見出し画像

【思考の切れ端】ただ、夢幻の月光に静か。

0.頭痛塗れのアペタイザー

 今日は良く耳が冴える日でした。けれど身体の節々が上手く動かず、脳内に茨が刺さったように頭が痛む。情報を過度に摂取した証でした。

 棘の刺さった脳みそをベットに横倒しにするとある程度は落ち着くのですが、この慢性脳不全はどうにかならないものかと、それこそ頭を悩ませているのです。要するに、この頭痛は私にとって慢性的なものである。それだけの話です。大した病気とかではないですよ。ただ迂遠さが心地よいだけです。

 何故そんな慢性病を抱えるに至ったのでしょう?、まあ、人間として生きるのが不得意だからでしょうね、私は。それを生きづらさの言い訳にするつもりは毛頭ありません。今のところ「不得意」なだけであって、「生きられない」訳ではないのですから。それにしたって神様が何故私を人間として産み落としたのか、ちょっと不思議には思うのです。

1.普通、音波はぐちゃぐちゃです。

 そういえば、以前は鈴虫の音がとても澄んでいました。「以前は」と言っても、じゃあ今の鈴虫の奏でる音色は濁っているのか?と言われると、恐らくその通りで、けれどもそれは鈴虫に非があるわけではないのです。

 とても多くの情報が、耳に入るようになってしまった。それも、難しすぎて思考停止が出来るような情報ではなく、簡単に理解できるような情報(それでもその本質は専門家になってようやく理解しきれるような深遠なもの)、或いは理解は難しくとも情動が動かされるような情報。

 鈴虫の純粋な音色と共に、それらの情報が耳に入ることが簡単になり、結果として、私の耳に入る情報が「濁ってしまう」のです。ノイズが混じってしまう。

「おお、なんと嘆かわしい?」まあ、そうかもしれませんが。私はこの現状を別に嘆きません。ただ、そういう事実であるだけです。

 そしてまた、少し生きづらくなる。整理に労力を使う。けれど私はそういう時代に生まれた。それだけです。嫌なら改善する努力はしますが、それが完全に叶えられることなどまあ、そうそうない。知ってますよ。そんなものです。というか、私を包む現実はそういうものです、と表現するのがより正確でしょう。他の人を包む現実が、どういう隣人さんなのかを知る由はありません。

2.人の芯に巣食う焼身自殺機構

 残酷ですか?夢もロマンもない。けれど、そういうものです。

「もっと優しい現実さんだったらよかったのに」。憧れるのですか?隣の芝は青いですか?それでもその芝の中に私はいません。そういうものです。

 憧れ、希望、理想、夢。何でしょうね。それ。

 私たちの見ている理想はとても個人に都合のいい幻覚だ。現実に即した、非常に脳内御花畑の幻覚だ。ただ、その幻覚を無理やり現実にするパワーを持つ狂信家が、スタートアップなり起業なりをするのであって、別にそれだけだ。そういう能力のある人が、幻覚を形にする役割を担い、そういうパワーがなくたって、現実を維持するという仕事は十分重要な仕事だ。

 けれども、その幻覚は眩しく熱を持つ。そして幾人かはその熱に焼かれて死ぬ。

 何故私たちは、そんな幻覚を見るんでしょうね。どうあがいても非現実的な嘘を、レミングスの如く自殺幇助となる幻覚を。進化は生存を優先するような変化のことを指すはずだったのに、何故その最新版である私たちは未だに、夢を追いかけて焼け死ぬのでしょうか。

 仮説ですけど、自分なりの答えとして。

 進化はあくまで全体的なものなんです。個人の生存ではなく、全体の生存が優先される。だから、夢を追いかけた人間の遺産が、ノーベル賞レベルのもので、それが人類全体の寿命を延ばすならそれが進化にとっての正解なのだろう、と。その可能性がある限り、進化の産物である私たちは夢への焼身自殺を否定しきれない。それは無謀だ、とやんわり止めても、法律で決定的に権利を束縛することはしない。半端ですね、それ。

 そしてそのような大きなモノが、夢を追いかけ命をすり減らして生まれたエネルギーによって生み出されるのならば、自分の命を顧みず個の生存のリミッターを外すことが出来る人間がいる。

 それは、かつて命を救われた経験に射す後光に脳髄を焼かれたり、唯一理解を示してくれた友人の言葉に宿る熱に聴覚野を燃やされたり、貧困を目の当たりにした使命感に理性がショートして焦げ臭くなったり、

 そういう経験をした人間が、その経験に夢や希望を植え付け、育て、現実に花開かせるために、水をやる。その水は汗だったり、血だったり。致死量の水分を絞り出したところで、花開くかどうかは分からないのに。

3.それでも私は、何を望むのか

 憧れ、希望、夢、理想。幻覚だと思ってます。なぜならそれらは現実ではないから。けれども、とても素晴らしい幻覚。憧れ、希望、夢、理想という言葉は耳障りも良くポジティブで気持ちいいですが、私は都合のいい気持ちよさが嫌いです。エンタメならまだしも、何かを語るときには中庸でなくてはならない。だから、ポジティブな意味を含む「理想」を使わず、「幻覚」と呼ぶ。

 そして私は、「静かな世界」に憧れている。

 とても多くの情報が耳に入るようになって、それを低品質な情報だ、消費されるコンテンツの大量生産だ、と語る人もいる。確かに、鈴虫の音色は聞こえづらくなりました。そして私はそんな現実を生きづらいと感じている。
 
 けれどもこれはただの事実です。改善できるなら改善する。できない、分からない、あるいはしなくてもいいならしない。そういうものです。そして私はそれらをある程度改善できる。

 だからこそ情報を整理し、切り離すことは、私にとってそれなりに大事だった。

 別にこれは一般の方に向けた啓蒙ではないので、(現にTwitterを情報の濁流を楽しむ場として使う方もいるでしょう。)私はそう思った、そう感じた、というだけですが。

 だから、そうやって整理して、静かになって、外の世界の音波のうねりに揉まれた頭の中を空っぽにして、鈴虫の音色に耳を澄ませる。
 時間が収束して、尻すぼみに空間が引き伸ばされていくのと共に、頭蓋骨の裏に耳を澄ますと、痛みの向こうにちゃんと澄んだ鈴虫の声が聞こえてくる。それを聞いていると、だんだんと眠くなってくるんですよ。

 そこまでしてようやく私は、月光に包まれ、静寂の中、緩やかに明日に向けてちょっとした死を迎えることが出来るのです。どうです。中々面倒でしょう。

いいなと思ったら応援しよう!