灯台沼
「とうだい」の予測変換を見てみよう。さいしょに 東大 がでたら、ぜひともこの記事のふたつ下以降のセクションを読んでほしい(?)。
ちなみに東京大学はカスである。入学同期に "幸せ" そうなヒトは思いあたらない。故意か不幸にしてか、見ていないだけかもしれないが。入って1年と少し、なんの成長もなく、むしろ退化という結果に終わった今、私は京都大学理学部に進学していた方がよっぽど「幸せ」だっただろうなどという妄想に苛まれている。少なくともこの大学は、高校期に多少出来がよかったからと自らの見かけの能力を鼻にかけ、これから日本/世界を引っ張るんだというアオハルも甚だしい勘違いをした馬鹿が来る場所では決してない。この妄想の連鎖は自ら思考なり生命なりを断ち切らない限り終わることはないだろう。
結論から話そうか、ここまで御託を並べておいて何が結論だと言われればそれまでだが。それだけ覚えたら帰っていいよ、と言う嫌なようつべ広告が思い出される。まぁそういうことだ。私がこの記事で言いたいのは、「灯台 いきません? いいぞ」ということだ。
灯台のなんたるかとその知識は『灯台表』でも『灯台の光はなぜ遠くまで届くのか』でも『お雇い外人のみた近代日本』でも読んでいればいい。平たく言えば 光を発する ふねのための 標識 である。
灯台は、設置の経緯と設置場所からして面白い。あんな建築物はおいそれと立てられるものでないのは自明で、形態もその場所と役割に最適化される。至極単純なことだ。
私が初めて行った灯台、というよりここで私が灯台沼に嵌ったのだが、犬吠埼灯台は背が高い。
遠くを照らしたいのに高い山のような場所がない、だから高い塔を立てるしかなかった。それだけの話だ。もし鎖国日本に西洋灯台技術が入ってきていたら、犬吠埼灯台はもっと背の低い灯台になっていただろう。出雲日御碕灯台が日本一高い灯塔をもつのも、同様の理由と推察される。面白い。低い灯台だって、低いなりの理由がある。別に努力してまで遠くに光を投げる必要がない、既に高い場所に灯台を建てた、というものが主な理由だろう。江崎灯台なり経ヶ岬灯台がいい例だ。
さて。灯台は、きれいなものだ。まず灯塔が、真っ白だろうと縞だろうと、青い空によく映える。きれいな画が撮れる。私は生活の制限や自身の無能ぶりにうんざり、また絶望していた2020年の9月に犬吠埼を訪れ、ここの灯台の美しさに惚れ込んだ。ちょろいものだ。
灯台がフレネルレンズを使っていると、これもまた美しい。透明なガラスの複雑な形がよい。大きく複雑な形状、かつ意図をもってつくられたガラス塊は、灯台のレンズを擱いて他にないだろう。きれいだ。
尤もフレネルレンズを使わない子もいるが、それもそれでよし。
さて。灯台には登れるものがある。写真で挙げているものを含め、16もの灯台に普段から登ることができるのは周知の事実だろう。灯台から海を眺めていると落ち着く。海が落ち着いている日にしか行かないからそれもそうか。
逆に、海から灯台を見ても落ち着く。船にはGPSがあるが、それでも光を目で見て場所の確信を得ると安心した。近頃安心安心と煩いが、この安心に勝るものなんて姉との添い寝ぐらいだろう。この光が結構強力で、街明かりが背景でも容易に灯台だとわかる。優れている。レンズを使った灯台では、灯台表に閃光とあっても光は一瞬でなく、これが光の電球色と合わさって暖かい。私は名古屋―仙台航路で通過した神子元島灯台の 群閃白光 毎16秒に2閃光 が好きだ。
こんな具合で、灯台はいいものだ。面白いしきれいだしなんでも忘れられるし安心するし。現世に疲れたら観音埼か犬吠埼あたりに行って灯台沼にでも嵌ってくるといい。なにせ灯台は日本に三千以上、登れるものだけでも全国に16、世界にはそれこそごまんとあるだろう。きれいなものを求めていろいろと訪れたいものだ。それはそれとして自分はぱっぱと現世から退場したいのだがな。
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