20200205 冬将軍到来!
夜半、ニュース番組の芸能コーナーで、冬将軍が東経135度の極東へ来訪したと報道されていた。
僕は安藤百福謹製の即席麺を馳走になるべく、調理工程に記載された分量より50ミリリットルばかし少ない水道水を鍋に容れる。そいつを火にかけながら、冬将軍が国際空港に降り立ち、観衆へとにこやかに手を振る様をぼうっと眺めていた。通りで今日は冷えた訳だと、帰宅途中にある堤防でシバリングを起こした事実に合点がいった。堤防下に続く住宅街はベッドタウンの名に相応しく一戸建てばかりで吹き抜ける風を遮ることを知らない。
彼は例年よりも幾分か遅い、如月になってからの訪日について記者に問われると、
「最近はやれ暖冬だなんだと気象環境側からのお達しがどうも喧しくてね。好き勝手に出歩けば非難轟々さ。でも安心してくれたら嬉しいかな。昨年と同じようにびゅうと鎌鼬吹かすつもりさ。しっかり戸締りしておかないと、隙間風の私が貴女のお宅へお邪魔してしまうかもしれないよ」
とニヒル浮かべた表情で応答し、和やかな雰囲気を作っていた。
「いやあ、シベリア程じゃあないけれども、私が日本に来る時はいつも極寒だね。おや? 寒気団を連れてきたのは私だったか?」
と退屈この上ない薄ら寒シベリアン・ジョークを交えてもいた。流石は冬将軍だなあと、僕は心底感動しながらそれを聞いていた。
彼は続ける。飽きもせずにまたしても自身の武勇伝について語った。
「そう言えば、あのナポレオン・ボナパルト君もね、どれだけ騎兵隊を打ち破ったか知らないけれど、どうにも私には敵わなかったみたいだったね。ああ、ごめん! これはあまりにも有名過ぎる逸話だったかな?」
毎年毎年繰り返し聞かされた所為で、食傷を起こす。
僕は彼の過去にあった栄光に縋りつくその様を、まるで肝機能と酒呑童子を殺す紙パック入り清酒をちゅうちゅうと啜る歯抜けの因業爺が、「この辺りの開拓は殆ど俺たちがやったんだよ。あっこの通りが見えるだろ? そう、そこから隣町までやったんだ」と上気した赤ら顔で上機嫌にぬぱぬぱ話すその様と重ねて見ていた。
「勿論、君たちも過去にシベリアの地とパルチザンに苦しめられたことがあったね。それも昔の話、まあ水に流そうじゃあないか。……ああ、私としたことがしまったね! 私が来てしまった以上、水も凍って流せやしないようだ!」
とも滔々と弄するシベリアン・ジョークで場を凍らせていた。
僕は煮沸した鍋に乾燥麺を投げ入れる。暫し待って、麺塊であったそいつに箸の先端がするりと通るのを認め、ついでに鶏卵も茹でてやろうじゃあないかと冷蔵庫から取り出し、そいつの殻を対極に割けた。ぬるりと落ちた中身は数秒と経たずに卵白をふわふわと盛り上がらせ始める。
——ああ、カラザってどうにも苦手だよなあ。
と考えながら、僕は煮立てられたそれらの居場所を中華どんぶりへ移させた。
蓴羹鱸膾というには遠いけれど、この夕餉にはなんだかほの懐かしい鶏ガラの味がする。子供の頃、僕はこいつを生のままばりばり食べることが小さな夢だった。子供ながらにそれは不道徳だと気づいていた。大人になってからそれを叶える機会があったけれど、なんだか咽喉の奥がしゃあしゃあしてしまって、想像以下の結末に肩透かしを喰らったのを憶えている。
僕は柔くなった麺を啜りながら、冬将軍が今年も為さんとする大業について思い巡らせていた。
——気象庁め、これから厳寒がやってくるなんて馬鹿げたことを抜かしやがる。既に僕は心身共に限界を超えているんだぞ。満身創痍、気息奄々もいいところだ。まだ年明けからふた月しか経っていないのに、またしても風邪に罹患したタイミングで襲いくるなんて冬将軍も粋なことをするもんだ。ふた月だぞ。先月も扁桃炎にやられて幸先のいい開幕だな、とか嘯いていたらこれだ。僕の身体を一寸は労われってんだ。
——あれ? これは鶏ガラの練り込まれた麺とポーチドエッグが一緒にあるのだから、ある種の親子丼、いや親子ヌードルか? シネクドキ的にはね。結局は他鶏ヌードルか。
——ああ、腹が立つぜ。大層ご立腹だね、これは。僕の免疫力の雑魚さに切歯扼腕するばかりさ。くそ、鼻腔の奥にある違和感はなんだ。インフルエンザだかコロナだかの世を乱すメインヴィランでもなく、ここにきて十把一絡げの風邪如きに白旗振るとは恐れ入るね。
僕が鶏出汁香る湯気を吸い込むと、口一杯に頬張った咀嚼済みの麺は咳嗽に引き連れられて中華どんぶりへと帰っていった。肺がきゅうと締め付けられる痛みと、顔面一杯に被った食いさしのスープによる苛立ちで僕は形容できない徒労感に見舞われた。
——どうして僕がこんな目に! 豈図らんや!
——ふざけやがって、全部寒さの所為だ。なんつー寒さだよ。鎌鼬吹かすだかなんだか知らんが、僕には関係ない。街中を往来するド阿呆のロマンチカ共が「寒ぅい」なんて当たり前のことを言いながら、「ほぉら、俺のこの外套の隠しにその御手々を入れてご覧」と誘引するんだ。「わぁ、暖かぁい」「君のキュートでラヴリーな手指が凍瘡にもなったら大変だからね」「ふふ、だぁい好き」「はは、俺もだよ」とか畜生も食わんことをやるに違いないんだ。ああ言う輩の捨て仮名は本当に癪に障るな! 伸縮自在の僕の堪忍袋の緒も切れちまうよ。人肌の温もりなんか疾うに薄れていったさ! 体温計に拠れば僕の体温は37.2度だとさ! これじゃあ、仕事休む程でもねぇなぁ、おい……。
——兎にも角にもこんなに悲しい冬があるだろうか……? いや、ないね。反語を使ってやった。どうだ、リテラリーだろうが。肺尖カタルだかにでも、一遍罹患してやろうか。寛解するのか? そうしたら文豪にでもなれるだろうよ。どうせ皆して何かしらの病人だろう。
そこで僕はふと友人の言を思い出す。彼が言うことには、「坂口安吾の文体には、他の文筆家と比べて健康的な性的衝動が漲っている」らしい。僕は坂口安吾の著書を『白痴』しか知り得ないのだけれど、「うむうむ、それは確かに」と納得がいくところがあった。
——いやいや、ウィキペディア大哥に拠ればこいつも薬中じゃねえか。疲労がポンと飛ぶようならアンフェタミンもそりゃあ鯨飲するよな。
僕はスープまで鯨飲され空っぽになった中華どんぶりをシンクへと捨て置いた。
僕は愛用のザックからハイライト・メンソールとジッポ・ライターを取り出した。とんとんと煙草の上蓋を叩くと、ターバン巻きが奏でる笛の音で天へ登るロープ宜しく、するすると浮かび上がる一本の煙草。そいつを咥えて引き抜き、ジッポ・ライターのフリント・ホイールを回転させた。じいと快音響かせ灯った煙草をむうと吸う。むわあと広がる白煙の群れは、僕が威勢よく噎せ返った所為で瞬く間に霧散した。
「くそ、何が冬将軍だよ! かかってきやがれよ! こちとら男寡で心中や寝床が冷め冷めもいいところだ! 見てみろ、この財嚢を! どうだ、懐まで寒々来てんだ! 果たして、僕と貴様のどちらが厳冬に相応しいか凍て比べと興じようじゃあないか!」
ただでさえ微熱を持った身体を更に温めてやらんと喚く僕。そこへ水を差さんとインターホンが鳴る。
「こんな夜更けになんだ、不躾も甚だしいぞ!」
僕は再び鳴るインターホンに向けて舌打ちをしながら、戸口へ向かった。はいはいと士気を削がれた返事と共に鉄扉開けば、そこには和甲冑を身に纏う容姿端麗のスラブ人の男が一人。
「どうも、今晩は」と冬将軍。
「あ、セールスは結構です」と僕。
玄関先で厳寒の主を追い返し、僕は空調機の設定温度を跳ね上げさせた。