「立ち止まる=停滞」「休む=怠け」という幻想
前回の記事で、「課すことをやめて、立ち止まる」ことを決意したのですが、あれから「自分をしっかり休ませてあげる」ことにシフトしました。
よくよく考えたら、「課さない」は「当たり前」のことだった(笑)
「休む」は、そこからさらに一歩進んだ感じかな。
ここ2週間は、かつて体験したことがないほどゆっくりしていました。
昨年から、本格的におしごとに取り組んだり、今までの古い価値観を手放したり、人と真剣に向き合ったり…。
自分では「もうこれ以上は無理!」というぐらい、頑張ってきたと自負しています。
表面上は。
だけど、心の中では常に「もっと、現実が変わってもいいのに」とか「なんで、うまくいかないんだろう」と感じていて。
その焦りの感情を武器に、知らず知らずのうちに自分を追い込んでいたなぁ…と気がつきました。
自分を追い込むことで、獲得してきたものもあるけれど。
とはいえ、「獲得」という感覚はドーパミン的な幸福なので、「喜びは一瞬で、長続きはしない」という特性があります。
だから、「次だ次!」「もっともっと!」となってしまう。(つまり課さざるを得なくなる、ということ)
しかし、それはいつか限界がやってくる。
いわゆる強制終了というやつ。
今まで、小さな限界(体調不良や入院、人間関係のトラブルなど)は何度もやってきていたのですが、ことごとく「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…頑張ろう!コマンド」一択でなんとかしてきたのだけれど。
でも、今年の7月に「もう助けて!」という状態に追い込まれたとき。
「これからも、自分に追い込みをかけて叱咤激励する人生を続けたいの?」という問いが降りてきました。
もちろん、答えは「NO」
だけど、それを根本的に変えるためには、今までと真逆のことをする…つまり、「立ち止まる」「休む」「自分を大事にする」ことが必要だ、と同時にわかったとき。
そりゃ、めちゃくちゃ怖かった(汗)
でも、「怖がって回れ右をする=今までと同じことの繰り返し」なので、「なんで怖いのか?」を感じてみることに。
すると、頭に浮かんできた出来事がひとつ。
わたしには、とても感覚が似ている友人がいるのですが、互いの仕事について話しているとき。
その友人が「休んでいると、”うつつを抜かしている気分”になる」と口にしました。
遊びたいし休みたい…でも、まだ成果を出せていないと、「遊んでいる場合じゃない!」という気持ちになってしまってソワソワする、と。
そして、わたしは「それ、わかる〜!」と、心の中で首がもげそうなぐらい頷いて同調したのでした。
そのエピソードを思い出すと同時に、そこに、
何かカタチにしないと、ダメ
目に見える成果が出ないと意味がない
なにかやり遂げてからじゃないと休んじゃダメ
なにも結果が出ていないのに休むのは怠けること
という思い込み(幻想)があることを発見。
そして、この思い込みのベースはすべて「おそれ」だということも。
在り方(内面)がおそれなので、現実(外側)はもちろん「気が休まらない」できごとばかり起きてくる。
で、次に頭に浮かんだことは「それって、奴隷じゃん」の一言。
「休むな、働け、早くしろ」の三拍子で追い立てられ、毎日を過ごしている↓↓↓
この令和の時代に、好き好んで自ら奴隷制度に身を投じている…なんてドMな人種なんだ!
そう思うと、なんだか自分がいじらしく、可哀想になってきて(爆)
そこで、やっと「課すことをやめる」がごく当たり前のことであると気がつき、さらに一歩進んで「もうしっかり休ませてあげよう」と奴隷解放宣言を発令することができました。(ちなみにわたしはリンカーンと誕生日が一緒です🤣)
若干、「いまさら、ご自愛なの?」というジャッジが入っていることは否めないし、まだ少し休むことに罪悪感はあるけれど、いまは「休むもしごと」を体験しようと思います。
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