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心の剣をくれた人の話。

「じゃ懇切丁寧に言ってやる。胸ん中で剣を握るんだよ!あるだろ、胸ん中の剣が!ここんとこの!ここんとこの!!」

バケモノの子。
主人公に剣術を教えるときに、言葉が不器用なりに一生懸命教える師匠の熱い伝え方。
後々その師匠の存在が、言葉たちが、主人公の胸の中の剣となり、物語の先も続いていく主人公の人生を支え続けてくれるという物語で、キーパーソンになるセリフです。

私はこの映画を観るたびに毎回ボロボロ涙が出てきます。
物語ももちろん好きですが、それ以上に忘れられない人とそっくりな熊徹の立ち回りを見て、胸が痛むようででもどこかこの熱さが懐かしくて懐かしくて。

子どもの頃、私は本当に悪ガキでして...🥶🥶
隣のおうちのざくろの実を塀からよじ登って獲って逃げたり(食べながら種を吐き捨て逃げていたので種を追ってすぐバレるオチ付き)、入っちゃダメな池にみんなを誘って入ってヒーロー気取りしたり...もういま書いてるだけでゾッとしてるわけですが(笑)、その当時友達にも恵まれていて、何をして怒られても楽しかった。みんな笑って一緒になって悪さしてた(笑)

そんないたずらの主犯格みたいな奴だったので、当然担任からも相当の、相当の嫌われ者だったわけで・・・

母と当時の担任が二者面談をした際に、母が泣いて帰ってくる事件があった。たしか私が10歳になる年の頃。

「あれ(私)はお節介の塊のような頭の悪い子で、いつも人のことばかり気にしていてそれでいて乱暴。まず自分のことができるように教育しなおしたらどうだ」と言われて帰ってきたそう。

もちろん、母は泣いてるところを私に見せようとはしていない。
夜中、母が父に泣いて話しているのをたまたま目が覚めて聴いてしまったのだ。
ご飯を作ったり習い事から帰ってきて話をしていてもそんなこと全く気付かなかった。

恥ずかしい。自分てそういう奴なんだと思い込んだ時間があった。

後日、母は次に会った面談で父も連れて話を聞きに行ったそうで、その担任は一っ言も私のことを悪く言うことはなかったそう。
それでも私は二社面談の出来事以降、私は大人(特に男性)を避けるようになった。
もう本当に、周囲の大人全員が私を「アレ」だと思ってるようにしか見えないし、全員私のことが大嫌いなのが大人なんだと思っていた。


その後学年が一つ上がり、私の担任は当時所属していたスポーツ少年団の監督になった。
この先生、もんーのすごく×2怖くてですね(笑)
色黒で体が大きくて、いつも竹刀を両肩に引っ掛けてぶんぶん振り回すラガーマン(想像できますか)みたいな、本当に熊のような先生で。
(ここでは「クマ先生」と呼びましょう。別でもっと強そうな名前があるのですが。(笑))
クマ先生は信用とかっていうより、「ほんっとに怖いからいうこと聞いておかな」という恐怖心からくるものがあった(笑)

そして忘れもしない、進級早々「三者」面談が行われた。
お母さんだけじゃない、今度は私もそこにいる。
前日は怖くて怖くて晩ご飯も乾いた石を飲み込むかのようで、生まれて初めて明日が怖くて寝付けないぐらいの不安に襲われた。
明日先生は目の前でわたしの悪いところを矢継ぎ早に言ってくる。


怖い怖い、どうしようどうしようどうしよう。


今思えば、親以外の大人に間接的に何かを言われたことがなかったので、自分が悪いにしても相当の心の傷だった。


翌日放課後、とうとう面談が始まった。
両膝に手を置いて、自分の一回一回の鼓動で心臓と頭が破裂しそうだった。
その様子に気付いたか、クマ先生は意地悪そうなにやつきを醸しながら一言。
「ははーんお前、日々のいたずらを怒られると思ってんのか〜思ってんな?笑」

その顔を見て、もう全身が跳ね上がりそうなほどの恐怖だった。
もう泣くかもと思ったその時

「お母さん、僕はこんなに周りの子や大人の表情、顔色や様子を伺いながら気遣いができる子どもを、僕は教師と監督やってて一度も見たことがないですよ。」


えっ?


「この子はね、仲間が試合に負けて泣いてたら、それを自分のことように一緒に悔しがってわんわん泣ける子で、他人の悲しみや苦しみを分かち合うことができます。練習についていけない子がいれば僕より面倒を見て、その子に気付かれないように自分ができなかった分の練習もこなしてることに気付いた時は本当に驚きました。これだけ相手の気持ちになって自分で考えて動ける善は、まだ小学5年生なんですよ。」
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「青天の霹靂」とはまさにこのことで。
私はずっとずっとずっと忘れない。
人助けと思って起こしていた行動ではなかった。認められたいからしていた行動でもなかった。
その時その判断、自分の意思で正しいと思うことをしていたと思う。
あったんだ、私にも褒めてもらえるようなことが。
そしてそれを見ていてくれた人が、いま目の前にいる。

当時この感情の解釈もできなかったけど、意味もわからずただただ机に突っ伏してわーわー泣いた。

その後も面談は続いていたけど、私はほとんど覚えていない。
後日母から聞いた話だと
いたずらが過ぎる時もあるけど、そこは僕面倒見るんで、いいところだけ引っ張り上げてやってください。お母さんはもちろんわかってると思いますが、いい奴ですよ~この子は。
って言われて終わったそう。


話が長くなりましたが、人はいろんな人と出会って、ご縁があって、交わる先に、今後の人生を助けてくれるお守りのような出来事をもたらしてくれる時があると思っています。私もいろんなお守りを胸にしまっていますが、私にとっての熊徹は、心の剣をくれたのは、この三者面談をしてくれたくま先生です。

その後悪さをすると先生には全速力で走って逃げても追いつかれ親よりも本気でどつかれ怒られ、平気で2時間廊下に立たされ笑、練習も試合もたくさんの指導を受け、気づけば私はその競技で高校大学まで決めていました。

いつかはお礼をと思っていた矢先、僅か50代の若さでクマ先生は人生を終えました。
いつか墓前の話もnoteに残せたらと。


この先生とは本当にたくさんのエピソードがあり、忘れられない思い出が山のように残っています。
少しずつ小出しにしていきたいです。

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