントしてくれるのは友情や本当の優しさとは言い難く、
悲しい時に会いたくなって、また何も言わずとも察し取り、会いに来てくれるのが友情で、優しさだと私は思います。
つまり、薄情なヒトが増え(自覚無く)
ヒトとヒトとの関わりが薄っぺらいものに変わってきてしまっているのでは無いのかと私は考えます。
ヒトや生物は大昔から「仲間」や「友達」を大切にし、コミュニケーションを取り、文化や文明を発展させてきました。
そして皮肉な事に人類や文明の進化と共に「友達」という言葉の意味や意義、存在価値や在り方までもが悪い方向に変わってしまっているとすれば、それは明らかにスマートフォンの弊害であり、
人類の退化
だと私は思います。
それとも
気兼ねなく話せて、ずっと一緒にいて、隠し事も嘘偽りもなく楽しく遊べて、あなたの事を誰よりも知っているシンユウは
スマートフォン
なのかも知れません。
そしてこれらは
時代に対しての否定では無く、
それらのことを容易に肯定する事に対しての否定であり、疑問符を打つ事と捉えていただきたいです。
これに言え、主なる神はこう言われる、見よ、わたしはエフライムの手にあるヨセフと、その友であるイスラエルの部族の木を取り、これをユダの木に合わせて、一つの木となす。これらはわたしの手で一つとなる。
(エゼキエル書 第37章19節)
③に続きます。