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メイキング・オブ・バスケットボールの定理 (上)
数学者の役割とは、何かをなすこと、すなわち新しい定理を証明し、数学に新たなものをつけ加えることであり、自分自身や他の数学者がしてきたことについて語ることではない。
ーG. H. ハーディ
活動し演説する人びとは、最高の能力をもつ〈工作人〉の助力、すなわち、芸術家、詩人、歴史編纂者、記念碑建設者、作家の助力を必要とする。なぜならそれらの助力なしには、彼らの活動の産物、彼らが演じ、伝える物語は、けっして生き残らないからである。
ーハンナ・アーレント
第1部 言葉の力について
私は言葉の力を信じて、文章を書いているつもりだった。
けれど、言葉の持つ本当の力をわかっていなかった……。
「なんのために文章を書いている?」
私は前の原稿で、言葉が人を変えると信じているかのように書いた。その可能性に賭けて文章を書いているかのように。
けれど、私はまだ言葉の力をわかっていなかった……。
その原稿では他人への誹謗中傷やヘイトであふれるSNS空間について書いたし、時にそこでの悪意ある言葉が人を殺す力を持つことも理解しているつもりだった。
けれども言葉の持つ力を実際にはわかっていなかった……。
連載の来るべき第7部で、バスケットボール女子日本代表のヘッドコーチになり、SNS上で多大な”悪意”を向けられながらも、自分の理念を曲げることなく、”自分より大きなもののために”自分の力を尽くそうとしている恩塚亨の姿を描こうとしていながら、その悪意の持つ力を少しもわかっていなかった……。
日本バスケットボール協会(JBA)の「暴言をなくそう」というキャンペーンに言及しようとしておきながら、暴言の持つ力をまったくもって甘く見ていた……。
私はわかっていなかった。
誰かを傷つけようという悪意を持つ言葉の力を……。
「たかだか一人や二人の悪意にすら耐えられないのだったら文章など書かないことだ。そんな中途半端な覚悟だったら今すぐやめてしまえ」
たしかに、そのほうが精神的には楽になるけれど……。
「何をためらうことがある。お前が今ここですべてを放り出し、連載をやめてしまったとしても誰も気にとめやしない」
……そうだな。毎回、次回作を楽しみにしてくれていたTさんには申し訳ないが……。
「ちょっと人から期待の言葉をかけられたくらいでいい気になるなよ。そもそもお前の書く言葉など、すべてお前の自己満足にすぎない」
自己満足の何が悪い。史上最高のバスケットコーチ、ジョン・ウッデン*の成功の定義を知らないのか?
ウッデンはこう言っている。
成功とは、自分がなりうる最高の自分になるためにやれることを全てやりとげたという自己満足**からくる心の平穏のことである。
*ジョン・ウッデンはその卓越した指導力でUCLAを7連覇を含む10度の全米制覇に導き、「ウェストウッドの魔術師」「20世紀最高の指導者」と謳われた。1960年に選手として、1973年にヘッドコーチとしてバスケットボール殿堂入りを果たし、両部門で殿堂入りした初の人物となった。(ウィキペディアより)
**原文では、self-satisfaction。
「それで、お前は心の平穏を得られたのか? 逆に鋭い言葉を向けられて、傷ついただけに見えるが……」
「情けないやつだな」
……黙れ。みんながみんなメンタルが強い人ばかりじゃない……。
「見も知らぬ他人から罵られるなんてのはSNSではよくあることだ。今さら珍しくもない」
「お前はメンタルがどうというより、スルースキルが足りないだけに見えるが?」
それがスルーできたら、私はいま文章を書いていない……。
「……なんのために文章を書いている?」
「人を変えるためなんてごたくはいい。お前の真実を語れ」
「なんのために文章を書いている?」
きっかけは、恩塚亨が女子日本代表のヘッドコーチになったことだった。
彼は、このチームは、何か重要なことをしているのではないかと感じた。たんにバスケットボールというスポーツのみにとどまらず、日本社会に変革をもたらそうという彼ら/彼女らの志と、私たちはまさにその変化の分岐点に立ち会っているのではないかという予感だけがありながら、誰もその試みについて明確に語ってくれる人はいなかった。
恩塚は、バスケットボール女子日本代表は何をしようとしているのか?
私はその答えをインターネットの中に探した。
恩塚の個人史をたどると、日髙哲朗にたどりつき、鈴木良和との出会いにたどりつき、日髙と鈴木の出会いにたどりついた。
インターネットは彼らのインタビューや記事、動画であふれていた。
多くのメディアが書く試合のレポートやインタビュー記事に彼らは登場し、鈴木自身も自社のブログや動画で、恩塚は自身のYouTubeチャンネルで、過去の苦労や思考の軌跡、自己の理念を発信していた。他にも試合のアーカイブ動画、ナショナルキャンプのレポート、選手たちのインタビュー……。それらを丹念に追っていくことで、徐々に物語が浮かび上がってきた。
そこには語るべき物語があると思った。誰かがそれを語るべきだと……。
「もういい。聞きたいのはそういう話じゃない。いつまでいい子ぶるつもりだ?」
「お前の本心を聞かせろよ。何を怖がっている?」
「お前の敵は誰だ……?」
……黙れ。
「お前の敵はどこにいる……?」
……黙れ。
「もう一度聞く。お前の敵はどこにいるんだ?」
恩塚の敵が私の敵だ!
「……ようやく認めたな。そうだ。お前は恩塚の記事やインタビューを膨大な数読みすすめるうちに、すっかり彼を自分と同一視するようになった。だから恩塚を否定する者に対して、自分を否定されたかのような怒りを感じる」
「人は高尚な理念で動いたりはしない。まして今まであんなに長い文章など一度も書いたことがないお前が、恩塚に敵意を向ける者への、彼に対する理不尽な悪意への怒りの感情がなければ、あの連載の一行たりとも書けはしなかっただろう……。そいつが”むく犬の正体”だ」
認めよう。彼の半生を知り、彼の言葉を聞くうちに、私は、そこに価値があると思った。恩塚の挑戦を、彼の内なる”志”を無価値なものと切り捨てる人々への怒りが、私の文章を書く原動力になった。
「だがお前は大きな勘違いをしているぞ……。お前は恩塚亨ではない」
「昔、ショーンペンとかいうやつが、苦しんでいるのは彼であって私たちではない、みたいなことを言っていたはずだが……」
ショーン・ペン?
映画のセリフでの話か?
「そう、たしか、ショーン……ペンだったような……」
ショーン……ペン……
ショーンペン……?
![](https://assets.st-note.com/img/1669100908988-IlgstLgfNF.jpg?width=1200)
ショーペンハウアーじゃねーか……どあほう!!
「そう、そいつだ。そのショーペンなんとかがそんなことを言っていたのでは?」
わかった。あなたは誤解している。ショーペンハウアーが言ったのはこういうことだ。
共感*は、私たちが苦しんでいる人の立場に身を置き、自分が彼の苦しみを経験していると想像する錯覚から生じると言われているが、実はそうではない。「苦しんでいるのは彼であって私たちではない」という確信は一瞬も揺らがない。共感が生じるとき、私たちは彼の苦しみをまさに彼の苦しみとして感じるのであって、彼の苦しみが私たちの苦しみだという錯覚を持つのではない。
つまり、私たちが苦しむ彼と自分を同一視(すなわち彼に共感)したとき、私たちは彼の苦しみを錯覚ではなく直接に感じると言っているのだ。
*ここで「共感」と訳した言葉は通例では「同情」あるいは「共苦」と訳されるが、同情というとどうしても上から目線な印象がついてくるし、共苦という言葉にはなじみがないので、(たぶん哲学プロパーからは怒られると思うが)同じような意味を持ち、日本語として一般的に使われる「共感」と訳すことにした。
「いずれにせよ同じことだ。自分を日本代表監督と重ねるなど思い上がりもいいところ。いくらお前が恩塚と自分を同一視し、彼に共感しようが、お前は恩塚にはなれない。せいぜいそのちっぽけなプライドを満たすくらいが関の山だ」
そんなことはわかっている。私は彼になりたいわけではない。
「ではなんだ? 作家にでもなりたいのか……?」
「恩塚たちの物語を語るなんて仕事はスポーツライターかノンフィクション作家に任せておけばいい。本一冊書いたこともない、バスケットボールの知識も選手としての経験もない、ただバスケを見るのが好きなだけの素人のお前に、それを書く資格があるとでも?」
そう、あのときまでは、それは自分の役目じゃないと思っていた。
そもそもなんの資格があって私は彼らの物語を語りうるのか?
私にはなんの資格もなかった。
その仕事には私よりはるかにふさわしい人たちが大勢いる。それはバスケの知識が豊富で、スキルや戦術、代表の歴史にも明るく、日本バスケット界に広い人脈を持つ人たちだ。そのうちの誰かが彼らのモノグラフを書いてくれないか、それを読ませてくれないかと期待していた……。
けれど……。
「けれど……? 恩塚の言葉を真に受けて、何の実績もないお前でも、なにがしかの文章が書けると思ったのか?」
「なりたい自分に生まれ変われると思ったのか?」
わからない。ただ少しだけ、勇気を出してみようとーー
「勇気? お前はまた勘違いをしているようだな……」
「お前のしていることは勇気とは呼ばない」
……黙れ。
「何と呼ぶか教えてやろうか」
……黙れ。
「身のほど知らずというんだ」
黙れ!
たとえそれが私の身の丈をはるかに超える大望だとしても、この物語には語る価値がある!
「どうして物語である必要があるんだ? お前が書く彼らの言葉やふるまいは、すべて彼らのインタビューやニュース記事、動画に記録されている。お前が書く哲学者や小説家の言葉は、すべて本の中に書いてある」
「お前が書く文章には、なんの価値もない」
「仮に恩塚たちの変革がバスケという競技を超えて日本社会全体を変えていこうと、そこにお前ごときの居場所はない。お前がJBAや恩塚の『暴言をなくそう』という理念に勝手に共感して、SNSで暴言を吐くのはやめようと呼びかけた結果どうなった? お前の言葉はさらに激化した暴言を生んだだけではないか……」
「思い上がるのもいい加減にしろ……。簡単に人の命を救えると思うなよ……」
「お前が書く言葉には、なんの力もない」
「残念だったな……」
「いくらスピノザの言葉を引き、恩塚の言葉を語り直したところで、お前には誰ひとり変えることはできない。まして世界を変えることなどーー」
わかっているさ! そんなことは!!
そんなことはわかってる。
けれど……。
あの9月のワールドカップ、胸躍る期待とともに始まった女子日本代表の挑戦が大きな落胆に終わった後、それでも前だけを見据えている髙田真希はじめ選手たちの姿を見て、彼女たちの”言葉”を聞いて、自分も何かを始めずにはいられなかったんだ……。