老いに眠ればD28
1.雫の落ちる音、時計の刻む時間。
TVを消す。スマホを切る。時計の音から耳を逸らす。時間を知らせる物を意識から切り離し、思考と時間の速度をスロウにする。
外の喧騒を置いてけぼりにするエゴイズムを他所に、『それ』は私の中で勝手に美しい物として確立される。
身勝手な物だな、と常々思う。何故なら『それ』は現実逃避でもある為である。私の中に勝手に美しい世界を構築する。幸せとはそれ以外の何者でもない。他国の戦争から目を逸らすエゴイズムを完全に排除して成立する幸せなど存在しない。悲鳴を受け入れながら笑える精神性を、私は持ち合わせていない。
『それ』とはつまり、時間をスロウにする事、ゆったり。イメージの中の時計の針が進む速度を忘れ、意識に映された世界が時間という概念を忘れる。何も変わらず変えられず、時の流れを認識出来ない世界を、取り敢えず美しいと呼んだりする。時にはそういった世界が整った思考の為に必要だったりもする。
その世界に私が居るという事が幸せに繋がる……というのは私の勝手な主観ではあるが、何にせよ、人は多かれ少なかれ、『幸せ』という罪を背負っている。誰しも平等にそれは背負わされる。
まぁ、とは言いながらもこれらは大袈裟な話ではある。
例えそういった幸せを指向するエゴイズムを放棄したとして、一体どれだけの人がそれだけで救われるのか/救えるのか?という話にはなる。出来る限りの努力は出来たとしても、それで救える数がほんの少ししか変化しないのだとすれば、自分が幸せのままの方がよっぽど…何というか、行為の質?が良いのではないか、など。
私はどうせ矮小な存在ではあるのだから、
精神と肉体を投げうって新たに救えるようになれる人達の数などたかが知れているのだから、
だったら自分の身を精神を安定させ長く救い続けられる方が良いのでは、という話になる。
救うというのも大袈裟だ。手伝う、くらいの感覚。
では私は、私に対してどれだけの幸せを許したら良いのか。悲鳴の裏で私が幸せになる事を、何処まで許容出来るのか。
他人を参照されたし。未来の自分。ワーカホリックになるも良し。開き直るも良し。悲鳴に照準を合わせ、地道な努力でにじり寄るも良し。好きな程度に幸せになり、他人の不幸を踏み躙ると良い。
「言い方ってものがあるんじゃない?」
事実だろう。自分よ。耳を塞ぐエゴイストよ。
2.老いを考えるようになる。
時間が経つごとに出来る事は減り、肉体の節々は軋み、思考や認識は柔軟さを失い、硬直と暴力性を纏う。
他人のそういった姿を見て、自分の胸中にふと去来したのは「悲しみ」だった。
当然、それは身勝手な悲しみである。他人の老いに対してどんな感情を抱こうが、それはこちら側の勝手な憶測に過ぎない。幸せそうにしている老人に「悲しいですよね、老いてしまうのは」とは何と暴力的な。そんな事言わないだろう。
しかしそれが身勝手だと知りながら、自由が失われる?事に悲しみを覚える。
身勝手さを噛み砕く。反芻する。主観的だなぁ、と山彦が帰ってくるので、「悲しむのは悪い事ですか?」と答える。
山彦はなんにも言わない。あんまりにもそりゃ無責任じゃないか。
何故か知らないが28歳になった。成ったとは何だ、成ったとは。
ただそこにあるだけで錆びつく物を「成った」と呼ぶのか。あたかもそれが時間に比例して自動的に価値を帯びていくかのように。
なら人間を白い部屋に閉じ込めて放置しておくだけで価値のある存在に「成る」のか?というよりはより大きな価値を纏うようになるのか?そんな筈はない。
経験だと思う。時間と共に纏ってしまうものは。それが積み重なった集大成の事を「何者かに成る」と呼ぶんであって。
なら、28歳分の経験を纏って自分に成り続けているのか。とてもgrotesqueじゃないか。グロテスク。自我はうねる様で。そうやって生まれて、キメラになって死んでいく。