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【思考の切れ端】本当に切れ端。創発の質の違いについてのメモ書き

物理学的な文脈で創発という概念を利用する場合、

「同じ素粒子から全く違う水素とヘリウムが生まれている。何故そんな不思議な事が起こるのかといえば、それは創発という不思議な現象(原理?事実?)が絡んでいるからだ」

と、この場合は確かに事実として変質している。


しかし、イラストに魅力を見出す、といった現象の説明に創発の概念を適用したい場合、

「デジタルイラストの1ドットそれぞれは何の感情も想起させない単色だが、それが複雑に配置された時、ゲシュタルトを発生させ、そのイラストを人間として認識させるのに加えて、その人物に対して何かしらの感情を抱かせる。

ただ色のついたドットを何かしらのゲシュタルトとして見做させるのは、人の脳、或いは認識が現実の情報を仕入れた際、それをユニークな情報として変質させるようなシステムを備えているからであり、それこそが創発を起こすシステムなのでは無いか。」

という事になる気がする。

人の認識フィルターとも呼べるもの。
タンパク質の塊を人間と呼ばせるもの、
ドットの集合体を可愛いキャラクターと見なさせるもの、
文字のゲシュタルトを維持させているもの。

しかし、それらは事実として、変質していない。現実に存在するそれらは、ただのドットの集合体には変わりない。

ここに物理学的な創発と、心理学、認識的な文脈における創発の違いがある。そんな気がしているという話。或いは視点の違いというだけの話かも知れない

例えば私達が素粒子になったとして、彼らの目線で世界を見れば、素粒子は素粒子以外の何者でもなく、
「水」という私達が普段摂取している液体の形で素粒子を認識する事が出来るとは思えない。

私達が大きな人間として、マクロ的な存在として、そうした素粒子の集合体を上から眺めているから、「水」というのが液体になっているだけであり、私達が上から眺める事が無ければ、それらは実の所変質などしていないのかも知れない。

微妙な話だ。事実として、科学的にはそれらは違う物だ。性質が異なる。波動性、ゆらぎ、存在は確率でしか表せない等。

だが観測する物がいなければ?

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