代表自己紹介
「このまま開発職でいたら、ゆくゆくどうなるんだろうね?」
「とりあえずリーダーになって、ゆくゆくは開発部長とかかな。グローバルは考えもしないよね。」
20代の時、同期でそんな話をしていた時、頭によぎった。
「開発部長。うーん。ピンとこない。どうせなら社長になってみたい。」
父の実家は戦時中、三軒茶屋で武器工場をしていた。
戦争特需で栄えたらしいけど、父が14歳の時に肝硬変で亡くなってしまい、そこから没落してしまったらしい。
その後、父と兄は、同じガス工事会社に勤め、そこから二人三脚で頑張って、会社は上場し、兄は社長、父は取締役になった。
母の実家は、淡路島でホテルを経営していた。
バブル期に大規模なリノベして、そこそこ人気のホテルだった。
でもその後、明石海峡大橋ができて日帰りできるようになってしまい、思うように業績が上がらなかった。
リノベの時の多額の借金が思うように返済できず、結局事業譲渡してしまった。
結果的にごく普通の家庭で育ったが、どうやら起業・経営の血は脈々と受け継がれていたらしい。
ただ、自分が幼い時は、普通のサラリーマンと専業主婦のごく普通の家庭に育ち、学校も高校まで地元の公立高校。毎日野球に明け暮れ、現実的な夢も持たないものの、熱しやすく冷めやすい性格を持つちょっと過集中系のマイペースな若者だった。
でも、19歳の秋、一浪中で大学受験を控えていた時、平和な一家に戦慄が走った。
父に突然の末期がん宣告。
B型肝炎からの肝臓がん。自由気ままな父は健診もろくに受けていなかった。自業自t…
「疲れが取れない」「背中が痛い」と言って病院にかかったっきり、そのまま緊急入院。そこから一度も家に帰ることはなかった。
肝臓は2倍以上に膨れ上がり、すでにインオペ。当時は肝がん治療薬は何一つもなく、緩和医療のみ。
緊急入院からわずか3カ月弱で、父はこの世から去った。
私はそれまで、化学系に進み、大好きなスキーに関わる仕事がしたい。できることなら、スキー板の開発にでも携われたらいいなと思っていた。
でも、父の死により、将来のことを真剣に考えるようになった。
「でも、どうすればいいんだろう」
そう思い悩む日々を過ごした。
ある時、父が入院時にお気に入りだった若い男性薬剤師のことを思い出した。
当時珍しい病棟薬剤師。
「薬剤師って薬の調合だけじゃないんだ。患者さんと話をして、精神的なサポートにもなるのか。」
「自分も父のような人を助ける薬剤師になろう」
と思い、急遽進路変更して、薬学部に進むことに決めた。
そして、近いからを理由に三軒茶屋にある薬科大学に進んだ。
後で聞いた話だが、大学の周りは父の遊び場だった。
その後、病院薬剤師になろうとして、専門の大学院まで進んだ。
そこではアメリカの臨床薬剤師をモデルにして、日本でも薬剤師が薬物治療の専門家として活躍するビジョンを掲げていたが、当時は病院の就職案件はほんのわずかで、かつ、薬剤師が活躍できる病院はほとんどなかった。
「どうせなら、アメリカに渡ってPharm.D.になれないものか」
と考え、提携していたシカゴ大学への編入も一時考えていたが、我が家にはもうそんな経済的余裕はなく、国内での就職に腹をくくった。
一方で、私の興味を引いたのはEBMの世界。大規模臨床試験を行い、統計学的に薬のエビデンスを確立する。まさに臨床開発、治験の世界だった。
また同時に、当時はドラッグラグが社会問題となり、日本の医薬品開発も変革真っ只中の時代だった。そして、CROの黎明期であり、グローバル規模で様々なメーカーの開発を支援するという、世界観の大きさや新時代感に惹かれ、米系CROに就職した。
その頃の外資CROは内資と外資のいいとこどりで、程よく風通しがよく、程よく皆が顔見知りで会社もいい雰囲気だった。
仕事も新卒の時から様々な機会を与えてくれた。入社3年目で自社の新卒研修プラン構築のリード、海外本社やUSの施設訪問、会社初のICCでオンコP1のプロジェクト担当、そのP3の営業のためにドイツでのプレゼン、父が命を落とした肝臓がんの治療薬開発にも携わることができたりと、チャレンジングかつエキサイティングで、出張か終電かの毎日を過ごしていた。
しかし、そんな充実した日々もずっとは続かなかった。
ZD創業ストーリーに続く。