エモ写真私論
エモい写真とは何か。
感動している瞬間に撮影した写真が即座に「感動を伝える写真」になるならば、「怪しい自己啓発セミナーに参加して夜中にむせび泣きながら頓悟してる瞬間に撮影した写真」はとんでもなく素晴らしいものになるはずですよね。しかしそれをやったとしても、実際には「ジャージのお兄さんお姉さんに囲まれてる異様な写真」しか撮れない。
本人が世界の真理・自分の真理に到達している時の恍惚感は、基本的にそのままでは写真には写らない訳です。「『貴方が感動したときに撮った写真』は必ずしも『貴方の感動が他人に伝わる写真』にはならない」という話です。
なので、写真を通してその瞬間の感動を伝えたいのであれば、その写真に「鑑賞者が産み出す情動や感動、感想や意見の素」をどうにかして別途埋め込んでやる必要があります。私はこれを「感情振幅のトリガー」と呼んでいます。
先ほどの自己啓発セミナーを例に挙げるなら、例えばセミナー参加者が、自己啓発を経て何かに目覚める感情を、写真枚数を重ねて丁寧にトレースしてやるパターンがまず挙げられます。
他には、目覚めた時の感情や輝き、感動といったものを擬似できるような、色や明るさやコントラストといったもので画面を構成してやるアプローチも取れるかと思います。
私が、このセミナーの感動の瞬間を撮影しろ、と言われたら、うずくまって泣き叫ぶ被写体を下から見上げるようなアングルにして、部屋のライトの光が降り注ぐような構図にしたり、周りで取り囲む笑顔の他参加者を背景に入れたり、という”工夫”をするでしょう。ドラマチックな構図やコントラストを駆使して、そのままでは普通でしかない瞬間を心揺さぶるような写真に仕立て上げるテクニックは、いろんな本やサイトでたくさん紹介されています。
でも、ここでひとつの疑問が出てきます。
目の前の世界で繰り広げられている感動と、写真で表現された降り注ぐ光や強いコントラストのイメージによる感動って、イコールじゃなくないですか?
…そうなんです。私の構図や写し方の工夫によって生まれる写真の感動は、実際に目の前で天啓を受けているセミナー参加者の感動とは全く別種のものです。「写真を撮った瞬間の感情」と「写真を観て動かされた感情」は、類似や相似ではあったとしても、本質的には全く違うもの、と言えます。
写真には表面しか写らない。心そのもの、その瞬間に直面したエモさそのものを写真に写したりすることなどは決して出来ない。
したがって、私たちは日頃、写真の構図を考え、被写体の大きさや位置を調整し、光や明るさやコントラストを調整することで、直面したエモさの相似形を作ろうとしたり再現を試みたりしている。それが(エモさを示したい時の)写真撮影行為であり、現像やレタッチ行為だ、と言えるでしょう。写真の上でのエモさとは、構図やコントラスト、明るさといった写真技術的な要素から導かれたものであり、鑑賞者の頭の中で作り上げられる模擬的なものでしかありません。
つまり、極端な話、空っぽの瞬間を撮影した写真に、感情のトリガーだけをふんだんに埋め込んでやりさえすれば、その写真が意味するものの実際が何であれ、とりあえず観た人に「エモい!」という感情を叩き込み、頭の中に作り上げることすら出来る、ということにもなります。
エモさは、撮影者の目の前の世界がエモかったのかどうかとは独立したものであり、とにかく動物としてのヒトが反応しやすいようなエモスイッチとは何か、を分析して、そのスイッチを連打してやるようなモノを制作できれば、少なくとも見た目はエモい写真を作り上げることが出来る訳です。
特に写真現像技術やレタッチ技術の向上であったり、SNSによって写真提示から鑑賞者反応が返ってくるまでの時間が極端に短くなったりしたことで、どういった要素が感情振幅のトリガーとして効果的か、というノウハウ(だけ)が急速に精緻化し、皆に浸透しました。フィルターやプリセットなどは、そういうノウハウの具現化と言えるものかもしれません。
…なんだか今や、もう一種の反射神経的なバズノウハウというか、「某レシピサイトの人気メニューはみんなマヨネーズとめんつゆの味」「とりあえず脂と塩分と甘味を足しておけばみんな美味しいって言うんや」みたいな話まではあと一歩のところまできてしまったんじゃないか。生物的で反射的に引き起こされるであろう感情をダイレクトに叩きにいく、という点で言うとポルノグラフィーの一種という見方すら出来てしまうのではないか(ポルノ自体の是非とはまた違う話です)。
このまま写真を「感情振幅のトリガーだけをひたすらぶっ叩く選手権」に変えていってしまって良いのか。もしかしたらそれでは良くないのではないか。
…じゃあどうすんねん、どうしていくねんという話について、「(本質的には分断された)その瞬間の感動と写真に練り込む感情振幅のトリガーの間を我々みんなはどう紐づけていくべきなのか」についての絶対的な正解を、私は持っていません。ただ、私は、私個人として、「その紐付け方法について誠実であろう」というマイルールを持つことは出来ると考えています。
つまり、空っぽの瞬間に感情振幅のトリガーをまぶし、ただただそれを感情をゆさぶる何か崇高なもののように仕立て上げたい、という誘惑に負けないこと。撮影や現像のテクニックはその瞬間の感情をいかに相似を保ったまま写真という形に落とし込むかに限定して使うこと。自らがエモい写真を制作する前には、必ずその前に制作の動機となる実際の瞬間としてのエモが存在すること。
私個人は最近、このあたり「写真を撮って練って制作して提示していくことへの誠実さ」「写真を観た時の感情の由来にきちんと説得力を紐付けてやること」が、写真技術が飽和した後の、これからの世界には重要になってくるのではないか、と思っています。
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