20200103 僕と喫茶店
昔のメモ帳が発掘されたので供養の為に。よろしければご一読ください。
◯
秋の残滓を探した。この街の何処を探しても、それらの行方は杳として知れなかった。小さい秋探しは難航を極めている。僕はいじらしくも不格好な姿勢で冬に抗っていた。運動も季節も音痴だった。しかしながら、僕は秋といった季節に微塵の執着も持ち合わせてはいなかった。ただ、これから訪れる肌を突き刺す冬を思えば、怯懦にも似た焦燥感が丹田の奥底から無尽蔵に涌き出でて、引っ切りなしに僕をせっつくのが嫌なだけだった。腫れ上がった扁桃のようにじくじくと苛立ちを生み続けるこれは、ある種の嫉妬なのでは、と僕は常々考えていた。
ふと気づけば指先にはじんとした疼痛があり、時折吹く風は外套を羽織らぬ身体を嘲るように擦り抜けて行く。忌まわしき思いで辺りを睥睨すれば、誰も彼もが暖かに見える装いを纏っているし、耳を澄ませば雑踏の喧騒と溶け合って広瀬香美や山下達郎がそこかしこで唄っている。街路樹の合間では虎落笛が唄っている。青と鈍の合いの子のような重苦しい空の下で、僕だけが取り残されているようで仕様がなかった。誰しもを平等に抱擁しようとする冬の気配に身慄いをした。焦燥感と冷気が龍虎相搏つかの如く、この身を塞いでいる。前門も後門も閉じきっていて、逃げ場がない。
開かれた石畳が続く表通りは、我が物顔で風が悠々と走り過ぎていく。人の子らにそこ退けと怒鳴らんばかりの表情で逢魔が通る。このようなゲバルトに晒されていては身が持たないと考えた僕は、贔屓に通った喫茶店へと逃げ込むことを決した。幾年かそちらへ脚を運ぶことはなかったが、不思議とこの脚は道程をしっかりと憶えていた。着々と進む脚取りは蹌踉としていた。寸分の狂いもなく記憶を辿った筈だった。その筈だったが、そこにあるものは見憶えのないモダンな様相のカフェテリアで、僕を迎え入れようといった雰囲気を醸してはいなかった。僕自身、この手合いを得手としなかった。カフェテリア側も同様で、薄廃れのジャージーを羽織る野卑で醜悪な容姿はそぐわないだろう。事実、窓外より中を覗けば、明るくもなく暗くもない暖色の室内灯と柔らかながらも和気藹々とした雰囲気が、ガラス向こうからこちらを突き刺していた。忿懣は遣る方なく、居た堪れない気持ちが僕をせっついた。そそくさとその場を立ち去る。入店を許されたところで、鞠躬如として、そわそわと落ち着かない自身の滑稽な姿が容易く想像できた。僕はただ小さな安らぎを得たいだけだったのに。その所為だろうか、余計にあの焦燥感がまたしてもむくむくと膨れ上がるのだった。後ろ指が我が身を突いているような、嘲笑の的となっているような形容し難い思いが張り付いていた。
件のカフェテリアを背にし、先刻の辛酸を振り切るように出鱈目に、滅多矢鱈に路地を進んだ。ブロックの端でひとつの喫茶店が目に止まった。些かの疲労が対の脚にしがみついているのに気づき、休息を取ろうと思い立った。扉を開けばドアベルの乾いた音が響く。エントランスは分け隔てなく人を受け入れられるように広く据えられている。脚を踏み入れれば、空っぽの待合が見える。寡黙を体現した、むっつりとした表情の白髪の店主がカウンターの向こうからこちらを伺っていた。
僕は、「どうぞ」と促されるままに奥の席へ座ると、臙脂色の天鵞絨で作られたソファに身体が沈む。天鵞絨を指でなぞって跡をつけ、ぼうっと品書きを眺めていると給仕の女性が注文を取りにきた。ほんの僅かな会話で理解できるくらいに、彼女の気立ての良さが手に取るようにわかった。柔和で稚い笑顔は僕の奥底を見透かされているようで、より一層自身の卑小さが浮き彫りにされているようで面映さと掻痒を感じた。この子が自身のファムファタルであればと、河合譲治とナオミの生活に習って全てを捧げられるのにと、巡らす詰まらない絵空事の上に情慾が更に伸し掛かっていた。喫茶店という場は人種の坩堝に思える。日本人だらけのサラダボウルである。店内にはまばらの人影があった。鼎談をする主婦らから、勉学に精励する学生。口悪く誰それを誹り、口端に泡を溜めるロウトルら。睦言を交わす思秋期の男性とミセス南海。辺りを見回していると、先刻のファムファタルが、「お待たせしました」と珈琲を置いた。僕は微塵も待ってはいないのに、何て謙虚な女性かと感動をした。僕は取り出した煙草に火を点けて、一筋に立ち上る紫煙越しに珈琲の湯気を眺めていた。
「なァ、君よ。人はどうして生きていて、その生きる上で大事にすべきは何かについて考えたことがあるかい?」
と、壮年の剛毅で嗄れた声が目前の衝立を乗り越えて流れてくる。するともう一人、これまた嗄れてはいるものの気弱な声が続く。
「いや、ははァ……。私には皆目見当がつきませんね……」
「やれやれ、それじゃあ駄目だよ、君? 先ずは考えることからさ。人それぞれに答えがあり、それを遵守するのさ。人は泣いて産まれるじゃないか。だからこそ、死ぬ頃には笑って終えなきゃならない、こう考えるね、俺は。その為には何が必要になるのかをしっかりと考えないと。思うにだけれど、これは謙虚さその物だね。そう思わないか? 謙虚さがあれば他者との友情や、信頼。果ては愛情をも得られるんだよ」
がはは、と粗雑に笑う壮年に、唯々諾々と受け入れる壮年の相槌が続く。心地よさそうに更に前者が続ける。
「俺がそうさ。俺の周りは友人で溢れているだろう。お前だってその中の一人さ。俺の女房はどうだ? 器量もなかなかなものじゃないか。昔はもっとよかったのだけれどもな!」
「いやいや、今もお綺麗ですよ」
「がはは、おべっかはよせよ。ああ、話が逸れたな。そうして、多くの人々に見守られながら枯れ朽ちていく。その時には大声で笑いたいものだ。最期には俺が泣くのではなく、俺を囲う人々に泣いて送り出してもらいたいね。まァ、君は伴侶を作ることが必要だがね。男鰥では気が滅入るばかりだろう。脚元ばかりを見る生活は、その日暮らしで退屈さ。前を見据えて、もっと自身の有用性を考え直すのさ」
「ははァ……。仰る通りだと思います、はい」
謙虚とは何ものかと、彼らの驕慢な講説と反駁を諦めた気のない返事を聞きながら外を眺めると、傾いていく西陽の橙色が網膜に刺さる。口寂しく咥えたハイライトメンソールは疾うに燃えさしとなっていた。そいつを灰皿に投げ入れると、既に小さな城が完成していた。長逗留が過ぎたかと、この匂いが溶ける頃には帰路に発とうと思い、冷めた珈琲をぐいと飲み干すと、透かさずに席を立った。
見送りの声を背に喫茶店を後にすれば、外には冷たい空気で満たされている。ぽつぽつと灯り始めた外灯の下を進む。纏わりつくやがてくる夜気を振り払うように身を捩れども、一向に僕から離れていく気配はない。街には次の季節の雰囲気がやおら滲み出す。夜が深ければ、最早この街は冬だった。寒さから逃れるように、押し競饅頭の如く身を寄せ合う番らと擦れ違う。仕事明けの背広が群れをなして酒を呷りに飲食店へ入る。誰しもを平等に抱擁しようとする冬の中、誰しもが白い息を吐いて通りを横行闊歩する。東に無限と続く濃紺は廓寥で、街の明かりを吸い上げて薄く照っている。僕は悴み始めた掌で口元を覆い、僅かでも温まることを期待して息を吐く。はぁ、と吐いた息は外灯に照らされると、銀に変わって、小さな輝きと共に消えていった。僕は空気中へ溶けていく、輝く水蒸気を見つめていた。
「まるで言葉が見えるみたいだ」
思わず口吻から漏れ出した言葉も銀になった。何時の間にか僕を脅かしていた、あの季節を憎む気持ちは薄れていた。冷たさに多少の快さすらあった。非道くこそばゆい思いがした。しかし、未だ好意的に接するには些か尚早かと思えば、自嘲気味に笑みが溢れた。そうだ、これからはあの喫茶店を贔屓としよう。そう考えながら家路を進む脚取りは蹌踉を忘れ、軽やかだった。その喫茶店の名はコメダ珈琲といった。