トリスタン文書 【3-1】 ステフィン・カリーと二人の名手
トリスタン文書 〜バスケットボールの定理を求めて〜
第3部 トリスタンXの推理
盗まれたカード
苛立たしげに書斎を歩き回るメフィスト(仮名。a.k.a タイラー・”ゴリャートキン”・ダーデン)。
トリスタン(身長不明。姓不明。コーンウォールの騎士。マーク王の甥)、やってきて、真夜中に戸を叩く。
メフィスト トリスタンか?
トリスタン いかにも。我が名はトリスタン。バスケットボールの聖杯を探す円卓の騎士の一人です。
メフィスト 今日はまた一段と変わった出で立ちだな。
トリスタン 別に時代劇をしているわけではありません。これが私の普段着なんです。
メフィスト ……(じっとトリスタンを見つめる)。
トリスタン 私はトリスタンです。
メフィスト ああ、お前を信じるよ。ところで、後ろにいるのは誰だ?
トリスタン 彼女はゾルデ。アイルランドの王女です。
ゾルデ イ・ゾルデと申します。
トリスタン 私が今夜ここに寄った後、そのまま第七の門へ出発して、さらにその足でドラゴン退治に向かうと言ったら、見送りについてきてしまったんです。
ゾルデ 「ついてきてしまった」なんて、迷惑そうに言わなくてもいいでしょう、タンタン。
メフィスト タンタン?!
トリスタン いや、ほら、誰にでも愛称というものがあるでしょう? シャックとか、ペニーとか……。
メフィスト たしかにお前が各国によって、トリストラントやトリスターノ、トリストラムなどいろいろな名前で呼ばれているのは知っていたが、タンタンとは驚いたな……。
トリスタン 人前でタンタンと呼ぶのはやめてくれと言っているだろう、プリンセス。
ゾルデ 別にいいじゃない。それとも、麻薬がらみでまだ幼い子供を殺したノーマン・”スタン”・スタンスフィールドみたいに「スタン」と呼ばれたい?
トリスタン いや……それよりはタンタンのほうがいいけど……。
メフィスト これは……。円卓の騎士の中でもランスロットと最強の座を争うと言われるお前が、アーサー王のほかに頭が上がらない人がいるというのも驚きだ。
トリスタン それは過大評価というものですよ。私なんて、ランスロットの足元にも及びません(ランスロット…おまえがナンバー1だ!!)。
それはそれとして、私は彼女に負い目があるものですから……。
メフィスト 負い目?
ゾルデ タンタンは私の叔父を殺したんです。
メフィスト なんだって?! 今夜は驚くことばかりだな。
トリスタン それは、私がまだ若く、騎士になる前のことです。とある事情で故国を追われた私は、伯父にあたるマーク王が治めるコーンウォールに身を寄せていました。当時、コーンウォールはアイルランドに長い間貢物を贈っていたのですが、ここ数年はそれが滞り、争いが起きていた。そこでマーク王は、互いに騎士を一人ずつ選出し、貢物をかけて決闘を行おうと提案します。そしてアイルランド代表として名高い騎士であったモルオルトがやってきました。ところがコーンウォールの騎士は腰抜けばかりで、誰一人、代表に名乗り出る者がいません。私は早く騎士になりたくてしかたなかったので(騎士になるためには、主君から叙任を受ける必要があるのです)、コーンウォール代表としてモルオルトと戦うことを志願しました。
マーク王は渋々ですが、私の願いを聞き入れ(なにしろ、他に選択肢がなかったものですから)、王はすぐに私を騎士にする叙任式を執り行い、私はモルオルトと国を代表して一対一の決闘をすることになったのです。
メフィスト つまりそのモルオルトというのが……。
トリスタン アイルランド王妃の弟、ゾルデの叔父というわけです。
メフィスト なるほど。お前たちの間にはそんな因縁があったのか……。
トリスタン あの頃の私は若かった。今では遠い昔の話です……。
メフィスト ところで、今夜お前に渡すはずだったカード、第七の門を通るための合言葉の最後の言葉が書かれたカードだが……事情が変わって渡すことができなくなった。
トリスタン えっ……? どういうことです? 約束が違うじゃないですか?
メフィスト 仕方ないだろう。そのカードは盗まれてしまったんだから。
トリスタン 盗まれた?!
メフィスト お前がこの間俺を訪ねて来た夜に、第3のカードは盗まれたんだ……。
トリスタン ……! ちょっと待ってください。私が盗んだと疑ってるんですか? 冗談じゃない。断じて違いますよ。だいいち、私には動機がありません。後日またここに来たらカードを渡すと言われているのに、わざわざ盗む必要がありますか?
メフィスト 一日でも早く第七の門内に行きたいと思えば、カードをフライングゲットしたくなるかもしれない。
トリスタン でも、もしそうだとしたら、つまり、私がカードを盗んだのだとしたら、私はすでに第七の門を通過しているでしょう。今夜、ここに来ているはずがありません。
メフィスト そうとも限らないぞ。七つのドラゴンボールを集めても世界征服ができるとは限らないように、たとえ3枚のカードを揃えたとしても、そこに仕掛けられた暗号を解読できなければ、真の合言葉はわからない。お前はすでに第3のカードを手に入れたものの、どうしても暗号が解けずにそのヒントを求めて再び俺のもとにやってきたのかもしれない……。
トリスタン ……。
メフィスト ……。
トリスタン ちょっとちょっと、そんな目で見ないでくださいよ。本当に私じゃないんですって!
……あっ! わかった! 犯人がわかりましたよ!
メフィスト なに? 本当か?!
トリスタン 間違いありません。やつらですよ!
メフィスト やつら……?
トリスタン 私たちの行く手を阻もうとするやつら、海賊のようなやつらがいるって、以前言っていたじゃないですか?
メフィスト ああ、やつらのことか……。それはどうだろう? やつらは物語なんか読まない。そんなことは時間の無駄だと思うだろうから、やつらはこんなところまでは来ないと思うが……。
トリスタン 人の領地に勝手に入り込み荒らして回る輩、中世でいえばヴァイキングのような輩は、いつの時代にもいるものです。今ならば、やつらが荒らすのは物理的な土地だけでなくインスタやツイッターなどもその対象になるでしょう。やつらが自分の領地にいる分には無視していればいいですが、やつらはこちらの領域を侵略してくるからたちが悪い。”彼”も、そういうやつらを近寄らせないために、門に門番を置いて合言葉を設定したわけでしょう?
あなたは以前言っていましたね。それは合言葉というより誓いの言葉だと。”彼”は、ネット上で他人を攻撃することに躍起になっているような者が門の中に入ることを許さないだろうと。
そして、合言葉の文字数は彼が好きだった背番号3のNBA選手、そのフルネームの文字数と一致するとも言っていました。その選手とは、”ジ・アンサー”のニックネームで知られるアレン・アイバーソンでしょう? Allen Iverson は12文字。そこから第1のカードと第2のカードに書かれた言葉の文字数を引くと、残りは7文字。盗まれた第3のカードに書かれているのは、7文字の言葉のはずです。
ゾルデ タンタン、おみごと! 名推理!
トリスタン いやいや。ここまでは推理でもなんでもない。ただ事実から導き出される当然の帰結です。ここから先、第3のカードに書かれている言葉を当てようと思ったら、本当に推理力が必要になってくる。とても私の手には負えません。カードを盗んだ犯人を探し出して、カードを奪い返した方が早いでしょうね。もちろんそれは私ではありません。
メフィスト 犯人探しはそう簡単にはいかないかもしれないぞ?
トリスタン 別に急いではいませんから。そしてもし犯人が見つからない場合にも、我々には最後の手段が残されています。
メフィスト 最後の手段?
トリスタン ”彼”に直接、その言葉を聞くことです。ビールやフェルマーは謎を謎のままにして死んでしまいましたが、幸い”彼”はまだ生きています。そうでしょう?
メフィスト 今のところは……。
トリスタン そう。今のところは……。ですが、それは本当に最後の手段です。私も名誉を重んじる騎士のひとりですし、彼のことをリスペクトしていますから、いきなり彼に詰め寄って合言葉を教えろとは言いません。まずは私の無実を証明し、盗まれたカードを探し出す最大限の努力をすべきでしょう。
メフィスト さすが、アーサー王が騎士の中の騎士、最も尊敬に値する騎士と称えるトリスタン。名誉と礼節を重んじる態度はさすがだねえ。
トリスタン まあ、「時によっては。時間に余裕があるときにはね」。
メフィスト もちろんそうだろう。そして「遅すぎるなどということは決してない」。
ゾルデ ……? これはフィリアス・フォッグと……パスパルトゥー?!
ステフィン・カリーと二人の名手
トリスタン 第七の門の向こう側には、半世紀ほど前に210cmのギガント(巨人族)を倒した伝説の勇者がいると聞きました。ドラゴン退治に出発する前に彼女の話をぜひ聞いておきたいのですが、慌てなくてもドラゴンは逃げませんからね。
メフィスト おっと、その方のお名前を軽々しく口にするんじゃないぞ。なにせ彼女は1975年の世界選手権で得点王とMVPをダブル受賞し、日本バスケットボール史上最高の選手と誰もが認め、”不世出の天才”とまで呼ばれるお方だ。しかも、その3年前にオリンピックで得点王を獲得した谷口正朋(彼のシュート力に比肩しうる選手はいまの日本には存在しないとまで言われる名シューター)はすでに鬼籍に入ってしまったが、彼女は神話の時代を生き抜き、今もまだご存命である。
トリスタン 彼女の偉大さはよくわかっています。一部バスケファンの間では、彼女以上の選手は今後日本に現れないだろうとまで言われていることも……。
メフィスト 個人的にその意見には賛成しかねるな。時代が違うため簡単には比較できないが、あの”不世出の天才”の領域に肉薄した選手が、その後、日本女子バスケ界に少なくとも二人はいるんじゃないか?
トリスタン あの天才の領域に? しかも二人もですか?
メフィスト そうだ。
トリスタン いったい誰なんです?
メフィスト 誰だと思う……?
トリスタン そうですね……。たとえば日本人初のWNBAドラフト指名を受けた萩原美樹子さんと……、日本女子初のプロ契約選手であり、フェニックス・マーキュリーでキャンプ契約からスタートしながらロスター枠を勝ちとって日本人二人目のWNBA選手になった大神雄子さんとか?
メフィスト 違う……。
トリスタン ……?
メフィスト 一人は矢野良子……。もう一人は三好南穂だ。
トリスタン み、みよしぃ?!!
メフィスト ……だいぶ驚いてるな。
トリスタン たしかに驚きました。こんなところにも「三」が……。
メフィスト おやおや、すっかり脳が謎解きモードになってるじゃないか。
トリスタン それはもう……。あなたの話す一言一句があやしいですからね。あなたとの会話では一瞬も気が抜けません。どの言葉も合言葉を探るためのヒントのように聞こえますし……、だいたい『バスケットボールの定理』のスピンオフがどうして『トリスタン文書』なんです? あやしいといえば、すべてがあやしすぎますよ……。
メフィスト おっ、いいねえ、トリスタン。いまのはよかった。考え方の方向性としては間違ってない。
トリスタン それはどうも……。
メフィスト これはあくまで個人的意見だが、”リョウ”こと矢野良子と、”サン”のコートネームで知られる三好南穂は日本における史上最高の善射、その双璧だと思っている。
トリスタン 「善射」とは大きく出ましたね。意図はわかりますよ。善射とは弓の名手のことですよね。「善射」という言葉を使うことで、あなたは彼女たちを4000年を超えるながい長い歴史の中に位置付けようとしているんでしょう?
メフィスト まさに。アーサー王伝説はたかだか1500年ほど前の話だが、『論語』の中でも「羿は射を善くし」と語られるほどの伝説の善射・羿は紀元前2000年以前、尭帝の時代の人物だ。もっと議論の射程を広げてみようか? 狩りと戦において、生きるために重要な技術のひとつであった弓の名手は先史時代から人々の尊敬を集めてきたし、現代のアメリカにおいても善射は尊敬の対象だ。また現在バスケットボールという競技が世界中の人々を魅了している理由も、バスケットリングにシュートを決めた瞬間に誰もが感じるあの快感の正体も、太古の祖先から連綿と受け継がれてきた俺たちの記憶と関係があるのかもしれない。
トリスタン 人々の尊敬を集めた伝説の善射は我が英国にもいますよ。ブルフィンチは『英国民族の英雄伝説』で「good archer」という言葉を使っていますが、「善射」同様、日本語に訳すと弓の名手です。彼は「シャーウッドの森」に隠れ住むならず者、ただし貧しい者の物には手もふれず、金持ちや僧院から盗み取ったものを貧乏人に分け与えて民衆の間で無類の人気者となった英雄、ロビン・フッドです。
ロビン・フッド伝説のもっとも知られている物語を紹介しましょう。
彼は宮廷での弓術の試合に名前と身分を偽って出場し、決勝まで勝ち上がります。決勝の相手は王配下の貴族・ヒューバートでした。ヒューバートが1本目の矢を射ると、矢は的の内輪に刺さりますが、ど真ん中ではありませんでした。
「君は風の具合を考えなかったようだね」
ロビンはそう言いながら射出場所に立つと、よく狙いを定めもせず無造作に矢を放ちます。すると矢はヒューバートより5センチ内側を射抜きました。
見物人たちは見慣れぬロビンよりもヒューバートに声援を送り、ヒューバートは2本目の矢を今度は風を考慮に入れて放ちます。すると、矢は的のちょうど真ん中に刺さりました。
「ヒューバートよ、永遠なれ!」
見物人も大騒ぎで、誰もがヒューバートの勝ちを確信しました。
ところがロビンが、「私は彼の矢がら(矢の軸)を狙いましょう」と言って、前より少し慎重に狙いをつけて矢を放つと、その矢は正しくヒューバートの矢がらを射てそれを木っ端微塵に砕いたのです。
これには観客たちも度肝を抜かれます。
「こいつは悪魔に違いない。これは生きた人間のしわざじゃない」
王の義勇兵たちは囁き合いました。
「ブリテンに弓ができてからこのかた、こんな射手は見たことがない」
このときロビン・フッドは、英国史上最高の射手となったのです。
観戦していたジョン公もすっかりロビンの技に感歎し、試合の賞金20ノーブルを彼に与え、もし王の義勇兵に加わって自分に仕えるならば金貨を50ノーブルに増やしてやろうと言いますが、ロビンはそれを断り、賞金の一部をヒューバートにも分けてやると、再びシャーウッドの森へと帰っていきました。
メフィスト たしかにその弓の腕は悪魔的だ。ロビン・フッドもなかなかやるな。
トリスタン でしょう? これこそ善射の名人芸というものです。的に刺さった矢の矢がらを射てそれを木っ端微塵に砕いたというのはちょっと現実離れしていますが、常人には不可能な行為だからこそ、それは伝説として語り継がれているのです。矢野さんや三好さんを羿やロビン・フッドのような伝説の善射、good archers の系譜に連ねるのは無理がありませんか?
メフィスト どうかな? お前は、2021-22シーズンにWリーグで三好が記録したシュート成功率を知っているか?
トリスタン いいえ……。
メフィスト そのシーズン三好は .547 / .520 / .919 のスラッシュラインを記録した。
トリスタン えっ……? それはつまり、54.7%のフィールドゴール成功率、52.0%の3ポイント成功率、91.9%のフリースロー成功率を記録したって意味ですか?
メフィスト そうだ。
トリスタン とはいっても、せいぜい数試合の記録でしょう? シーズン平均じゃないですよね? もしくは成功数が極端に少ないとか……。
メフィスト 1シーズンの規定をクリアした上での記録だ。
トリスタン ……! またまた、冗談でしょう?
メフィスト ウソだと思うなら、ここの「21-22 Wリーグ レギュラーシーズン」の成績を見ろ!
トリスタン これは……悪魔的だ……!
メフィスト そうだろう? これが人間のしわざに思えるか?
トリスタン ちょっと、鳥肌がやばいです……。一瞬、あの漫画の言葉を思い出しました。「奇蹟は誰にでも一度おきる」というやつ……。
メフィスト 「だがおきたことには誰も気がつかない」
ゾルデ ……それも『スラムダンク』?
トリスタン いいや。カズオ・ウメズだよ、プリンセス。
メフィスト ……?
トリスタン その漫画の中では、数字を羅列してラブレターを書いたりするんだ。何を言ってるのかわからないと思うけど……。
ゾルデ カズオ・ウメズね。今度読んでみましょう……。
それでタンタン、その三好さんの記録はそんなにすごい記録なの?
トリスタン すごいなんてものじゃない。アメリカではNBA選手、WNBA選手の誰一人としていまだ到達したことがない夢の記録だよ。
メフィスト そういえば、お前はNBAの元・騎士団のセンターでもあるんだったな。
トリスタン NBAには、50-40-90 クラブというのがあります。フィールドゴールで50%、3ポイントで40%、フリースローで90%以上の成功率をシーズン平均で達成した選手のみが入会を許されるクラブです。
ラリー・バードが1987年に初めて達成して以来、これまでにNBAで9人、WNBAでは1人だけがこの記録を達成しています。(ワシントン・ミスティクスで町田瑠唯選手のチームメイトになったエレーナ・デレ・ダンがWNBAの選手として初めて 50-40-90 クラブの一員になったとき、ミスティクスは「エレーナ・デレ・ダンは歴史となった」とツイートしました。)
ですが、 50-50-90 クラブなるものはNBAおよびWNBAには存在しません。50%以上のフィールドゴール成功率、50%以上の3ポイント成功率、90%以上のフリースロー成功率をシーズン平均で記録した選手は一人もいないからです。いくらWリーグはNBAやWNBAと比べて1シーズンの試合数が少ないとは言え、50-50-90 超えはやばすぎる……。50-40-90 がすでに”異常な”数字ですが、50-50-90 はもはや”現実離れ”しています。
デレ・ダンが 50-40-90 クラブに入会する資格を得たとき、スティーブ・ナッシュやケビン・デュラントをはじめクラブの会員たちの多くが、初の女性会員を歓迎し(“Welcome to the club.”)、彼女を祝福しました。ですが、もし 50-50-90 を達成した選手が彼らの目の前に現れたとしたら……、宮廷試合でロビン・フッドを見た王の義勇兵たちのように、彼らはその選手を恐れるでしょう。その記録がいかに現実離れしたものであるか、彼らが一番よく知っているからです。
ゾルデ まさに恐るべき偉業というわけね。そんな大記録を叩き出した選手が日本にいたなんて……。
メフィスト 驚くのはまだ早い。アメリカでは前人未到の記録かもしれないが、日本で50-50-90クラブの会員は、三好ひとりじゃないぞ。
トリスタン えっ……? ということは、もしかして矢野さんも……?
メフィスト 2007-08シーズンのWリーグで、矢野良子は、55.5%のフィールドゴール成功率、50.0%の3ポイント成功率、94.6%のフリースロー成功率を記録している。
トリスタン ヒエ~ッ!! 50-50-90 なんていう人間離れした大記録を達成した選手が二人もいるなんて、Wリーグはいったいどうなってるんです? アメリカのコーチは今すぐ日本に来て日本人選手のシュート練習を視察するべきですね! 絶対に何か秘密があるはずですよ!
ゾルデ アメリカでは、WNBAだけじゃなく、70年以上の歴史を持つNBAにも、50-50-90 を達成できた選手はいないのよね?
トリスタン そう。キャリア通算での3ポイント成功率のNBA記録(45.4%)を持つスティーブ・カーは、1995-96シーズンに .506 / .515 / .929 というスラッシュラインを記録し、これがNBAでのシーズン平均が 50-50-90 を超えた唯一の例だけど、それが公式記録として認められるにはフリースローの成功数が47本、フィールドゴールの成功数が56本足りなかった。
メフィスト カーはシックスマンだったからな。シュートの本数が少ないのはしょうがない。95-96シーズンのブルズにはマイケル・ジョーダンもいたし。
トリスタン そうです。ところで、名シューターにとって一番大事なことはなんだと思います?
メフィスト さあ? 身長や筋力でないことは確かだろうが……。
トリスタン アメリカでは、手と目の協調性だと言われています。スティーブ・カーが「自分がこれまでに見た中で最高の手と目の協調性を持つ選手」と語るステフィン・カリーは、アメリカのメディアでは現役最高のシューターであるばかりか、史上最高のシューターであると称されています。彼が 50-40-90 を達成したのは1シーズンだけ(2015-16に .504 / .454 / .908)ですが、カリーなら目指そうと思えば 50-50-90 のシーズン平均記録も不可能ではないでしょう。ですが、バスケットボールはシュート成功率を競う競技ではなく、得点数を競う競技です。チームのエースであるカリーは、より多くの得点を取るためにマークにつかれたままのタフショットや超ロングレンジのシュートなど難易度の高いシュートを打ちまくりますから、どうしても成功率は下がってしまいます。その代わり、3ポイント成功数の記録は悪魔的なわけですが……。彼のキャリア通算の3ポイント成功数は、すでに二度と破られないスポーツの記録の一つ(ウィルト・チェンバレンの領域)になりつつあると言われています。
ゾルデ 矢野さんや三好さんの記録も、二度と破られない奇跡のような記録になるの?
トリスタン そこまでは言わないけれど、もし矢野さんや三好さんが”アメリカ人”だったならば、彼女たちは国民的英雄になっていたでしょう。それは間違いない。メフィストさんが二人を日本における史上最高の善射と称えるのも決して大げさな話ではありません……。
ところで、アメリカにおける史上最高のシューター、NBAで最高レベルのシュート力(とハンドリング能力)を持つカリーは、現在のバスケット界、ひいてはアメリカ社会全体に対してこんな苦言を述べています。
「今日の社会の呪いは、誰もが完成品を見ているのにそれがどうやってそこにたどり着いたのか、ロードマップはどんなものであったか、そのレベルに到達するための販売員の数などを誰も理解していないことだ。
ある日目が覚めて、突然、『ここからシュートを打ちたい』なんて言うことはできない。そのレベルに到達するには時間がかかるんだ」
メフィスト 善射にとって手と目の協調性が重要であることと、善射のレベルに到達するには時間がかかるということは、この国の人々はよく理解しているよ。それはこの国に中島敦がいたからだ。中島は自身を「寓話作家」と規定しているが、彼は『荘子』『列子』など中国の古典から集めてきた物語を現代の日本人に向けて語り直すという仕事をした作家だ。彼の本は複数の出版社から絶えず出版され続けてきたし、いくつかの作品は教科書にも載っているくらいだから、それがこの国の人々に与えてきた影響は計り知れない。彼が紹介しなければ忘れられてしまったであろう過去の偉人たちの逸話がどれだけあるか……。
例えば、『名人伝』の冒頭を読んでみよう。
当代随一の弓の名手・飛衛は門人となった紀昌に対して、まずは目を鍛えさせ、視ることの修行をさせる。『名人伝』にはこう書かれている。
紀昌は「目の基礎訓練に五年もかけた」と。
トリスタン 的に刺さった矢を後から放った矢で木っ端微塵に砕いたロビン・フッドも尋常じゃないですが、百本の矢を寸分違わず同じ位置に速射して一本の矢のように連ならせたという紀昌もたいがいですね。日々の日課としていたシューティングで100本中98本のシュートを決めたと伝えられる谷口さん(a.k.a ”落とさないシューター”)も、その系譜に連ねることができるかもしれませんが……。
ゾルデ 私はなにより、「天下第一の弓の名人になろうと志を立てた」というその志が気に入りました。今ならば、さしずめ天下一のシュートの名人・カリーに挑戦するようなものでしょう? でも、紀昌の故事や谷口さんの長年にわたる圧倒的な練習量(尋常ではないシューティングの時間と本数)を知っているこの国の人たちなら、本当にやりかねないですよね。そのうち、NBAあるいはWNBAの3ポイントランキングで日本人が一位になっても私は驚きませんよ。三好さんを見れば明らかなように、手と目の協調性には身長や筋力は必要ないですから。少なくとも、MLBで日本人がホームラン王を獲る確率よりは高いんじゃないでしょうか?(大谷選手、応援してます!)
メフィスト オリンピック得点王の谷口や、世界選手権得点王&MVPのGOAT、50-50-90 クラブ会員の矢野や三好らの遺産を受け継ぐ者が現れたならば、たしかにそれも不可能ではないかもな……。
メフィスト(心の声) 谷口が高校からバスケを始めたのと同じように、三好が3ポイントシュートを打ち始めたのは高校入学後、その精度を飛躍的に向上させたのは実業団入部以降と言われている。身勝手な夢なので口にはしないが、もし三好が今後、飛衛のような指導者の道を歩むとするならば、そしてこの国に紀昌のような志を持つ者が現れるとするならば、日本バスケット界にどれほどの”名人”が生まれるか。それを見てみたいと思うのは俺だけではないだろう……。
メフィスト ちなみに、名シューターにとって手と目の協調性や長期にわたる練習時間が大事だという説に異論はないが、もう一つ、大事なものがある気がするな……。
トリスタン なんですか、それは?
メフィスト 彼/彼女を支える存在だ。彼/彼女は一人では名シューターになれなかった。ステフィン・カリーを彼にシュートの手ほどきをした元NBA選手である父親のデル・カリーが支え、紀昌を飛衛が支え、桜花学園の井上眞一が三好をはじめ多くの名選手たちを支えてきたように。もちろん彼/彼女を支えるのは、師匠やコーチばかりではない。それは家族であるかもしれないし、友人であるかもしれない。あるいは励ましの声援を送る誰か……。誰だっていいが、とにかく、彼ら/彼女らが一人で名シューターになることは絶対に不可能だった。それだけは確かだ。
トリスタン なるほど。支えてくれる存在がいることも、名シューターの条件の一つに数えてもいいかもしれませんね。当然、それを重要視しない人たちもいるでしょうから、思い切った条件付けということになるでしょうが。
ゾルデ (小声で)日本人が、NBA / WNBA の3ポイントランキングで一位になるために一番足りない部分は、実はそこなのかも……。
メフィスト ここでひとつ思考実験をしてみよう。もし宇宙人が地球に侵略してきて、地球代表と宇宙人代表との間でバスケットボールで決着をつけることになったとする。
トリスタン コーンウォールとアイルランドの争いの際に、それぞれを代表する騎士の決闘で決着をつけようとしたみたいに?
ゾルデ 映画『スペースジャム』で、マイケル・ジョーダンが宇宙人とバスケで対決したみたいに……。
メフィスト そうだ。試合時間残り3秒、スコアは宇宙人代表が1点リードしている。そのとき、地球代表はファウルを受けてフリースローを2本獲得する。ファウルを受けた選手は負傷してしまい、フリースローは選手を交代させて打てるものとする。この状況で、お前たちなら誰にフリースローを打たせる? 誰に地球の命運をかける?
トリスタン 地球代表は現役の選手から選出という条件ですか?
メフィスト いや、引退した選手でもいいことにしよう。マイケル・ジョーダンでもいい。
トリスタン うーん……。私なら、ラリー・バードに打たせたいですね。50-40-90 クラブの会員番号1番である彼は、3ポイントコンテストで3年連続の優勝を果たすほどのシュート技術のみならず、絶対に折れない心を持っています。それはまさに不撓不屈というにふさわしい特別なメンタルです。プレッシャーのかかる場面で彼ほど頼りになる選手はいない。バードの宿敵であったレイカーズのコーチ、パット・ライリーは「もし試合を決める場面でシュートをまかせるとしたらジョーダンを選ぶが、自分の生死がかかった場面でシュートをまかせるとしたらバードを選ぶ」と語っています。
ゾルデ じゃあ、私は矢野さんにかけます。彼女が 50-50-90 を達成した年のフリースロー成功率(94.6%)を見たら、彼女はほとんどフリースローを落とさないように見えるから。
トリスタン あなたは? メフィストさん。
メフィスト 俺……?
トリスタン ええ。あなたなら誰にかけるんです?
メフィスト 俺なら、そうだな……。
トリスタン ……?
ゾルデ ……?
メフィスト はらたいらさんに3000点……!
ゾルデ えっ……誰?
トリスタン ……(それが言いたかっただけかーい!)。
メフィスト 地球代表対宇宙人代表というのは単なる思考実験だが、まったく同じ状況、試合時間残り3秒、アメリカ代表が1点ビハインドの場面で、「私たちのスポーツの歴史上、もっともプレッシャーのかかった二本のフリースロー」と呼ばれるフリースローを打った選手がいる。
オリンピック決勝、相手はソ連代表だった。残り3秒でシュートを放った彼は悪質なタックルを受け、フロアに倒れたまましばらく起き上がることができない。このとき彼は左手首を痛め、左目の下にはあざができていた。アメリカ代表のアシスタントコーチは代理でフリースローを打つ選手を探すも、ヘッドコーチがそれを制する。
「彼が歩けるならば、彼にフリースローを打たせる」
時あたかも冷戦の最中、アメリカ代表対ソ連代表の決勝は、「模擬戦争」と呼ばれた。そして彼は、まさに国の威信をかけてフリースローラインに立った……。
だが、その試合について詳しく話す前に、ちょっとだけ寄り道して、カズオ・イシグロの小説について話すことにしよう。アーサー王の時代より少し後の英国を舞台に、老いた円卓の騎士やドラゴンが登場するその物語には、こんなセリフがある。
「救出するには遅すぎたとしても、復讐にはまだ十分間に合う」
(【3-2】へ続く)