20200122 安部公房ちゃんは難解が過ぎる
僕が益荒男の風上にも置けないような、へなちょこ・ナラティブ・クライベイビーに成り腐ってしまったのは一体誰の所為なのだ?
それは安部公房の所業によるものだ。間違いない。
責任転嫁甚だしい書き出しではあるけれど、これは紛うことなき事実——というよりも真実である。だぼ鯊の呼称が相応しい蒙昧が、ひょんな折に出会ってしまったものが、その著作であった。
とある旗日に、僕は二足歩行の霊長類でごった返す歩道の汚い街を蹌踉と行き来した。行方もそこそこにふらついて、古寂れのアーケード商店街端にある古本屋に入った。そこで何気なく手に取った文庫本が「箱男」であった。
僕には持て余した暇を躙り潰すことに執着していた時期があって(勿論、今もそれに近しい)、仇敵の「暇」を打ち破るべく、マキャヴェリズムの檻に収監されていた。ダムゼル・イン・ディストレス(性差は度外視して)の気分は近いやも知らない。
件の古本屋を訪れた理由は、「ぷらぷらと政令指定都市を歩いていたら、なんだか脱色された雰囲気のよさに惹かれたから」に過ぎないし、天や地、小口までを薄黄いなく日焼かれた文庫本を手に取った理由も、「なんか表題が格好いい」に過ぎない。
諧謔を謳うこともできないペシミスト風情だった僕は、帰りの電車の中でそいつの頁を捲り続けていた。なぞっていく文章は重力加速度を超越して、僕を長編の渦中へと引き摺り落としていく。車窓から覗く景色は線へと変わり、電線は波を打つ。都市の中心部を通過地点にして県内を東西に横断する快速特急は、中央から東へ向かった僕を乗せたまま降車予定駅を通り過ぎて終着駅まで奔った。僕は東端の駅で降りて、普通列車に乗り換えた。
あれから幾星霜が過ぎて、僕は気づけば文字列を書き連ねることに、妄執じみた脅迫に頭を悩ませ続けている。僕が目指すべきは「読ませる文章」である。
今の内に断りをしなければならない。ここに置き去りにされた思想はどれもこれもが僕の主観であって、誰それの反駁などが意味を成すことはない。憲法19、21条があって本当によかった。大変申し訳ないがその反対意見は胸に秘めたままにしていただきたい。というか、僕を論破することなど、チョチョイのチョイと赤子の手を朝飯前に捻るくらいに簡単で、河童がぶっこいた放屁より軽い功績になるので、どうか止めて欲しい。この小さな文字列の国でくらい僕が王様でありたい。溜飲を下げてくれることへの謝辞を。
思うに「読ませる」という作用は、求心と強制の二種類なのだ。世に蔓延って敷衍していく選り取り見取りの文章たちには求心作用がある。しかし、安部公房には強制力がある。無理くりに人を惹きつけると、脹脛に虎挟みが食らえついて離さない。それなのに、進行を止めない物語は折角捕まえた獲物を置いて先へ行ってしまう。僕は、そのゲバルトにも似た言葉の羅列を何よりも格好いいと感じてしまった。
僕の文体やその内容を、彼の筆跡と照らし合わせたところで微々たる類似すら見られない。それでも僕は影響(インフルエンスではなく、アフェクトが丁度よい言葉かもしれない)を受けていると宣っておく。厚顔だが有恥ではあるのだから、自称はさせてくれ。まあ、そもそも彼のような賢い人間に、蒙昧の僕が到底及ばないことなど百も千も恒河沙も承知の上だ。
僕の目指す強制力は安部公房の筆致が持つスマートさではない。元より叶わない夢を抱く性格ではない。野望やら展望やらを眺める双眸など親父の精嚢に置いてきた。持ち得る知識や技能を鑑みるに、僕が揮える唯一のものはジャイアニズム(に帰属するエゴイズム)なのだろう。人海戦術の如く、滅多矢鱈に言葉を捏ねくり回して、好き勝手に乱文を構成する。そうして、拵えた物量を、「やい! いいから読んでみろ!」と押し付けるのだ。「note編集部のおすすめに載せろ! 載せるに値しないだぁ? それはもう本当に申し訳ない」とも言いたい。それこそ下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるし、その鉄砲が単発装填式種子島から手回し式ガトリング砲に変われば母体数が増えるというものだ。
僕は拝跪して——いつか誰かの正鵠が射抜かれてはくれないかと——神に縋るより他はない。