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人はなぜ迷うのか? 「絶対に大丈夫」があなたを導いてくれる
悩んでいるときは、道に迷っているときです。
なぜ人は道に迷うのでしょうか?
それは、導かれているエネルギーを感じられなくなるからです。
人は人生を切り開こうとします。人生は進むものに見えるのです。
進むことにこだわっているとき、人は道に迷います。
導かれているエネルギーが感じられているとき、もうあなたが道に迷うことはありません。
私は、これまでの人生でいろいろなことに悩み、苦しんできました。そういう意味では、悩みが多い人生と言えます。
しかし、禅を修行する中で、「悩みではない世界」が少しずつ見えてきました。
相変わらず苦しいことはたくさんあります。でも、悩みではなくなったのです。答えが出ないこともよくありますが、分からないままいられるようになったのです。
ただ、その状態をなかなか上手く言葉に出来ませんでした。それが、これまで数回にわたってお伝えしてきた「コンテントとプロセス」というコンセプトに巡り会えて、禅と言葉が繋がってきたように感じています。
なぜ「悩み」は生まれるのでしょうか。
悩むとき、テーマだけでなく、自分と他人も区切っているからです。テーマをどう解決すればいいか。早く解決するにはどうすればいいか。自分にとって得か損か。
他人との優劣や勝ち負けで区切っていくと、悩むほどコンテントの言葉が増えていきます。その結果、自分を取り囲む枠が出来上がっていきます。
枠は、自分と周りを区別します。その結果、「もし〜したらどうしよう」「〜は大丈夫だろうか?」「○○が悪い」「なぜ分かってくれないの」という言葉になります。
悩みはコンテントが作り出すのです。
一方で、プロセスには区別がありません。プロセスを感じながら周りと溶け合ってくると、悩みの言葉は変わってきます。
そして、自分を囲っているコンテンツの枠が薄くなってくると、導いてくれているエネルギーに気づけるようになります。
ちなみに私の場合、苦しいことが嫌でした。だから苦しくない人生を探していました。それが、禅に出会い修行を重ねていく中で、苦しみへの興味へと変わっていったのです。
悩みや苦しみを探究したいという興味。苦しみに心惹かれ導かれる中で、会社員をやめてコーチという仕事につき、禅に惹かれ、食堂を開業することになりました。
クライアントさんをみていても、悩みが多い人は、生きることへの好奇心が強い人です。
悩みは、生きる方向性を示してくれています。悩みはあなたを導いてくれているのです。
どう進めばよいかと考えていると、悩みは悩みでしかありません。
そして、コンテントで考えると、悩みを解決しようとします。
悩む→解決しようとする→答えが出ず悩む
これがコンテントのループです。このループに入ると、抜け出すのはなかなか難しいものです。
でも、悩んでいるとき、ひょっこり解決策が見えることがあります。あなたにも、ふと解決策が見つかったことがあるのではないでしょうか。そのときを思い出してみてください。
そのとき、考えることに疲れきって、答えを出すことを諦めていなかったでしょうか。あるいは、開き直って、悩みがどこかへ飛んでいってはいなかったでしょうか。
どうにかしようとコンテントで考えて考えて、最後に考えることに疲れ、すべてを諦めたとき、コンテントの枠は消えていきます。そこに、どこからか「気づき」が顕れてきます。だから、決して考えることが悪いのではないのです。
ちなみに禅の修行は、解決することをしません。そもそも解決するテーマなどないのです。
解決ではなく、どう生きればよいのか。
問いを持つことです。
問いを持ちながら、自分に起こっているプロセスをただ感じる。そうすると、だんだんコンテントが作っていた枠が薄くなっていきます。
これから一週間、以下のような問いを持ってみましょう。
「あなたを導いてくれているものはなにか?」
問いを持つのは、プロセスアプローチです。大事なのは、自分で答えを出そうとしないことです。それはコンテントのアプローチだからです。もし答えを出そうとしたら、何度でも問いに戻ってください。
今あなたを導いてくれているのは何でしょうか?
今、私も自分に問いかけてみました。
午後6時すぎ。お腹が減っています。晩ご飯が私を導いてくれています。
「晩ご飯が悩みとどう関係するの?」と思われた方もいらっしゃるかもしれません。
導いてくれているものは、こんな感じなのです。
ガッカリされたようでしたら、残念ながらコンテントに毒されている状態です。だって、プロセスとはお腹が減っていることですから。
もし、お腹が空いていることを感じられなかったら、ご飯は食べません。空腹は、ご飯を食べることに導いてくれているのです。
あなたもトイレを我慢して、仕事をすることがあるでしょうか。尿意をもよおしていたら、まずトイレにいきましょう。
私たちを導いてくれているものは、たくさんあります。そして、身近なところにあります。
それが感じられるかどうか。
長い目でみれば、私たちは全員死に導かれています。また、老いに導かれています。私たちの人生は、さまざまなものに導かれながら、進んでいるのです。
食堂では、いろいろ壁にぶち当たります(正確には壁ではないのですが、悩んだときはそう見えるのです)。
ところが、「導いてくれているものはなにか?」という問いを持っていると、あるとき、スタッフ全員の笑顔が浮かんできました。
実は、食堂を始めるとき、同じような映像が浮かんでいたのです。この映像は、何があっても最後は必ずみんな笑顔になっているというイメージです。
食堂は、笑顔に導かれているのです。この笑顔が浮かんでいるとき、何があっても大丈夫と思えます(もちろん思えないときも、よくあります。そういうとき笑顔は消えています)。
何があっても大丈夫だと思えているとき、原因や論理を超えています。そのとき、言葉ではないプロセスを生きています。
「絶対に大丈夫」が導いてくれていることを受け取れているのです。このとき、道は灯りに照らされています。道に迷うことはありません。
そう考えると、私がコーチでいるとき、ただクライアントさんと自分のプロセスを感じています。私がプロセスでいるとき、少しずつクライアントさんも自分のプロセスに意識が向いていきます。セッションしている中で、2人がプロセスになったとき、クライアントさんの「絶対に大丈夫」が見えてきます。
仕事には、コンテントからのアプローチと、プロセスからのアプローチがあります。
コンテントの仕事は、AかBかで悩みます。そのとき、AもBもどちらもコンテンツの世界で葛藤しているということでは同じです。
このとき、答えを出すことをオススメしません。
一方で、プロセスの仕事は、AかBではありません。
ただ問いを持ち続けていると、AでもBでもどちらでもよくなるときがやってきます。これはAとBが交わった状態。交わったとき、両者のエネルギーが釣り合って、身心が無重力状態になっています。
これがまさに無心の状態であり、このとき「悩み」は消えています。
重要な局面では、AかBかで悩んでいるときではなく、「AでもBでもいい」と交わったときに決断されることをオススメします。
交わるまで待てるか。そのために、ぜひ問いを持ち続けてみてください。
「進んでいる」と「導かれている」
昔のネスカフェのCMではないですが、違いがわかる人になりませんか?
今回も読んでくださり、ありがとうございました。
前回の記事をお届けした後に、ある読者の方から、「最近赤野さんの言葉を何回読んでも分からないんです。前のように響いてきません」というコメントをいただきました(掲載についてはご本人の了解済みです)。
正直、ドキリとしました。
私自身も、毎回試行錯誤しながらこの記事を書いています。どう伝わっているか心配しながら送り出しています。
コンテントで考えると、「分かりにくくて申し訳ない」「お役に立てていない」「何が悪かったのか」という言葉が浮かんできます。
そこで、「何に導かれているのか?」という問いに戻ってみました。
すると、無言でした(笑)。しばらく放っておいたのですが、どこかで「何が分からないのだろう」という興味が湧いていました。気がつくと、メッセージの返事を書いていました。
以下は私の返事です。
―――
すぐに答えを出せない問いなのだと思います。そして、問いの塊が少し大きい気がしました(テーマで考えている言葉をコンテントと表現しています)。
今は、「分からない」が起こっているのだと思います。ただ、分からないことと共にいられるか。
それは、言葉の塊を溶かしていく時間です。言葉が溶けていく中で、AかBかではない、もう少し小さくて暖かい気づきがやってくるのではないでしょうか。
分からないときに、いかに素直にいられるか。力が抜けたときに、導いてくれているなにかに気づけると思いますよ。
―――
メッセージをやりとりする中で、お互いに考えを深めるきっかけになりました。
もし疑問などあれば、ぜひコメントくださいね。
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