受け手が陳腐な物語に対して正しくシラけられる世界は来るか
写真に「その写真にまつわる・その写真へと至る物語」を箱書き的に付随させたほうが、(その物語がどのような質のものであれ)ウケる、売れる、ということが、2021年現在のいま、バズ必勝法としてある程度認知されてしまったのでしょう。
目の前に提示された写真から皆が自発的に物語を汲み取るようになるまでは、写真に「この写真には!素敵な!物語が!添付されているのですよ!」みたいな箱書き=タグを(物語の中身に関係なく)取り付けるだけで素敵な写真とみなされちゃう、もしくはそういったものが添付されない写真には物語が存在しないものとされる流れが続くのかな、と考えています。
とはいえこれだけプレイヤーが多く、また他者の成果をすぐに確認できてすぐに自分の制作へとフィードバックできる昨今ですから、撮影を主目的とされる写真においては、添付される物語のバリエーションは遠からず撮る側も観る側も割とあっという間に飽和していくのは間違いありません。今は物語タグのついた写真そのものに価値がついたとしても、つまりは「どこかで見た映像にどこかで聞いた物語がついた作品」の氾濫へと至ります。
となると、僕の見立てでは、「いかにしてその写真が撮影されるに至ったかについての物語の出来そのものに対しても吟味が入ってくる時代」が、おそらくは数年後には来ることになるだろう、と考えています。鑑賞基準がより高度側にシフトし、「その物語は真に固有の物語たるか」という基準にいずれ至る可能性はあって、そのようになれば、組み立てる物語がフィクションであればその虚構の説得力が問われることになってくるわけです。
そうなれば、おそらくほとんどの撮影者が虚構の説得力を構築できず、物語の地に足の付け方に対してフィクション的な方面は縮小していく。そしてドキュメント的なリアルな関係性ベースの物語を組み立てる方向にシフトしてくる。僕は個人的にそう予想しています。あるいは、圧倒的な物語構築力を持った文章畑の人間が、それなりの力を持った写真を伴って現れるパターンなどは考えられるかもしれません。
写真を使って虚構をイチから作り上げて説得力を持たせるのは、単発の写真力が求められがちな(複数写真間のつながりをインターネッツ越しの相手に理解してもらうのが難しい)SNSでは、それなりに難しいのかなと感じています。ぱっと思いつく方法としては、虚構の物語を語るためのアカウントやサイトを作成して、アカウントをまるっと制作の一部としてずっとその写真を投稿し続けるとか、そういった「箱をきちんとつくり込む」方向はあり得るのかな、とは思いますけど。少なくとも「それなりの質で長期&数量を積み上げる」あたりを行うことが要求され、ハードルはどんどん上がっていきます。
界隈がこのような状態に至ってしまったら、例えば初めましてな美人さんを撮影した中身に小さな筋書きを添付しても「いやでもそれって後付けじゃん」「繕いたいがゆえの物語じゃん」という扱いになり、今とは違って、撮影者はその美人さんとの地に足のついた話に沿った写真を提示せざるを得なくなってくるのではないか。
また例えば、家族写真でもよりリアルさ、単なる牧歌的な雰囲気だけではない生々しさや生活の中で生まれるヒリついた緊張感、みたいなものもだんだんと取り入れる方向にシフトしていくと予想しています。人生切り売り系、みたいな揶揄をされることもあるんでしょうけど、そういう路線が、アマチュアSNSフォトグラファーにも求められるようになってくるというか。
難儀な世界ですね。昔は背景が何であれ経緯がどうであれ、とにかく美男美女をただ撮ってれば「きれい」「かわいい」「かっこいい」で良かったのに、それがちょっとノスタルジックなフィルター処理と「ストーリー」「コンセプト」「世界観」のようなエッセンスをまぶしていこうよ、になり、その写真を撮るに至る僕とキミの世界にまつわる物語を添付した後には、その物語の出来はどうなの?そのキミと僕の関係性ちょっとペラペラじゃね?みたいな点を詮索されるところまで行き着くかもしれない。理屈では健康的かもしれませんが、ちょっと息苦しい気もします。
とはいえ、この予想には、「写真を鑑賞する側が、制作側の陳腐な物語に対して正しくシラけられるようになること」、というなかなか厳しい前提があるので、実現の可能性は…と問われると、あんまり期待できないかもしれません。受け手側としてキャラ萌えや作家萌えで満足している人たちが沢山いる訳で、その萌えで十分じゃないかという状況が続くならば、物語の巧拙とか迫真度みたいなものはいつまで経っても求められることはない。そうであれば今の現状は変わらないでしょう。
そもそもは、本来でいうと写真に箱書き的な物語を添付し、その箱書きによって何かを判断するのではなく、写真作品そのものをきちんと読み込んでいくことで写真から多種多様の読みや関係を掬い取り、それらを自発的に組み合わせて思考し解釈していくことこそが、鑑賞する側には本来求められるべきです。…が、なかなかそうはならないでしょう。大の大人に対して、作品の横に作者が立って謎解き的な解説を率先して行い、代わりに咀嚼して口移しで渡してあげていくというのはあんまり健康的じゃないのでは、とは思うんですけどね。このへんは僕自身の宗教観みたいなものなのであまり気にしないでください。何がそうなった原因かの考察はここでは置いておきます。
業務フォトグラファーや良いね数フォロワー数こそパワーな場合、すなわち鑑賞者=お客さん、である場合、このような"啓蒙"方向への言及は単純に無意味であり、どこまでも寄り添って噛み砕くことが正義とはなります。また、それ以前に日々たくさんの制作物が怒涛のように流れている現在では、いちいちそういう手間のかかる取り組み方をしている時間もないし、その手間をかける価値があるかの判断すら困難だ、という現状ではないかと思われます。
もちろん、写真だろうが何であろうが楽しみ方は自由です。萌えるもよし、様式美の奥深い世界に溺れるもよし。何も考えずに、あっ良いね、でいいね!をクリック。そういう楽しみ方だって立派で、現在はむしろ主流のあり方です。制作側としても、写真そのものや写真&物語に対して、脊髄反射的だったり洋式美的な楽しみ方をされてしまうことも当然想定すべきであり、そこを狙っていくんだ、その需要を満たしていくのだ、という戦略も当然ありでしょう。
しかしながら、発信者としてそこよりも奥を狙っていきたい、現状の状況を不健康と捉えており自分はそうではない世界を目指したい、というのであればどうするべきか。となれば、そういう反射的?な楽しみ方があることを踏まえた上で、そういう人たちをも満足させつつ、そうでない写真の在り方を鑑賞者に求められた場合、踏み込まれた場合であってもきちんと対応できるように歯ごたえのある"物語"を奥に仕込んでおくような、二段重ね・三段重ね的な写真を製作していくことが必要なのではないか。
ここまでいくと「ぼくのかんがえたさいきょうのしゃしんせかい」的な、毎度の自分の願望が入っていますが、何かしらがうまく転べば、そういう世界に変容していくのかもしれない(いやでもそうはならんだろうな)、と思っています。少なくともSNS主戦場であっても一部の制作者にとっては、徐々にそちらの方向に向かっていくのは間違いないのかもしれません。
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