【思考の切れ端】散文:命と妖精の話をしよう。
魔法(生き甲斐、楽しさ、感情)の為に生き、
生きる為に死ぬ(心を無にして作業する、単調に繰り返す)。
確かに死というものにはそれなりの興味がある。
震災、創発、人工知能、哲学、宗教、臨死体験に死後の世界というスピリチュアル。
生を吟味し死を吟味する。生命という神秘的な視点のみならず、創発によってただ組み上げられただけの無機質な構造物という観点からも命を捉え…ようとはして来た。
しかしそれでも、自分は死を正当に扱えているのか。そんなはずは無い。知識不足は元より、死に触れる以上、誰かの死の傷を深く抉る事になる。
それだけの事をして尚、私が死にまつわる作品を描き続ける理由とは何なのだろう?生命とは何かを知ろうとし続ける理由とは何なのだろう?
拙作である『心臓』のように、複雑性を持って、命を生み出すような作品を描く理由は何なのだろう。
アイドルを追ってみて、その眩しさに何よりの命を見るのは何故なのだろう。
「生まれるという魔法を知りたい」、と私は言った。
そしてそれを、「創発による無機質からの変化である」と理解した。
ならば無機質という概念は理解出来る筈だ。それはシンプルな科学や知識以外の何者でも無いが故に。
ならば、自分が今知りたいのは「魔法」という事になる。知識に留まらない感情の質感。或いは「何故経験でしか得られない事があるのか?」という事への答えにもなる。
無機質は知っていて、それが魔法に変化することも知っている。だが、私は魔法を知らない。感情という魔法を知らない…経験でしか得られないなら、無機質な知識の組み合わせでは届かない。
「経験でしか得られない」、とても都合の良い言葉に聞こえる。逃げに聞こえる。だが本当だ。何が本当か?そう思ってしまうのはまだ、創発の膨大な出力結果に触れていないからだろう。
というか、魔法を知らない?そんなはずは無い。私は私の感情を知っている筈だ。ただ忘れているだけ。忘れようとしているだけ。或いは「他人の感情を知らない」だけ。それらを知る為の深い経験を持ち合わせていないだけ。
私の感情は私の物だ。だからそれらは何も気にしなくても、既に私の中にある筈だ。
他人の感情は他人の物だ。それを知る為にメソッド演技などをした事があるが、それにしたって「私が模倣した他人の感情」以上の物にはならない。それらしい物になるだけで、それは他人の感情そのものではない。
私が、他人の感情を知る為にはどうしたら良いのだろう。そんな物は必要ない、世界は相互不理解を前提として回っているのだ、と知っていて、尚知りたいと願うのか?
狂っている、とは思うが、そうやって自分のしたい事から簡単に目を逸らし、否定するのはやめたのだ。
それが命を知る事に繋がるのだから…?
創発という仮説に不満があるのだろうか。『生命とは何か』というテーマの本をまだまだ読まなければならないのだろうか?
というよりそもそも、私は何故、いつから「命、死とは何か」を問い始めたのだろうか。
死に始めたのは思えば中学の時か。
メソッド演技、希死念慮、二重人格による他者理解。
(単純な苦痛からの逃避か、それとも人間である事からの逃避か)
それらの起こりは大体一点だ。今更恨むのも馬鹿らしい話だ。が、馬鹿らしいと言ってその問題から向き合うことから逃げてはいないか?
彼女は人間だったのだ、そして私はその時、自分にとってよろしくない方法を取った。
死とは何か、というより、他者理解の方法を自死によって叶えようとした⇨では死ぬという事を知らなければならない、という感じか。
しかし、死ぬ事では他者理解は叶わない。自死することで得られる視点は「全てがそれだけの無機質である」という事だけだから。
人の気持ちなどそこになく、どんな物にも慈しみを覚えず、肉塊と化し、自分の苦痛さえどうでも良くなる。観測による事実。それ以上の情報はそこには無い。
死とは何か。その答えは主観でしか無い。科学的に答えられる物を、その問いは求めていない。
生とは何か、私達の意識とは何か。その疑問、ひいては存在が此処にあるから、死とは何かという疑問が浮かぶのであって、
もし私達が初めからただの有機体であるならば、私達の肉体はただ集まり有機的反応によって身体を動かし、それが何らかのイレギュラーを起こす事で停止し、腐る。それを死と呼ぶだけだ。
だが、我々はそうではない。そこに人は何らかの「命」と呼ばれる神秘を抱いている。犬を可愛いと言い、隣人を愛し、死を悼み、殺人を憎む。苦しみを嫌い、怠惰をスパイスに、金を求めながら、夕陽に涙を流し、過去の思い出にセピア色のノスタルジーを思い描く。
「それは何故か」という問いの答えを、私は既に自身の中に持っている。そして誰も正しいと言える答えを持ち合わせない物なのだと思っている。だからずっと「命とは何か?」という問いが人類の間を渦巻いている。
だから私はこの創発仮説が正しいとも言わないし、私に証明出来るような物でもないのだろうと思っている。
しかし、人工知能との比較や、vtuberに見る「魂」のような物が、命とは何か?を明らかにしつつあるような気はするが。
だから、今私が問うべきは「それは何故か」では無く、「それは何か」という事である。
「命とは何か。」それを問う為に人に触れる事が必要なのだ、と。
命とは交流によって生まれる何かか?
仕事の根幹となる「他人の役に立つ」事による循環的交流によって編み上げられる何かか?
ならば、孤独は命と言えるのか?いや、完全な孤独などあり得ない。何かしらの情報は与えられ、また与えている。その実感が自らを命と認識させているのか?
シンプルに、物事に沢山感動して、失敗して、泣いて苦しんでみろ、という事か?
生を知って初めて死が理解できる。
作品を作っていたのは、作品に魔法や命を見たからで、自分も吹き込みたいと思ったからだが、それなりに作るようになった今では、それが無機質の積み重ねであり魔法も命もそこには無いと知った。他人に魔法を見せる事は出来るが、自分で魔法は見られない。見ても仕方ない。
見ないと決めたなら見ない。イラストにも見ない。その代わりに自分が命を見せられるようになる。それが技術を得るという事。
他人の感情を知りたかったが、知識やメソッド演技等で「自分が他人の感情を模倣する」以上の事は不可能である。また、それより上の望みを叶える魔法のような手段も存在しない。
自分が死ぬ事によって望む他人になれるかと思ったが、それはメソッド演技以外の何者でもない。自分はフェミニストにもなれなければ、経験していない職の人間の気持ちも苦しみも大して理解出来ない。高校で自殺する人の気持ちも分からない。恋の気持ちなどほぼ微塵も理解出来ない。
自分が経験した事を元手に自分なりの解釈をする以上の事は、他人理解という観点から言えばそれ以上の事は出来ない。
死ぬ手段は得た。メソッド演技も得た。それでも役には立たない。他人の苦しみを理解する為の経験は、人間が持つ時間は有限である為に数が限られる。
矛盾するのだ。だから。
「死や苦しみを冷静に見る事で、死や苦しみを描ける」一方、
「冷静であるが故にそうして描いた物からは感情が抜け落ち、死や苦しみを踏み躙る行為に繋がる」。
その矛盾を抱えなければならない。
今まで自分は死のうとして来た。死ぬ事で全てを冷静に捉え、そこに苦しみも喜びもなく、魔法にも騙されず、誰をも感情的に傷付けないような、そんな存在であれるなら、それ以上の事は無いと思ってきた。
そんなはずは無い。なかった。それだけの話なのだ。
「死んだ自分、死に向かおうとする自分」と同時に、
「生きようとする自分、感情や魔法の非効率さを認める自分」
の認識が無ければ、「命とは何か」を出来る限り知る事は出来ない。
それでも他人の命を知り切る事には程遠いが、自分に出来るのはその位だ。これが、結論だ。