バスケットボールの定理 【第1部】 〜魔法使いとその弟子〜
謎のはじまり
1891年12月、マサチューセッツ州スプリングフィールド
国際YMCA訓練学校の教員をしていたジェームズ・ネイスミスによって、バスケットボールは冬季の室内用スポーツとして考案された。
バスケットボールという競技は、ごく単純な3つの条件によって成り立っている。
1. ボールを持ったまま走ってはならない。
2. 身体接触・衝突をしてはならない。
3. 競技者の頭上に水平のゴールを置く。
しかし、ネイスミスがバスケットボールを考案してから一世紀以上が経ちながら、この競技が持つ謎は未だ十分に解明されていないばかりか、NBAでは1979年、国際ルールでは1985年に採用された3ポイントフィールドゴールという新たな変数の出現によって、現代バスケットボールの謎はますます深まり、複雑化している。その一方で、いまや世界一の競技人口を持つと言われるほどにバスケットボールは世界中の人々を惹きつけてやまない……。
これは、バスケットボールという競技に魅せられ、人生をかけてその謎に挑んだ男たちの記録である。
三体問題
1998年2月、茨城県つくば市
筑波大学の受験会場で、恩塚亨と鈴木良和は初めて出会った。筑波大に在籍する共通の先輩を介して顔を合わせた二人の共通点は18歳の同い年であることと、何よりもバスケットボールが大好きであること。二人とも名門、筑波大学バスケットボール部でバスケがしたい、そして憧れの代々木第二体育館に立ちたいという夢を抱いていた。
しかし、同年4月、晴れて筑波大のバスケ部に入部した恩塚が、そこで鈴木と一緒にプレーすることは一度もなかった。
受験に不合格となった鈴木は隣県の千葉大学へ進学していたからだ。
だが、この時、別々の軌道を描き出したかに見えた二人の人生は、それから23年後、互いに引き寄せ合うように再接近していく……。
2021年7月、埼玉県さいたま市
恩塚と鈴木は、ともに日本代表のオリンピックジャージを身にまとい、さいたまスーパーアリーナのコートに立っていた。恩塚はバスケットボール女子日本代表のアシスタントコーチとして、鈴木は男子代表のサポートコーチとして。
東京オリンピックの競技会場でニアミスした二人の人生は、まもなくぴたりと重なろうとしていた……。
恩塚と鈴木が初めて出会った18歳のあの日から、二人がたどった人生を誰が予想できただろう?
一般に二つの天体の軌道はわりあい簡単に予測できる。しかし三つの天体が互いに引力を及ぼしあう場合、その運動を厳密に予測することはできない。
たとえば、月は地球の周りを公転しているが、そこに太陽という第三の天体がからんでくると問題は急に複雑になる。
月と地球は互いに引き寄せ合っているが、太陽の引力によって地球の位置がわずかにずれ、それが月の軌道にも影響を及ぼすからだ。
これがいわゆる”三体問題”である。
言わずもがな、これは比喩である。恩塚と鈴木が地球と月であるとしよう。
では、太陽とはいったい誰のことか?
二人が口を揃えて、人生で最も影響を受けた指導者と語る人物がいる。
その人物こそが彼らの太陽、日髙哲朗である。
バスケットボールの魔法使い
1998年4月、千葉県千葉市
千葉大学バスケットボール部に入部した18歳の鈴木良和は、そこで日髙と出会った。
日髙哲朗は1953年生まれ。筑波大学の前身である東京教育大学バスケットボール部でキャプテンを務めインカレに出場するなど選手として活躍した後、ユニバーシアード日本代表のコーチや実業団チームの指導などを経て、この時、千葉大学教授であり、同大学バスケ部の監督であった。
鈴木が日髙の卓越した指導力に魅了されるまでに時間はかからなかった。
日髙の名を有名にした“日髙メソッド”と呼ばれる彼独自のシュート指導法がある。鈴木はその指導を日髙から直接受ける機会を得た。そして彼は天啓ともいうべき衝撃を受ける。
それはまるで魔法のようだった。日髙の指導を受け、日髙の言う通りにシュートを打つと、どういうわけか面白いようにシュートが決まった。
「これが日髙マジックか……」
いつしかそれを、人は”日髙マジック”と呼ぶようになっていた。
日髙マジックの秘密をつかみたい……。
鈴木は、大学の部活動だけでは飽き足らず、日髙が学外で行うクリニックにもアシスタントとしてついていき、大学院での日髙の講義を受け、日髙が薦めるものなら哲学書や社会学の本まで読み漁った。
日髙の指導はとても感覚的なものだった。言葉をあまり使わず、イメージとして動作のコツを選手に教える。しかし、その背後には確固とした理論があり、日髙はそれを完璧に言葉で説明してみせることができた。
かつてSFの大家が言ったように「高度に発達した技術は魔法と区別がつかない」。
”日髙マジック”は、彼が精通する国内外のバスケット理論、コーチング理論に裏打ちされたものだった。
「日髙先生の指導をもっと多くの子どもたちに伝えたい」
いつしか鈴木はそう思うようになっていった。
失われたメソッド
一方、その生涯にわたって、古今東西、バスケットに関する知見を集め、その体系化を行ってきた日髙は次のような悩みを抱えていた。
今日まで、バスケット界には数多くの優秀な指導者がいた。それなのに、彼らが死んでしまうとその優秀なコーチングメソッドもまた失われてしまった。これではバスケットボールが文化として未来につながっていかない……。
日髙は常々、鈴木に語っていた。
「指導者が指導者を育てる時は、その指導法を伝承できることが重要だ。良い指導者がいなくなれば良い指導法も消えてしまうというのは終わりにしなければならない……」
その言葉が引き金になった。
鈴木はもともと学校の先生になり、子供たちにバスケットを教えたいと思っていた。日髙に出会ったことで、それは「日髙先生の指導をもっと多くの子どもたちに伝えたい」という思いに変わった。
そしていま鈴木の夢は、さらに一回りふくらんだ。
直接子供たちに教えるだけでなく、良い指導者も育てたい。
「子供たちにバスケットを教えるか指導者を育てる」
それは、小中学校の教師になり子供たちにバスケットを教えるか、日髙のように大学の教員になり未来の指導者たる大学生を教えるか、そのどちらかの選択を意味し、論理学でいう"排他的選言"であるように見える。
A▽B(AとBは両立しない)
つまり、一方を選ぶことはもう一方の夢をあきらめることを意味する……。
しかし、本当にそうだろうか? それを"両立的選言"に書き換える方法はないか?
両立的選言は次のように書き表される。
A∧B(AとBの少なくとも一方が成立し、両方成立する場合もありうる)
鈴木は無意識にこの問題の解を求めていた。
そして彼は思わぬ形でそこにたどりつく。
たったひとつの冴えたやり方
2002年某月、千葉県千葉市
それは最初、ほんの思いつきにすぎなかった。
大学院に進んだ鈴木は学費を稼ぐため、家庭教師のアルバイトをしようとしていた。そこで、せっかくバスケットの指導者になろうとしているのだから、家庭教師として勉強を教えるのではなく、バスケットを教えたらどうだろうとひらめいた。ピアノの家庭教師があるのだから、バスケットの家庭教師があってもいいんじゃないか……。冗談のような思いつきだが、考えれば考えるほど、彼はますます”バスケットボールの家庭教師”というアイデアの魅力にとりつかれていった。
それは、子供たちにバスケットを教えることと指導者を育てることの両立を可能にするかもしれない……。その考えに鈴木は興奮した。これを事業化できれば、自社で指導者を育成し家庭教師として派遣しつつ、同時に自分も家庭教師の一人として子供たちの指導にあたることができる……。ユリイカ!
鈴木がこの活動を一過性のアルバイトではなく、生涯の仕事にしようと決意した瞬間だった。
鈴木のアイデアに日髙は否定的だった。
「その仕事で生きていくのは厳しいぞ」
当時はお金をとってバスケットを教えるということ自体、まだなじみがない時代だった。日髙だけでなく、多くの人がそんな無謀なことはやめておけと鈴木を諭した。
だが、周囲から無理だと否定されればされるほど、鈴木にはそれが人生をかけるに値する大きな挑戦であるしるしだと思えた。
そして、大学院在籍中、ついに鈴木は「バスケットボールの家庭教師」という事業を立ち上げる。
それは鈴木の長いコーチ人生の始まりであり、バスケットボールという競技に潜む謎への飽くなき探求の第一歩でもあった。
夢を与える人
子供たちにバスケットを教える夢と指導者を育てる夢。この二つを同時に叶えようと、鈴木の一見無謀にも思える挑戦は始まった。
それは日髙が鈴木に与えた夢だ。
後年、日髙から学んだ一番大きなものは何かと聞かれた鈴木は、バスケットの技術や戦術より、何よりも人としての魅力、影響力だと答えている。
考え方や哲学がしっかりしている人は人間力も大きくなる。だから影響力が大きくなり、コーチとしても成功できるのだと。
鈴木は言う。
「強さではなくやさしさで、恐怖心ではなく誇りで人の心を動かせるような指導を目指したい」
千葉大学での日髙との出会いが鈴木の人生を変えた。
学校の先生になり、子供たちにバスケットを教えたいと思っていた彼の人生は、日髙の持つ強力な引力(影響力)によって、大きく軌道修正させられることになった。
もし、18歳のあの時、筑波大の受験に失敗していなかったら、彼の人生はどうなっていただろう……。そう思いを馳せたとき、私たちはすぐに、あの男のことを思い出さずにはいられない。
鈴木の運命を変えたあの日、筑波大のキャンパスで出会い、鈴木と一緒に受験し、合格したあの男……。
この時、恩塚亨もまた、太陽の強大な引力に惹きつけられ、鈴木に劣らぬほど向こう見ずな夢に向かって動き出そうとしていた……。
(第2部へ続く)