【思考の切れ端】ヘイトフルスピーチ トゥ ライフ
この記事にはフィクションとノンフィクションが織り交ぜられております。配分は明記致しません。何処がフィクションで何処がノンフィクションかも明記致しません。
この文章が顕すことの重みを理解した上で、私が表現すべき物、として描いております。
拙い書き手の挑戦的な読み物、としてお楽しみ下さい。
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今晩は。今夜はこの時期には珍しく晴天で、とても良くお月様が見えるそうです。
雲間からお月様が顔を出すまで、ちょっと私のお話に付き合ってくださいな。
構いませんか?では常態で、失礼致します。
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最近、死についての話題が目につく。自殺、葬儀、宗教。ニュースでの頻度が上がったという訳ではなく、私の認識バイアスがそれらを進んで拾おうとしているのだと思う。
だから、死について、ひいては素晴らしく眩しい命に対して感じる馬鹿らしさについて、此処で話しておこうと思った。
私は父を亡くしている。享年50と幾ばくか。
心臓をやったらしく、彼は突然搬送された。
私が地元に帰ると、薬の影響か病気の影響かなんだか知らないが、ポパイのように太くなった腕や足をだらけさせ、横になった父の姿が目に飛び込んできた。
一眼見た時、私は彼が人であった自分の記憶を疑った。目の前の彼が人間であったなどと、どうしても思えなかった。
【いや、彼が私にとって人であった事は、これまでもこれからも一瞬たりとも無かったのだが。】
それでも、一応人の体裁を取っていた怪物としか言えない何かは、ついに人ですらなくなった。
その癖、死ぬ時はガリガリで死ぬのだ。正しく水が抜けたように白く痩せ細って死ぬのだ。丁寧な処理を施された無機になって死ぬのだ。
命って馬鹿らしいなと思ったのはその時だった。こうやって萎んでいく。私達はどれだけ何を望もうが、死ぬ時はこうやって死んでいく。死を結果とした時の、生という過程を軽んじる訳ではないから、「テキトーに生きよう」とはなり切らないけど、それでもやっぱり人は死ぬんだ、と思った。
そして私は、父が死んだ時、毛ほどの悲しみと、比較にならないくらいの安心感を得た。
【これで、ようやく解放される。】
自分にアレだけの羨望を注いで、自分の事を人間と扱わず、神様みたいな目で見ては家内に暴力を振るっていたあの父が、死んだのだ。
決して嬉しくはない。それほど激しい感情では無い。ただ、彼がこの世界から居なくなったことで、私の中の負債がマイナスからゼロになっただけだった。
私が父を殺す必要は、もう無くなった。
私は暴力を受けない為に神であり続ける以外の選択肢を奪われていたが、それでも自分だって一介の人間として愛して欲しかった。本人にしてみれば愛していたつもりだったのだろうが、自分にはその愛が理解出来なかった。
まぁ、自分も大概人間らしくない存在ではあったが、それにしても愛される権利くらいは持ち合わせているはずだ。違う。愛されてはいた。それが全く分からなかった。伝わらなかった。
「私が本当に欲しい物を、彼はくれなかった。
だから、彼の愛がわからなかった。」
それとも、それは贅沢な話なのだろうか。分からない。
自分の愚かさを曝け出せる場所がもっと欲しかった、もっと馬鹿みたく騒いで生きたかった。私の疑問にもっと素直に答えてほしかった。分からないなら分からないで一緒に考えて欲しかった。 そして、それらは叶えられなかった。
自分のせいでもあり、環境のせいでもある。努力不足でもあり、運の不足でもある。どうにか出来た事でもあって、どうにも出来ない事でもある。マイケル・サンデルの能力主義を批判した本の内容がチラつく。
結局の所、どうにかできる事しかどうにも出来ないのだ。そして、どうにかできる事はどうにかできるのだ。
愛を知らなかった私が悪いのか。誰かを愛したかったし、愛されたかった…と言うのはあまりにも贅沢だとは思う。実際私は愛されている。愛されてはいる。私の方の器が壊れている。故にそれが理解出来ない。
愛が分からない。分かろうとしていないだけかも知れない。愛を受ける事による返済の責任から逃れているだけかも知れない。
長い間馬鹿らしい神様であった弊害かも知れない。彼女が私を愛してるんだろうな、という事は分かる。
私が誰かを愛する事を、誰も許してくれなかった。というのは随分と狡い言い回しだ。自分が一歩踏み出す勇気が無かったのだ。愛される勇気、愛する勇気。
何故愛するのに勇気が必要になるのだろう?愛する事が自分の中で当たり前になっていない事がとても馬鹿らしい。或いはそんな物なのかもしれない。私に他人の心は分からないから、他の人だって勇気を振り絞って馬鹿をしているのかもしれない。
父はよく馬鹿をした。馬鹿なふりをして人を笑わせた。その時だけ。根底は支配だから、私は彼の事を白々しいと思っていた。
暴力を振るう癖に父は優しいのだ。家族想いでは…多分、ある。し、友人想いでもある。そう、『悪い人ではない』。その表現がよく似合う。
じゃなきゃ対面の屋台の仕事なぞやってられない。信頼を勝ち取って自営業を続ける事など出来やしない。信頼を置ける人ではあるのだと思う。そういう意味で父を尊敬しているのは、ずっと変わらない。
ただ、やっぱり何処か歪んでいたのだと思う。父を始めとして、私も誰もかも歪められた。他の人と同じように、私も真っ直ぐ育つ事は無かった。
それが社会において普通なのだと思った。他の人も歪んで育つ、そうじゃないのは贅沢だ、という話はよく耳にするし、自分もそう思うから。
それに、父の周りには分かりやすく悪い人がそれなりに居た。父方の系譜は(非常に短絡的な言い回しにはなるが)悪人や馬鹿揃いだった。横領、セミナーにハマる奴、暴力は比較的当たり前。そんな家系の人々とそれなりの頻度で触れ合うと、それが当たり前になってくる。そこに居たいとは思わないけど、彼らが当たり前に側にいる。
そんな環境に居たから、自分の感覚が麻痺していたのかもしれない。
父は死んだ。消えた。家内で涙を流したのは母だけだった。私も下の兄弟も泣かなかった。少なくとも私は、彼の死に手向けるような涙は持ち合わせていなかった。
彼には多大な恩があるが、それと同じくらいの憎しみがある。分からない。それは逆恨みかも知れない。だって他人を愛さなかったというだけで恨まれる筋合いなどある筈がないから。
私には分らないものが多くある。分かってはいけない。主観で断じてはいけない。断じる事などできる筈が無い。全ての物は多面的な解釈がされる。多面性を持ち、その内の一面を道具として使うだけだ。
法の解釈、コミュニケーションにおける表現、「私はこんな事をしてきました」という自己アピール。それだけをしてきた筈ないだろ。
父が死んだ。すっかり3年が経とうとしている。
私も死んだ。父を宥める為の神としての役割を終えた。人として普通に生きる事が出来るようになった。
人としていきなり社会に放り出されても困るのだが、それでもまぁ、マシだ。
それなりに借金したが、それでもまぁ、マシだ。
あの時代には二度と戻りたくない。あの場所には二度と戻りたくない。
父は死んだ。私も死んだ。
馬鹿をするのも馬鹿らしく、神でなきゃいけない事も馬鹿らしく、どれだけ踠いた所で死という檻から出られない事も馬鹿らしく、何かを愛するのに勇気が必要な事も馬鹿らしい。
しかし、それらは現実であるが故に「馬鹿らしい」と言って放っておく事が出来ない。皮肉するだけ皮肉して、「ま、自分は違うけどね」と言って見放す事が出来ない。
それが一番、馬鹿らしくて人間らしい。
だから私は、命の事が嫌いだ。どうしようもなく貧弱な命の事が嫌いだ。そこから逃げ出す事が出来ない人間である事が嫌いだ。単に不老不死というだけでは解決出来ないような、社会的問題を抱える人間の事が嫌いだ。
かと言って神様という道具になる事はもっと嫌いだ。死んで無に帰る事には意味が無い。
だから仕方なく生きている。何も分かり切る事も出来ず、断じる事も出来ず、どんな思い込みにも狂気にも断定にも幸福にも染まる事を赦さず、故に哲学から抜け出す事が出来ないでいる。
不確定な世界の中で、幸福を腕に注射して仕方なく生きている。必要ないならそんな麻薬は使わない。ただあの満月のように穏やかであれれば良いのに、穏やかである事でさえ許さない誰かが居る。その誰かとは自分かも知れない、他人かもしれない、得体の知れない社会という全体かもしれない。
それでも、私は満月でも神様でもなく、命を持った人間なのだ。嫌いではあるが、責任があってしまう。
月のように宙に浮いている訳でもなく、神様のように形而上の概念でもなく、延長を持つ存在である為に、場所を取ってしまう業への責任を背負わなければならない。
一つ分の陽だまりに、二つはちょっと入らない。
そして私は死にたいと口にする事をやめて、被害者の仮面を踏み潰して、生きる事を決めたのだ。生きる事は仕方なくても、決して私は不幸ではない。恵まれていなかった訳でも愛されなかった訳でもない。
苦しみに脳内を支配されて、どうしようもなく絶望に塗れている訳でもない。こんな状態で死を望むのは贅沢だと思うから。
嫌いな命を生きるのだと、嫌いな父に誓うのだ。幸福の麻薬を打って、今日という日を乗り切るのだ。
視界がすっかり感情に染まってしまった。
空を見上げると満月の光が真暗な空に揺らめいている。とても眩しい。アレにはならない。
誰かが私に生きろと言った気がした。
今日の夜はとても明るい。私はその『生きろ』という言葉を月光で燃やす事にした。
生への強迫観念を月光に晒すと、ヂリ、ヂリ、と少しずつ言葉が燃えていく。あぁ、父の火葬の時に薫ったあの匂いがする。
懐かしさの中で、全てが燃え尽きた。
燃えカスを、風が何処かへ運んだ。
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お疲れ様でした。
ここまで読んで頂きありがとう御座いました。
え?「お人が違うようだ」?
私達が抱える人格は、何も一人に一つと決まった訳ではないでしょう?
話す相手、内容、その他包括される全ての文脈によって、私達がどのような人間として現実に現れるのかが決められる。
分人に近い考え方かもしれません。
ならば私だって語る内容によって人柄が変わってもおかしくはないでしょう。
そう言う貴方だって、普段とは違う自分としてこの文章を読んでいたのではないですか?
いえ、何となく、ですよ。
ふと、そう思っただけです。