僕の写真と君の写真を分けるものは何だろうか : 『64px2』
皆さんは
「自分の写真をどこまで縮小したら、自分の写真ってわからなくなるんかな?」
と、自分の写真の縮小限界値を探ったことがありますか?
僕はあります。
僕の場合は、写真にもよりますが、概ね長辺が約50pxあたりに境い目がありました。自分の写真というよりは、何が写っているのかが判別できなくなってくる感じでしょうか。
上記2点の写真は、そんな私の問題意識から、2018年に制作した写真シリーズ『64px2』から2枚を抜き出したものです。
単にモザイク掛かった写真…というふうに見えるんですけど、実は私がデジタル一眼で撮った写真を64×43px、2752画素にちょっと丁寧に圧縮したものです。たった2752画素の写真ですが、おそらくご覧になった方の多くは「何の写真か」「何が写ってるか」を分かっちゃうのではないかと思います。分かりにくいなと思ったら、画面をキャプチャして、それをちょっと遠目でみてみてください。
あと撮ったら、せっかくなので #64px2 のハッシュタグをつけてSNSで投稿しちゃってください。「co1さんの #64px2 すごい」とか「 #64px2 、写真撮ったらわかった!」とか感想をつぶやいてください。エゴサします。
これ、自分の写真をいざ縮小してみて分かったんですけど、僕が撮った写真なので、当然ぼくは「これが何の写真か」は分かります。当たり前です。
ですが、このモザイク写真、他の人も「これが何の写真か」というのを易々と判別するんですよね。人間の認識ってスゴい。
じゃあそうなると「なんで僕らはコレを易々と見分けられるの?」というところが次に気になってきました。どっちかというとここが本題です。
このなぜ見分けられるのか問題に対して、僕は
「僕らは”ベタな風景基本セット”とか”ベタな人物記憶基本セット”みたいに記憶をパーツ化してて、普段はしまいこんでて、必要に応じてそれらの断片を組み合わせて理解してたりするんじゃないか」
という仮説を立ててみました。
つまり、なんかの写真を見たときにサムネレベルで即「懐かしい」とか「エモい!」とか感じれるのには、観た人が自分の中からエモに紐付いた記憶セットを自分の頭のなかから引きずり出して、写真に当てはめることが出来たりするからではないか、という説です。
となると、たとえ、AさんとBさんが同じ写真について感想を言い合ったとしても、一方でAさんが写真から読み出した感想は「Aさんが自分の中から引きずり出したA記憶セット」であり、また、Bさんは「B記憶セット」から話をしていることになります。一枚の同じ写真を観てるんですが、実は同じ写真を観てないんだ、ということが言えるのですよね。
具体的な例で検証してみます。
上の写真は、お寿司の写真をもとにして制作した画像です。
この画像を見た際に、各自が想像する=見た人がそれぞれ自分の記憶から引っ張り出す寿司記憶の参照元は、当たり前ですけど違う訳です。ある人は先週にいった銀座の高級寿司店の大トロかもしれないし、ある人は昔に親に連れられて食べた近所のお寿司屋さんの赤身かもしれないし、またある人はつい先日ふらっと寄った回転寿司のマグロっぽい何か、かもしれない。
暖かいのか冷たいのか、筋っぽいのか柔らかいのか、濃厚なのか水っぽいのか。個々人の舌に再現された魚の味は千差万別でしょう。自分の中に湧き上がった感想や感情は、そのままでは比較できません。
しかし、この写真を見て湧いてきた感想や気持ちを他人と共有しようとした場合、自分の記憶やイメージと、他人の持っていた記憶やイメージとが大きく違っており、それを一致させることはそう簡単なことではないことが明確になるはすです。具体的には寿司に対する経験や意識、資金力や思想の違いが露わになるかもしれません。
一方、自身の記憶を特に振り返ることもなく、自分は回転寿司しか食べたことがないから当然に寿司の感想=回転寿司の感想である、はたまた、自分は高級寿司を食べているし当然みんなその感想でしょ。…そうやって目の前の作品をひと撫でし、湧き上がってきた自分の記憶や経験だけを、作品の感想としてしまうことだって、当然出来てしまうでしょう。実はそういう写真の見方をしている人の方が多いかもしれません。
「写真をみて、固有の要素をおざなりにして、自分の記憶や一般常識だけを当てはめてしまい、その写真の持つ固有性を確認しないまま惰性で何かを理解したつもりになったりもできる」と、書いてしまいましょうか。
今回の64px2はあらかじめ解像度を落としてあるので、いくら凝視しても詳細が欠落した2752画素分の情報しかありません。ですから、このモザイク寿司写真を凝視しても、僕自身が食べたお寿司そのものへの記憶に到達することはできません。
この低解像度の寿司写真を見て浮かんだ感想を各人が探っていく試みは、撮影をした私本人が食べた寿司そのものに到達することはなく、いずれ各人が自分自身の記憶の寿司を探っていく試みへと変わっていきます。言ってみれば、鑑賞した人が、各々の(寿司の)記憶を探るための鏡のようなものとして制作しましたので、この64px2については、それはそれで良いのだと思います。
しかし、もっと解像度の高い写真ではどうでしょう。もっと情報量の多い写真ではどうでしょう。もっと詳細な写真ではどうでしょう。それらの写真にはきっと、その写真と他の写真とを異ならしめる固有の要素というものがもっともっと詳細に存在し、遍在しているはずです。
作品に対峙して得られるものとは、単に自分の意識や記憶や知識を振り返り再確認するだけではない、その先の違和感や発見と向かい合い、凝視し、理解に努めることにこそ、その真価があると、私は考えています。
せっかくみんなが日々精魂込めて撮影し、世に放った写真も、もしかしたら単にタイムライン上において秒でチェックされて、自分の記憶を軽く思い出すためのトリガーとして雑に扱われて「ああどうせあんな感じね」と流されているのかもしれません。「ざっくり秒で写真を観ただけでは、その写真のことなど到底観れないのだ」などということも出来るのかもしれません。仮説ですけれどもね。
まだ自分でも、どこまでこの『64px2』がここで書いたようにお上手に機能するかは不明な点も残ってます。とりあえずは、この写真シリーズを媒介にして、みんなで感想を言い合ったり、遊べたりしたら嬉しいです。
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全制作とステートメントはこちらにあります、お時間ある方はぜひ。
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