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人物④:嫌いな人よ 安らかに その2

前回の続きである。
そう、つまりは、僕の嫌いな人である「人物④」が亡くなったのだ。
まずはご冥福をお祈りいたします。

そして、今に至るまでの経緯の説明から入ろうと思う。
残り2週間程度で亡くなるだろうというのが前回の投稿のタイミング。
その翌週末に女優の樹木希林さんが亡くなられ「あぁ、そうなんやぁ」と思っていたら3連休明けの火曜日に格闘家の山本KIDさんが亡くなられた。会社の皆と「なんか、続々とやなぁ。あの世は盛り上がっとるなぁ」と冗談めかして、でも、亡くなろうとしているベテラン社員のことが常に気になるそわそわした時間を過ごしていた。(その樹木希林さんが亡くなられた土曜日にも同僚の1人はお見舞いに行っており、かなり容体は悪かったとの報告も有り)。
そんな火曜日の昼過ぎに高校時代からの付き合いとなる友人からLINEのメッセージが届き、「おとんが逝ったわ」とのこと。僕はびっくりして思わず声をあげてしまったほどだ。
予期せぬ友人の父親という、近いようでそれほど近くはない人物(直接の面識はないし)の訃報にも触れて、何やらますます『死』に対する距離感に緊張感が高まる感じに・・・。

その火曜日の夕方である。東京本社の社員から連絡を受けて、ベテラン社員が亡くなったことを知らされた。しかも日曜日に既に亡くなられ、お通夜・お葬式を既に済まされたとの報告を旦那さんからうちの社長が受けたそうだ。
拍子抜けした、というのが最初の感情だった。
「なんや、もう亡くなってたんか・・・」という言葉が頭の中に流れた。

亡くなることが分かっていた存在ではあるから気持ちは落ち着いていたし、僕個人の感情としては悲しいことはなかった。寂しいという気持ちが起こったような気もするけれど、それは周りの反応に影響を受けた結果のような気もする。(女性社員は泣いたりしていた)
逆に、これで本当に会社からいなくなったんだという安堵のような気持ちも起こっていた。(理由は前回の投稿をご覧ください)
そして拍子抜けした気持ちの延長に、お通夜を見られなくて残念だなぁという実感が芽生えた。
楽しみにしていたと書くと語弊がありまくるが、興味を持っていたのは否定できない。(この投稿、「嫌いな人よ 安らかに その2」を書く為でもある・・・)

どうやら最後は北海道から兄弟も駆け付けられたようで、看取ったのは旦那さんだけではないようだったが、お通夜・お葬式がどんな風に執り行われたのか、そしてどのような人達が参列されるのかを見たかったと残念に思う。
その代わりというとまたまた語弊がありまくるのだが、先ほど述べた“高校時代からの友人のお父様”のお通夜が水曜日の夜に執り行われるとのことで、その友人は僕自身の父親のお通夜に駆け付けてくれた経緯もあり、彼の為に参加することにした。

京都の少し郊外で執り行われるとのことで、水曜日の仕事終わりに駆け付けた。なので、僕が付いた頃には一通り全て終わったあとで、パラパラと駆け付けた人が来ては帰るという状況であった。でも、会場の大きさや花束の数、そして友達の話から、多くの弔問客が来られたのだろうなぁと想像ができる場所だった。
70歳を超える年齢であったが、長年勤めていた会社(誰もが知っている大手電機メーカー)からも花束が届き、また技術者・研究者であったことから、当時の発明品が社内で賞を取ったりした際の賞状なども飾られてあった。
つまりは、多くの人に影響を与えた人物であり、またその息子である僕の友人も人望があるようで勤めている会社からも多くの弔問客が来られたようだ。なかなか賑わいのあるお通夜だったといえるだろう。

僕はその友人のお父様のことを知っているわけではないので、その人物評をするつもりはない。
ここで書きたいのは、『どんな葬式が良いかなぁ、自分の時は』という切り口から“嫌いな人”の話を締めくくりたいと思う。
僕は考えた。不謹慎ながら友達のお父様のお通夜を見ながら、そしてその帰り道に、考えた。
理想とまでは言わないが、自分が願うお通夜・お葬式を想像もしてみた。

結論としては、「何歳で死ぬかによって全然違う」である。

もし、数年後の40代で死ぬなら、子供たちもまだ小さいし、お父さんは素敵な人だったと思って欲しいから盛大に、人が続々と集まるような感じが望ましい。(実際はそれほど来てくれないだろうけど笑)
もし、嫌いなベテラン社員のように50代なら、僕の父親と同じ60代なら、友人の父親のように70代なら、、、。
そして僕は常々長生きしたいと考えていて100歳~120歳という寿命が叶うなら、おそらく親しい友人達はもういないか、元気に駆け付けられるわけじゃないだろうから、ひっそりやるしかないなぁとか・・・。

そして、さらに考えを進めた。
どのタイミングであろうが、共通することはあるだろうか。

ひとつ目は、悲しまないで欲しい、ということ。
ふたつ目は、僕という存在を面白がって欲しい、ということ。

悲しまないで欲しいというのは言わずもがな、だ。
僕の考えでは、人が死ぬということは悲しい出来事ではない。(とても寂しい場合はあるけれど。)
ただ、交通事故のように急に、いわれなき死を迎えてしまうと、残された者にとって悲しい出来事になってしまうだろうから、それは避けたいと強く願う。

ふたつ目が今回発見した要素である。
僕は基本的に良い奴だから、僕のことを知る人たちは「あの人は良い人だった」と思ってくれるだろうし、家族にもそう伝えてくれるかもしれない。
でも望むところはそこじゃない。良いエピソードであれ、悪いエピソードであれ、「あいつは〇〇だったなぁ~」と面白がってくれることがポイントなのだ。
良い話や素敵な話はもちろん、悪い話、失敗話、バカ話だって振り返ってみて、面白がることはできるのだ。(なにも笑うばかりではない。へぇ~と驚くことだって面白がるに含まれるつもりでいる)
そう、僕が嫌いなベテラン社員にしたように、だ。
死にそうになってから、社内では折に触れ、彼女の数々の嫌なエピソード、おぞましい仕打ちのこと、いかに会社に不利益を与えたかについて・・・などなど、恨むでもなく、憎むでもなく、面白がって皆と話をした。下記に一部抜粋する。

・スタッフに向かって給料を投げつけた、とか
・この人のことが嫌い過ぎて、ある日社員が過呼吸になった、とか
・ある業者にクレームを1か月ほど入れ続けて、結果自分のミスやった、とか
・昔、在籍していた取締役が6000万円の横領をした際に加担した、とか(事実)
・私はタバコを吸ってるけど、肺に入れてないから害はないのよ、とか(事実無根)

うん、とても面白いww
嫌いな人だったけれど、死んで欲しいわけじゃなかった。だからといって、悲しい気持ちにはなれないから、せめて、彼女の思い出を面白がることで、彼女の存在を(大げさに言えば人生を)しっかりと認めてあげることができるかもしれないと、無意識に思ったのだと気づいた。

供養ということばを使うほど僕は厚かましい人間ではない。でも、僕なりに彼女のことを見送れたと思う。また、彼女のおかげで、「僕が死ぬとき、どのようにされたいか」を知ることができたことに感謝をしている。

嫌いな人、安らかにお眠りください。合掌。

企画会社の社員。ある日、苦手な人との電話中に発疹が出てきて、全身に広がったため、皮膚科に駆け込んだところ、ストレス性の蕁麻疹と診断される。気持ちを落ち着かせるためにnoteを始める。