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「心の重さ」とは? 妄想を暴走させないために

この2週間ほど頭がザワザワして、身心が重い感じがしています。

結構苦しい状態ですが、こういうときこそ自分の状態に気づくチャンスといえます。

昨日、ふと言葉が増えていることに気づきました。

人との対話ではなく、自分の中での言葉です。ずっと自分の中で何かを話しているのです。妄想していると言ってもいいかもしれません。

言葉が増えているとき、頭が力んでいます。頭が力むほど、五感は鈍っていきます。

逆に、「言葉が少ない」とき、身心は軽いです。

スポーツ選手でも同じことが言えます。スランプに陥っている選手に共通しているのは、自分の中での言葉が多いことです。言葉の量が増えるほど、身体の動きは重くなります。

スポーツ選手の言葉については、こちらの記事に書きましたので、ご興味がある方はご参考にしてください。

「スランプが消える〇〇とは?言葉が増えると人生が重くなる」
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https://note.com/zen_akano/n/n1ae7c368060dmagazine_key=m9ac780b07477

人は考える生き物です。思考が人間の特徴といえます。一方で、無意識に考えすぎているのが現代社会での問題とも言えるのではないでしょうか。

考えるほど、体重ならぬ「心重」が増えていきます。身体に適正体重があるように、心にも適正心重があります。

思考も適性を超えると、妄想になっていきます。

今あなたの心重はいかがでしょうか?

重いという方は、考えなくていいことも考えているのです。



ちなみに考えなくていいこととは、なんでしょう?
4つ例をあげたいと思います。

・ある特定のことを考えすぎている。
気になっている人や事柄のことを考えていると、どんどん妄想が膨らんでいきます。

・考えてもどうしようもないことを考えている。
未来を予想するという思考の働きがあります。しかし、未来のことは誰にも分かりません。未来の結果も考えすぎると、予想に振り回されるようになっていきます。

・欲望が止まらない
お金や物への執着が強くなると、妄想が止まらなくなります。

・怒りが抑えられない
怒りはどんどん増幅されていきます。放っておくと過去の嫌な思い出が蘇ってきて、あなたを憎しみへと駆り立てます。



しかし、「考えなくていいことを考えないでいる」というのは、言葉にすれば簡単ですが、実際には結構難しいです。

まずは、考えなくていいことを考えていないかに気づくことからはじめましょう。言葉が増えていく方向にいっているときは、大体、余計なことを考え始めています。

いかに妄想を暴走させないかが、禅の修行といえます。

大事なことは「二念を継がない」ことです。「二念」とは、雑念のこと。坐禅中に何か物音がしたとします。その時、今の音は何だろう、どこから聞こえてきたのだろうと、普通にしていると雑念はどんどん広がっていきます。

大事なのは、「聞こえたら、聞こえたまま」にして、そのまま呼吸に戻ることです。すると、雑念は空に浮かぶ雲のようにスーッと消えていきます。

しかし、これを意識しないと、二念、三念、四念と、雑念はどんどん膨らんでいきます。二念を継ぐのも人としての本能です。ただ、そのまま放っておくと、妄想が暴走しはじめます。

これは心が重くなっていく方向です。

自分の中での言葉が増えるほど、言葉に惑われていきます。これが妄想の世界です。いったん妄想の世界に入ると、本当に自分が思っているかどうかも分からなくなっていきます。そして、人に本来言わなくていいことを言葉に出してしまうようになり、自分も周りも苦しくなっていくのです。

妄想が膨らんで、怒りが爆発したり、自虐的になったり、自己中心的になってしまったり・・・

考えるほど抜け出せなくなることがあるのです。

いかに、妄想に入る前に、気づけるか。

必死で考えているとき、人は「心の拠り所」を求めています。言葉が多くなるというのは、考えや意志を固めようとしているのです。



禅は、固めるというあり方と真逆の方向といえます。

禅の師匠と仰いでいる藤田一照老師は「禅によりかかるものはありません。何もあてにしないことが大事です。一方でいつも私たちを支えてくれているものがあります」と話されていました。

最初、よりかかるものはないというという話を聞いたとき、なんと孤独で厳しい教えだろうと思いました。しかし、実は拠り所を考え出すと、あなたを支えてくれているものは見えなくなります。一方で、なにもあてにしないと支えてくれているものが見えてきます。

ちなみに言葉が少ないとき、フワッとしています。フワッとしているのは、何も拠り所がない状態といえます。安定していませんが、今起こっていることを感じる力が研ぎ澄まされていきます。

フワッとしているというと、生ぬるいと感じる人もおられるかもしれません。ただ、そんな甘いものではありません。

考えて答えが出せているときは、本当に追い込まれた状態ではありません。考えても答えは出ないという境地にいたったとき、もう自分の力でどうしようもないというどん底にいたったとき、フワッと、が顕れてきます。それは闇の中の希望の光と言えるかもしれません。

フワッは、苦しみ抜いた先にある、すべてを投げ打った先にある、損得やこだわりを手放せた境地なのです。

固めることが悪い訳ではありません。しかし、考えて固めるだけが生きる方向ではありません。考えなくていいことは考えない。言葉を減らしていくことで、フワッとしていくのも大事な生きる方向です。

考えない態度とはなにか。どうすれば固めない方向にいけるのかと、クライアントさんとのセッションで問われることがあります。私は答えをもっているわけではありません。そもそも答えを出すのは、何か拠り所を作っているので、固める方向に向かいはじめます。



ここからは、私の個人的体験をお伝えします。何かヒントになれば幸いです。

仏教では、人間には「貪・瞋・痴(とん・じん・ち)」という3つの毒があるとされています。三毒とは根本的な煩悩であり、苦しみの元になっているものです。

三毒にはさまざまな解釈がありますが、「貧」とは、自分の好むものをむさぼり求める貪欲。「瞋」とは、自分の嫌いなものを憎み嫌悪する怒り。痴とは、何かにとらわれ、執着し、妄想する愚かさです。

面白いことに、藤田老師は、煩悩を滅しようとはおっしゃいません。人には、もともと「不貪・不瞋・不痴」の働きがあるというのです。

不貪とは、貪っていない。
不瞋とは、怒っていない。
不痴とは、妄想していない。

何かにこだわりそうになっているとき、怒りが起きたとき、妄想しているとき、「貪っていない。怒っていない。妄想していない」と、ただ唱えるのです。これはお経のようなものかもしれません。

最近は「貪っていない。怒っていない。妄想していない」と日々100回以上唱えていました。唱え続けることで、心の中の嵐が少しずつ静まっていきます。妄想が去り、周りの光や風、音が身体に入ってくるようになります。

考える方向は、自分という形が固まっていく働き。考えない方向は、周りと溶け込んでいく働きを持っているのかもしれません。

今、あなたの心の重さはいかがでしょうか。妄想していないかという問いを持ってみてくださいね。



ここまで読んでくださり、ありがとうございました。

私は以前、何かを書くとき、足を組みながら書いていました。足を組んでいるときは、考えを固めています。足を組むことで安定した拠り所を作っているのです。足を組むのは、考える姿勢と言えます。

そのため、直感がやってくるのを待っているときは、足を組むことをオススメしません。

フワッとするためには、足を組まず、腕を組まない方がいいのです。

最近は、何かを組まないようにしています。

姿勢のあり方も、言葉が増えて固めていく方向か、言葉が減っていく方向かに影響を与えています。
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