「抗体詩護符賽」迷子について(1)−そして朝を始めた−
起き抜けに、未だカオスが抜け切らぬ部屋を眺めていた。
バラバラに飛び散ったガラスの破片が宙を舞いながら一つの芸術的な水パイプへと収束していく。そんな逆再生映像のように世界が一つの秩序へと収束していく様子を、後に「私」と詐称されるであろう観察者はただぼーっと眺めていた。まだ誰のものでも無かった部屋が、徐々に「私」専用の様相をまとい、「私」にとってしか現れないであろう仕方で現れだす。その部屋はまるでバラバラに動き始めたメトロノームがある一点を越えた途端、急に足並みを揃えだし一つの全体として振る舞い出す瞬間のように、はたまたテレビ画面に映る砂嵐の中からうさぎの姿が浮かび上がる時のように目の前に現れだした。私に固有な形で用意されたその部屋は既に「いつもの感じ」を備えており、過去に出会った事のある人物の顔をどういうわけか一瞬で判別する時のように、意識に上る前の段階である種の馴染み深さを与えられていた。
数分間その光景をぼーと眺めていた私は、ついに布団から抜け出し、ロフトから一階へ続く梯子を下ってキッチンへと向かった。向かう?そうだ、思い返すと「向かう」という事が全ての始まりであった。全ての秩序の始まりであった。世界と私がこうも安定して存在し得るのは、常にどこかへ向かっているからだ。どこかへ向かうことによって世界と私は共犯関係を結び、世界の方は客体の役割を、私の方は主体の役割を受け持つ。そうして安定的な何かが動き出す。ゲームが始まる。しかし「向かう」というからには目的地が存在しなければならないはずなのに、その時の私にはどうも目的地があったとは思えない。少なくともまだ私は秩序の中にはいなかったのだから。世界は不気味で曖昧で未だ誰のものでもなかったのだ。しかし私が秩序の中にいようがなかろうが、私の身体は固有の癖を持ち、勝手ににいつもの行動を始めだす。「私」は「自動化された身体のプログラム」によって、気が付くとキッチンへ向かい冷蔵庫の中のアイスコーヒーを取り出しコップに注いで、飛び散った汁をペロリと舐めていた。そして、台所の換気扇を回し、タバコに火をつけ、朝へと向かって行った。
その後、段々と朝が近づき、私は先程の体験について思考を巡らせていた。この「毎朝意識が発生する場所」の事について毎朝考える事はないのだが、今日は朝が始まるまでに引き伸ばされた時空の中でカオスの残留がいたるところにこびりついていたのだからしょうがない。いつもなら「起きた」の一言で、いやそれすら意識すること無く片付けるこの現象が、この日は重大な問題として私の精神を捕捉していた。言い換えると私はその時まだ寝ぼけていたといえるだろうか。しかし私はその全てをハッキリと「見ていた」。この明晰な寝ぼけはおそらく意識が無意識を侵食している状態であり、意識からすれば舞台の裏をコッソリ覗かせてもらった時ような気持ちで、得をした気分であった。世界は「いつもの感じ」でしか現れない、という自明性が崩れ去り、無数の因果によって編まれた私と「いつもの部屋」との関係が未だカオスの抜けきらぬこの部屋を安定したものへと変えていく様を私はただ眺めていた。
一度秩序が形成され世界が安定すると、他の方法で統合され得た数多の世界が隠され、姿を消したのだった。姿を消したといっても、それら無数のあり得た統合パターンがどんなものかその内実は私には全くわからない。それらはサムネイル表示のように中身が展開しないままぼーっとした私の意識に火花のようにチラついただけである。それは「私」では無いもののために用意された世界だ。「いつもの感じ」が現れると共に、展開するチャンスを逃したそれら無数の世界はまるで夢を思い出せない時や、太古の記憶を忘れている時と同じような隠され方でどこかへ行ってしまった。再び先程の不安定な世界へ戻ってみようと試みても、ものすごい強力な力で「いつもの感じ」に引き戻されてしまう。それはまるで形状記憶枕のようだ。その時、記憶は暴力性をむき出しにして、まるで敗者の歴史が歴史として残らず抹消されてしまったように、いつも何かを隠蔽しながら自らに都合のいい世界を創り出す。そしてその力が「私」を守っている。私の精神を安定させている。夢を思い出そうとしている時この暴力性は刹那の間にチラつき夢の中での私は私ではないと言い聞かせる。つまり今見ていたのは夢であったのだと。でも明らかに私は夢の中で、今の私であるのと同じ様な仕方で私であった。「いつもの感じ」が輪郭を現すにつれて隠蔽されていった諸々のパターンは、他者の目から覗かれる世界であり、違った私のあり方がまとめ上げる世界なのだろう。
タバコを吸いながら以上のような考察が言語を介さず高速で脳内に駆け巡った。整理してみよう。つまり、「向かう」という行為が私とその世界をワンセットで生み出している。であるなら「向かう」先を変えると違う世界が生み出されるのであり、それらは「私」にとって他者の世界であり、夢の中の私、迷子の私、つまり今の私を構成しない部分の数多の私のために用意された世界であった。寝ぼけているという事はつまりどこにも向かっていない状態であり、その私にとってはいくつもの目的地が並列に並んでおり、目が覚めるに従ってそれらの中のたった一つの目的地が「私」というものと共にハッキリと浮かび上がってくるのであった。その時に選ばれなかった数多の世界は、カオスの抜けきらぬ部屋では未だ選ばれる可能性があったのであり、実は常にその可能性はあるということなのだろう。旅行から帰った時、迷子になった時、夢の中にいる時、部屋はいつもの部屋ではなく街はいつもの街ではなく世界はいつもの世界ではない、そして私はいつもの私ではない。目が覚める瞬間ほどこの事実が明らかにされる時はない。生まれてから物心がつくまでに起こっているプロセスが刹那に縮められ高速に展開している。あまりにもそれが一瞬で起こるのでは普段はそれに気が付かないが、あの日私は引き伸ばされた時間の中でそれをみた。どこかへ向かい出すまでのそのプロセスを。
換気扇の音だけが聞こえるキッチンのコンロの前で、「ぼーっとした意識」は徐々に「私」に変容し、「いつもの部屋」はただの「部屋」へと変容してきた。完全に没入したようだ。もう不思議はすっかり消えてしまった。おっ、仕事に遅れてしまう。私はタバコを灰皿でもみ消し、そして朝を始めた。