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トリスタン文書 【3-2】 誰がドラゴンを殺すのか? 〜ウィスタンとマチルダ〜

かつて地中に埋められた巨人がいま動き出す。もうすぐ巨人は立ち上がるだろう。きっと立ち上がる。そのとき、私たちの間に結ばれた友好の絆など、幼い少女が小さな花の茎で作る結び目のようなものであることが明らかになるであろう。
ーカズオ・イシグロ『忘れられた巨人』

もし誰かがあなたを殺しにきたら、立ち上がって先に彼を殺せ。
ー『バビロニア・タルムード』


誰がドラゴンを殺すのか? 〜ウィスタンとマチルダ〜

メフィスト ひとつ聞くが、お前はなんのためにドラゴンを退治しようとしてるんだ? 誰かに頼まれたのか?

トリスタン なんのためって、ドラゴンがいる限り、我々の身に危険が及ぶ可能性があるからですよ。別に誰に頼まれたわけでもありませんが……。

メフィスト 日本生まれの英国人、カズオ・イシグロもドラゴン退治の物語を書いている。アーサー王の死後間もない英国ブリテンを舞台にしたその小説にはこんなセリフがある。

「この国は健忘の霧に呪われている」

どこからともなく白い霧が立ち込めると、人々は過去を忘れてしまう。霧の中で人々の記憶は次第にあいまいになっていく……。
やがて、人々の記憶を奪う霧の正体はドラゴンの息であることが明かされる。ドラゴンの吐く息が霧となって英国の地を満たし、かの国は集団的記憶喪失に陥っていく。「ほんの1時間前に起きたことも、ばかみたいに」忘れてしまう。

「私たちの記憶は消え去ったわけじゃない。このいまいましい霧のせいで、どこかに隠されているだけだ」

カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』

そしてドラゴンを殺すために旅を続ける老騎士・ガウェイン卿が登場する。

トリスタン ガウェイン卿! これは懐かしい名前です。彼とは円卓でよく顔を合わせました。

メフィスト ガウェイン卿は、ドラゴン退治はアーサー王から与えられた彼の義務だと言う。

ゾルデ ガウェイン卿がドラゴン退治? 彼も偉くなったものね。

トリスタン そういう言い方はよくないよ、プリンセス。ガウェイン卿だって、老体に鞭打ってがんばってるんだろうし……。

ゾルデ でも、タンタンやランスロットがいたら、アーサー王もガウェイン卿なんかにドラゴン退治を命じてないんじゃない?

トリスタン もちろん、ガウェイン卿に遅れをとるようではトリスタンの名が廃る。もしその場に私がいたなら、間違いなくガウェイン卿より先に私がドラゴンを殺しているでしょう。

メフィスト ガウェイン卿はひとりでに偉くなったわけではないよ。彼を偉くしたのはイシグロだ。あの物語を書くことによってな。”彼”も同じことをしようとしているんだろうが、なにせ影響力が桁違い、少なくとも1万倍は違う。あの小説の正確な発行部数は知らないが、全世界で数百万部は下らないだろう。それにひきかえ、”彼”の文章は読まれるとしてもせいぜい数百人だ。いくらがんばったところで、彼には選手ひとり、あるいはコーチひとり偉くすることはできないだろう……。トリスタンにはすでに繰り返し言ってきたことだが、ゾルデ姫のために改めて言っておこう。偉大な選手/コーチは偉大な記録を残したために偉大になったわけではない。彼らは優れた結果や成績によって国民的英雄になったわけではない。

ゾルデ  たとえ”彼ひとりの影響力”がイシグロ先生の1万分の1に過ぎないとしても、別にいいんじゃない? あなたは気が早すぎるんですよ。何年先か、もしかしたら何十年先かもしれないけれど、彼が書いたものに共感する人が現れるかもしれないじゃない? 少なくとも私は今夜、矢野さんや三好さんの偉大さを理解しましたよ。タンタンだってそうでしょ? 最初に三好さんの名前が出てきたときは、名前に数字の3が含まれているからネタにされてるだけだと思ったみたいだけど。

トリスタン 最初はね。でも、今やすっかり三好さんの善射ぶりに敬服しているよ。 三好さんよ、永遠なれSun Is Shining Forever!

メフィスト なるほど。彼女は、お前たち二人にはすっかり認められたみたいだな。それで言うと、ガウェイン卿も、アーサー王の騎士のひとりとして彼なりに使命感を持って義務を果たそうとしているんだから、そのことは認めてやるべきだろう。彼は、とある森を前にしてこんなことを思う。

ここはおそらくマーリンの森だ。この森の目的はただひとつ。われらの時代の偉業を無に帰させようとする者が現れたとき、その者を私が待ち受けるシェルターとなることだ。

その森は、言わば彼にとっての「シャーウッドの森」ってところかな。

トリスタン ロビン・フッド伝説は英国人みんな大好きですからね……。ガウェイン卿の使命感には、私も大いに共感しますよ。2021-22シーズンの三好さんの偉業や2007-08シーズンの矢野さんの偉業も、あなたが前回声を大にして語っていた2021年のウィザーズの偉業(無敗での大学三冠達成)も、放っておけば簡単に”無に帰して”しまうでしょうから。今やこの国では尾崎監督の名前がすっかり忘れられ、1970年代の「日本女子バスケの黄金時代」について今では誰も話題にしないように、今から半世紀後には三好さんや矢野さんの大記録も忘れ去られ、それについて未来の日本人に話しても誰も信じないかもしれませんよ。さっきの私みたいに。

メフィスト そういえば、今度ここに来た時に聴かせてやろうと約束していた”彼のアンセム”には、こんな歌詞がある。

やつらはそれを遠くへ押しやろうとする
やつらはそれを消し去ろうとする

ゾルデ やつらはそれを消し去ろうとする?! やっぱり、第3のカードを盗んだのはやつらなんじゃない? そして、人々が第七の門の向こう側へ行くのを阻み、そこで語られているという尾崎監督や日本バスケGOATの偉業を消し去ろうとしてるんじゃないかしら。

トリスタン この人が歌の歌詞を引用するときは注意が必要だよ、プリンセス。こっそり歌詞を読み替えているかもしれないからね。なにせ、「俺たちの”リデンプション・ソング”は、”取り返す歌”だ!」と言ってしまうような人だから……。

ただし、もし本当に”彼のアンセム”の中で、やつらは我々の記憶を消し去ろうとする、と歌われているのだとしたら、やつらがカードを盗んだ犯人である可能性はかなり高いと言えるでしょう。ガウェイン卿が「マーリンの森」で「その者」を待ち受けようとしたみたいに、私たちにもやつらを待ち受ける森がシェルター必要かもしれません。

ゾルデ 私たちの「シャーウッドの森」が必要ってことね。あるいは、私たちの「風の谷」が。

トリスタン 「シャーウッドの森」が、そこに逃げ帰ったロビン・フッドを追っ手から守ったように、その森の中にいれば安全であるような場所。われらの時代の偉業が霧によって隠されてしまわないように、霧の侵入を食い止める防霧林。腐海の瘴気をよせつけない「風の谷」……。そういうシェルターをつくっていかなければいけないのかもしれません。

ではここで、メフィストさんが選ぶオールタイム・スターティング5を彼らがなし遂げた偉業とともに見てみましょう。

メフィスト 唐突な紹介ありがとう。ところで、イシグロの小説の中でドラゴンを殺そうとしているのはガウェイン卿だけではない。サクソン人の戦士 ウォリアー ・ウィスタンもそのひとりだ。

トリスタン ウィスタン? なんだか親近感が湧く名前ですね。

メフィスト この人物はイシグロの創作だが、おそらくトリスタンを文字ってつけられた名前だろうな……。
ドラゴン退治へ向かう旅の途中で、ウィスタンは同じサクソン人の12歳の孤児・エドウィンと、ブリトン人の老夫婦と出会う。この4人は束の間旅をともにすることになり、サクソン人の戦士と少年、年老いたブリトン人の夫婦という風変わりな旅の一団パーティが結成される。

ウィスタンがドラゴンを殺そうとするのには、明白な理由がある。それは彼の家族を殺したブリトン人に復讐するためだ。記憶が失われ、ブリトン人がサクソン人に何をしたかを忘れてしまえば、復讐することもできなくなってしまうからな。その息が英国に住む人々に過去を忘れさせているドラゴンを倒し、失われた記憶を取り戻すためにウィスタンは旅をしている。
そして、エドウィンに戦士としての才能があると見込んだウィスタンは、この少年を自分の後継者に育てようとし、戦士の技術スキルを教え込もうとする。

トリスタン 飛衛が紀昌に弓術の奥義を伝授したように……?

ゾルデ レオーネ・”レオン”・モンタナが12歳で孤児となったマチルダ・ランドーに殺し屋hitmanの仕事の手ほどきをしたように……。

メフィスト エドウィンに向かって、ウィスタンは言う。

「もし私が倒れて君が生き残ったら、これを約束してくれ。君の心にブリトン人への憎しみを持ち続けると」

「我らが同胞を虐殺したのはアーサー王配下のブリトン人だ。君の母や私の母を連れ去ったのもブリトン人だ。ブリトン人の血が流れるすべての男と女と子供を私たちは憎まねばならない。それは義務だ。だから約束してくれ。もし、スキルの伝授を終える前に私が倒れても、君は心の中でこの憎しみを育み続ける。それが揺らいだり消えそうになっても、また燃え上がるまでその炎を守り続ける。そう約束してくれ、エドウィン」

そしてウィスタンは、あの決定的なセリフを言う。

「一つだけ知っておいてくれ、若き同志。たとえ救出するには遅すぎたとしても、復讐にはまだ十分間に合う。だから君の約束をもう一度聞かせてくれ。君が傷つき倒れるまで、あるいは年月の重みによって倒れるまで、ブリトン人を憎むと約束してくれ」

トリスタン 私はサクソン人の敵の立ち場なわけですが、ウィスタンの気持ちには共感しますね。やられたらやり返しゃいーんすよ……3倍にしてね。

メフィスト それがお前たち騎士の流儀なんだろうが……。ゾルデ姫はどうだ? あんたもウィスタンに共感するか?

ゾルデ  なんでそんなに復讐が大事なのか、私にはよくわからないけれど……。そんなに復讐が大事なら、ぜったい忘れないように体にタトゥーでも入れたらいいんじゃない?

メフィスト ウィスタンならやりかねないだろうな……。彼ならやりかねない。

ゾルデ 今のはレナード・”レニー”・シェルビーの話だけどレオンはスタンに殺された弟の復讐をしようとするマチルダに「復讐はよくない。忘れたほうがいい」と言っていますよ……。

メフィスト 忘れたほうがいい……。たしかにそのほうが平和ではある。ドラゴンが英国の平和に一役買っているのはたしかだ。ドラゴンが殺され、霧に隠されていた記憶を人々が取り戻すとき、いにしえの巨人が目を覚まし、「古い憎しみが国中に広がることになる」かもしれない。
ウィスタンは言う。

「かつて地中に埋められた巨人がいま動き出す。もうすぐ巨人は立ち上がるだろう。きっと立ち上がる。そのとき、私たちの間に結ばれた友好の絆など、幼い少女が小さな花の茎で作る結び目のようなものであることが明らかになるであろう。[……]我が軍は怒りと復讐への渇望によって拡大し、膨張しつづけるであろう」

イシグロがこの物語を書いたときに意識していたかはわからないが(きっと意識していたはずだと思うが)、ウィスタンがエドウィンに語った言葉は「ユダヤ兵の十二戒」を思い起こさせる。それは第二次世界大戦中にパレスチナに住むユダヤ人志願兵によって結成された「ユダヤ人旅団」の指揮官によって書かれた。

1. 虐殺された600万の同胞を忘れるな。
2. 同胞を殺した者たちへの憎しみを何世代にもわたって守れ。
[……]
5. ドイツ国民がその国で旗とシンボルを持った我ら旅団の姿を見ることは復讐であることを忘れるな。
[……]
12. あなたの義務は、剣と収容所を生き延びた人々への献身、忠誠、そして愛であることを忘れるな。

「ユダヤ兵の十二戒」では、何度も「忘れるな」という言葉が繰り返される。ウィスタンが危惧するように、過去を忘れてしまえば復讐も不可能になるからだ。
16歳でユダヤ人旅団に入隊した作家のハノフ・バルトフはこう語っている。
「こちらが流しただけの血を敵にも流させ、こちらが奪われただけの命を奪うまでは終われない。私たちはそう考えた」

ホロコーストを経験したユダヤ人、収容所で家族や同胞を殺された彼らは、そのことを決して忘れなかった。それを覚えておくことは彼らの義務だと考えた。
そして彼らは、1972年9月にミュンヘンで起きたことも、決して忘れなかった。

トリスタン 1972年9月? ミュンヘン事件の物語は、あれで終わりではなかったんですか?!

メフィスト そう。あの物語はまだ終わっていない。それはまだ途中でしかない……。1972年9月5日、「黒い九月」ブラック・セプテンバーのメンバーによってオリンピック宿舎でイスラエル代表選手団2人が射殺され、人質にとられた9人もヘリの中で全員死亡した。だが、救出するには遅すぎたとしても、復讐にはまだ十分間に合う。

これから話す物語は復讐の物語だ。ただし、この物語に出てくる人たちは「復讐」のような直接的な言葉は使わない。もっと遠回しな言い方で、たとえばこういう言葉で彼らはそれを表現する……。
「円を閉じる」

円を閉じる者 〜イスラエル史上最高のスパイと「神の怒り」作戦〜

律法にはなんと書いてあるか?
歴代の指導者ラビが律法に対して加えてきた解釈の記録であるタルムードはこう教えている。

もし誰かがあなたを殺しにきたら、立ち上がって先に彼を殺せ。

『バビロニア・タルムード』

この格言こそ、イスラエルがその破壊を目論む敵に対処する唯一の方法だとラビたちは言う。敵への”対処”を主に行うのは、イスラエル諜報特務庁・通称「モサド」の中にあって、暗殺・破壊工作・標的国での情報収集などを担当する部隊「カイサリア」だ。カイサリアの隊員たちは、かつてナチ戦犯の暗殺現場に残した書面に次のように署名した。「決して忘れない者たち」と。
また、暗殺の標的となった人物の家族には殺害の数時間前にモサドの心理戦部門から花束とお悔やみのメッセージカードが送られ、カードにはこう書かれていたという。
「警告、我々は忘れていない、また許してもいない」

彼らはミュンヘンで虐殺された11人の同胞を忘れず、それに関わった人を決して許さなかった。あの虐殺への関与が疑われる人々を組織的に追跡し殺害する通称「神の怒り」作戦で主に実行部隊を務めたのもカイサリアだ。
カイサリアの長官は”カエサル”の愛称で知られるミハエル・ハラリだった。ハラリはイスラエル国民にとって真の英雄ヒーローであり、”モサドの伝説Mossad Legend”と呼ばれる人物だ。”シオニストのジェームズ・ボンド”と呼ぶ人もいるが、ハラリが亡くなったときの追悼記事では「彼はボンドよりはるかに優れていた」とまで書かれた。文字通り「イスラエルIsrael's史上最高GreatestスパイSpy」のひとりだ。

英国の委任統治下にあったパレスチナで生まれたハラリは、1943年、16歳で非合法のユダヤ人地下組織「ハガナー」に年齢をごまかして参加すると、その攻撃部隊「パルマッハ」に所属する。第二次大戦後はマルセイユに派遣され、生き残ったユダヤ人難民をパレスチナに密航させるのを手伝い(この時の経験が国外での秘密活動を行う上で後々活かされることになった)、イスラエル建国後、モサドに採用されると彼はカイサリアへ配属され、1970年に長官となり、作戦部門の責任者になっていた。

ハラリはカイサリアの組織再編を行い、「キドン」という特殊部隊を設置していた。それは主に外国で「秘密裏に行動し、人的ターゲットの特定・監視・殺害や破壊工作を遂行する」ことに特化した部隊だったが、ハラリはこれまでその部隊を現場に投入することができなかった。それは当時のイスラエル政府が諸外国の主権を尊重していたからだ。たとえ友好国でも、その領土内でイスラエルが許可なく暗殺工作を行えば、その後の協力を得られなくなる。
しかしテロリストの拠点はドイツ、フランス、イタリアなどにあり、「結局はヨーロッパでテロリストを殺害する以外に方法はない」と確信していたハラリは、将来必要になったときのために密かにキドンの訓練を続けてきた。そして、ついにその時がやってきた。

ミュンヘン事件で全てが変わった。
前回話した人質救出作戦のお粗末さを覚えているだろう。西ドイツの警察はイスラエル代表選手団の命を救うために何の役にも立たなかった。事件発生後すぐ西ドイツに飛び、人質を乗せたまま炎上するヘリをただ放置している警察官や消防士を目の前で見たモサド長官ツヴィ・ザミールは言う。
「西ドイツは、イスラエル人であろうとドイツ人であろうと、人命を救うために最低限の努力をすることも最低限の危険を冒すこともなかった」
またしてもドイツの地でユダヤ人が虐殺され、その間も世界はまるで何事もなかったように活動を続けていた。西ドイツは、西ドイツ放送には変わりの番組の用意がないと主張してオリンピック中止を断固として拒否した。
「西ドイツは早々に問題を片づけてオリンピックを続行させることしか考えていなかった」
ザミールは帰国後、政府閣僚にそう報告した。
イスラエル政府は、イスラエル国民を守る上で他国はあてにできないと痛感した。そして、ヨーロッパ諸国が自国でテロリストの活動を阻止しようとしない場合には、モサドにその活動を阻止する許可を与え、さらにターゲットが友好国にいる場合でもその国の当局に通告することなく攻撃を承認する権限を首相に与えた。1972年9月11日、あの事件から6日後のことだ。
こうして、キドンはついに現場に投入されることになった。

モサド長官のザミールは、「神の怒り」作戦を実行する特別チームをハラリに編成させた。15名のキドン隊員で構成されたチームは5つのスカッドに分けられ、スカッドの名前にはそれぞれヘブライ文字のアレフベート1文字がつけられた。2名の暗殺者からなる א(アレフ)、アレフを護衛する ב(ベート)、ロジスティクス担当の ח(ヘット)、ターゲットを追跡し逃走ルートを確保する ע(アイン)、通信を専門とする ק(クフ)の5つだ。

ハラリらはまず殺害すべきターゲットのリストを作成した。最初にリストアップされたのはミュンヘン事件に関わったテロリスト11人で、彼らは最重要のターゲットと見なされたが、その中でもリストの最上位にいたのが「黒い九月」の作戦担当官アリー・ハッサン・サラメだ。モサドはサラメがミュンヘンでの残忍な殺戮作戦の計画、人選、遂行に誰よりも深く関わっていると確信していた。
それから「黒い九月」に関与していると思われる人物が次々リストに追加されていき、ターゲットのリストは最終的にかなり長いものになった。

リストの中から「神の怒り」作戦の最初の標的に選ばれたのは、ローマのリビア大使館で翻訳者として働くパレスチナ人、ワエル・ズワイテルだった。モサドはズワイテルがただの翻訳者ではなく「黒い九月」ローマ支部の工作指揮官であり、工作員の密航や武器の密輸を担当していると考えていた。”カエサル”は密かにローマに入り、作戦の指揮をとった。

1972年10月、イタリア・ローマ
その夜、ズワイテルは夕食をともにした友人の家を出るとバーに立ち寄り電話を一本かけた後、自宅アパートに帰ってきた。
ズワイテルがアパートのロビーでエレベーターのボタンを押した瞬間、階段の吹き抜けに潜んでいたキドンの「アレフ」がサイレンサー付きのベレッタ22口径を階下に向けた。ズワイテルが彼らに気づいたときにはもう遅かった。二人の暗殺者は彼に11発の銃弾を浴びせた。メッセージは明白だ。ミュンヘン事件で殺されたイスラエル代表選手団のひとりにつき一発の銃弾……。ズワイテルはロビー内の鉢植えに突っ込んで息絶えた。

1972年12月、フランス・パリ
二人目はパリで非公式のPLO(パレスチナ解放機構)代表を務め、「黒い九月」のナンバーツーと目されるマフムド・ハムシャリだった。その日、ハムシャリはカフェでイタリア人ジャーナリストから取材を受けていた。ただし、このジャーナリストは実はカイサリアの工作員であり、このインタビュー中に、ハムシャリの自宅アパートには別の工作員が侵入し、電話台のすり替え作業が行われていた。それは事前にアパート内に侵入し撮影された写真をもとにハムシャリの部屋にある電話台とそっくりに複製され、中に爆薬が詰め込まれた電話台だった。
偽の取材を終えたハムシャリが帰宅すると間もなく部屋の電話が鳴った。
「ハムシャリ様でしょうか?」
彼が、そうだと答えると、遠隔起爆装置のボタンが押され、電話台が爆発した。重傷を負ったハムシャリは数週間後に病院で死亡した。

モサドの暗殺リストに載っている、ムハンマド・ユセフ・アル=ナジャール(「黒い九月」の作戦リーダー)、カマル・ナセル(PLO執行委員兼スポークスマン)、カマル・アドワン(PLOの作戦責任者)の3人はパレスチナ・ゲリラの本拠地レバノンにある厳重に警備されたマンションに住んでいた。ハラリは通常の暗殺方法では殺害不可能と考え、イスラエル国防軍に協力を要請する。こうして二十世紀史上最大の暗殺作戦のひとつと言われる「スプリング・オブ・ユース」作戦が開始された。

1973年4月、レバノン・ベイルート
4月6日、6人のカイサリア隊員がヨーロッパ各地の空港を経由してベイルート入りし、サンズ・ホテルに別々にチェックインした。
4月9日、8艘のミサイル艇が出港し、ベイルートから20km離れた地中海沖に停泊した。ベイルートのカイサリア隊員から、ターゲットは自宅にいるという情報が届くと、ミサイル艇から19艘のゴムボートが降ろされた。そこにはイスラエル国防軍最強の部隊と呼び声の高いサエレト・マトカルの隊員21名を含む75名の戦闘部隊が乗っていた。

夜の闇に紛れてベイルートに上陸すると、戦闘部隊のうち8名がカイサリアチームがホテルの駐車場に待機させていた3台の車両に乗り込んだ。ベイルートの高級住宅地に入ると、目的地まで2ブロックの地点で隊員は車を降り、二人一組(そのうちの一人は女装し、カップルを装っていた)で歩き出した。
ターゲットのいるマンションのロビーにはPLOの護衛がいるはずだったが、その夜、彼らは車の中で眠っていたため部隊はすんなりロビーを通りすぎ、それぞれのターゲットの部屋に到着することができた。無線で合図を受けた隊員たちは一斉にドアを爆破し、部屋の中に入る。アル=ナジャールは寝室を出て別の部屋に逃げ込んだが、ドアの外から機関銃の掃射を受け、妻とともに射殺された。
カマル・ナセルはベッドの下に隠れたが、隊員はベッドをひっくり返してナセルを見つけ、機関銃を掃射した。
カマル・アドワンはAK-47を構えて寝室から出てきたが、目の前にいた隊員がカップルに見えたのでほんの一瞬とまどった。それが命取りとなり、隊員が服の下に隠し持っていたウージー短機関銃で射殺された。
この夜、カイサリアと国防軍の混成チームは3人のターゲットを殺害しただけでなく、同時に4つのPLO施設と武器工場を爆破し、「スプリング・オブ・ユース」作戦は大成功に終わった。

その後もハラリ率いるカイサリア/キドンの暗殺工作は続く。「スプリング・オブ・ユース作戦」の襲撃部隊がイスラエルに戻ったわずか数時間後にはアテネでファタハ(パレスチナの政党)・キプロス支部の代表に選ばれたザイード・ムシャシがホテルのベッドに仕掛けられた爆弾で死亡し、6月にはPFLP(パレスチナ解放人民戦線)のヨーロッパでの活動を指揮し、「黒い九月」にも所属していると言われるモハメド・ブーディアの車に爆弾が仕掛けられ、ブーディアは爆死した。
「ミュンヘン事件」から1年もたたないうちに14人のパレスチナ人テロリストが殺害されるが、事件に関わった11人のテロリスト、モサドが最初にリストアップした「最重要ターゲット」は誰一人殺害できていなかった。
ところが、1973年7月、モサド本部にノルウェーのリレハンメルでアリー・ハッサン・サラメと思われる男を見つけたという報告が届く。暗殺リストのトップにいる男、あのサラメだ。
「ついに見つけた」
モサドは色めき立つが、ハラリが指揮したこの後の作戦は、のちに「リレハンメルの悲劇」と呼ばれる悲惨な結末を迎えることになる。

1973年7月、ノルウェー・リレハンメル
その夜、サラメと思われる男は出産を間近に控えたノルウェー人の妻と映画を見に出かけた。その帰り道、二人がバスを降りると彼らのそばに灰色のボルボが停まった。車から降りたキドンのメンバー二人はサイレンサーをつけたベレッタで男に8発の銃弾を撃ち込んだ。血まみれの男を抱きかかえて泣き叫ぶ妻を残し、メンバー二人はボルボに乗って走り去った。

作戦は成功した。ついにサラメを仕留めた。ハラリは興奮を抑えながらノルウェーを出国し、アムステルダム行きの飛行機に乗った。アムステルダムに着くとハラリはテレビのニュースをチェックした。そしてそこで初めて、自分たちが犯した間違いに気づく。
ニュースが報じていたのはアリー・ハッサン・サラメの死ではなく、アフメド・ギブチというモロッコ人の男性が妊娠7ヶ月の妻の目の前で射殺された事件だった。アフメド・ギブチというのはサラメがノルウェーで使っていた偽名ではないかと疑われたが、そうではなかった。ギブチはテロとは何の関係もないスイミングプールの職員だった。

この暗殺チームはターゲットの人違いだけでなく、さらなる失敗を犯していた。殺害の際に使ったボルボを廃棄せずにレンタカー会社に返却しに行き、そこで待ち構えていた警察に逮捕されたのだ。逮捕されたメンバーの自白によってさらに別のメンバーも逮捕され、合計6名のモサド工作員が裁判にかけられることになった。

このリレハンメル事件をきっかけにモサドの暗殺工作はしばらく停止する。だが、もちろん彼らは忘れたわけではなかった。
5年後の1978年、「神の怒り」作戦は再開され、サラメの行方が改めて追跡されることになる。

Tattoos of Leonard Shelby from "Memento"

「黒い九月」は1978年にはもう存在しておらず、サラメもテロ活動から手を引いていたが、あるモサド隊員の言葉を借りれば「ミュンヘン事件にけりをつけるために」彼らはサラメを見つけ出し、殺害しなければならなかった。カイサリアの高官たちはサラメを殺したいという自分たちの願いを”終結closure”という言葉で表現する。私たちは”円を閉じたい”のだ、と彼らは言った。それはまた「リレハンメルの悲劇」、部隊が残したあの大きな失敗の疵を払拭するためにも必要なことだった。

やがてモサドは、サラメがベイルートの高級住宅地であるスヌブラ地区のアパートで暮らし、コンチネンタルホテルのジムに頻繁に通っているという情報を得る。
さっそくカイサリアの工作員がベイルートに飛び、偽名を使ってコンチネンタルホテルに予約を入れ、ジムに会員登録した。そして毎日ジムに通い、ときどきサラメと顔を合わせると二人は次第に仲良くなり、会話を交わすようになった。
この工作員がイスラエルに戻ると彼の得た情報を元にサラメの暗殺計画が立てられる。それは「バーナー」作戦と呼ばれ、「スプリング・オブ・ユース」作戦以来初めて敵対する標的国で暗殺を決行する作戦であり、ハラリによれば「国の威信をかけて成功させるべき作戦」だった。
「もうリレハンメルのような失敗は許されない」
ハラリも「バーナー」作戦の最終確認のためにベイルートに入った。

1979年1月、レバノン・ベイルート
100kgのプラスチック爆弾と起爆装置を載せた車が地下駐車場に入っていく。爆発物を運んできた男はそこで工作員二人と会い、英語二語の合言葉を言うと相手も合言葉の二語を返してきた。男は工作員に爆発物を手渡し、工作員二人はレンタカーのフォルクスワーゲンに爆弾を積んで起爆装置をセットすると、サラメのアパートにほど近い道路沿いにその車を停めた。

翌日の午後3時過ぎ、昼食を終えたサラメが愛車のシボレーに乗ってアパートを出た。シボレーの前を護衛を載せたランドローバーが、後ろを重機関銃を搭載したトヨタのピックアップトラックが走る。そして自宅から20メートルほど進み、路上に駐車してあるフォルクスワーゲンとすれ違った瞬間、大爆発が起こりシボレーは炎に包まれた。サラメは火だるまの状態で車から出て地面に倒れこんだ。彼はすぐに大学病院に運び込まれたが、手術台の上で死亡した。

サラメの死によって、円が閉じられたと考えたモサドのメンバーもいただろう。ハラリがそう考えていたのかどうかはわからない。その点に関する彼の発言は読んだことがないが、ハラリはサラメ暗殺の翌年、1980年にモサドを引退した……。

トリスタン じゃあ、ハラリも円を閉じることができたと思ったんじゃないですか?

メフィスト そうかもしれないな。ただし、その後もイスラエルによる暗殺とそれに対するパレスチナの報復テロ、さらにそれに対する報復の暗殺、さらにそれに対する報復のテロ……。この暴力の連鎖は終わりなく続いていくことになる。
イスラエルの人々が虐殺された同胞を忘れなかったように、パレスチナの人々も彼らが英雄と見なしている人物がモサドに暗殺されたことを決して忘れなかった。サラメも彼らの英雄のひとりだ。サラメの葬儀にはPLO議長のアラファトをはじめ約2万人のパレスチナ人が参列したという。

2001年、イスラエルとパレスチナ自治政府を隔てる壁に描かれたライラ・カリド(パレスチナ解放人民戦線初の女性メンバー)の壁画には、「闘争を忘れるな」と書かれている。まさにそれが、この壁画が描かれた理由であり、その存在意義だろう。彼女は今でもパレスチナ人にとって英雄であり、彼らはそのことを忘れていない。ここまで語ってきたのはイスラエルの物語、ミハエル・ハラリの物語だが、パレスチナにはパレスチナの物語があり、それはパレスチナ人の間で今も語り継がれている。

Leila Khalid mural, Bethlehem. (©️Edgardo Olivera)

イタリアやフランス、ノルウェーの法の下ではハラリは殺人犯だ。ライラ・カリドは英国ではハイジャック犯だ。ハラリやカリドが彼らの国で英雄と見なされているのは、そこに物語があるからだろう。イスラエルの物語ではハラリは同国民の命を救った英雄として語られるが、パレスチナの物語では彼は同胞を殺した憎き敵として語られる。
誰もが同じ物語を共有しているわけではない。だから円を閉じるのは非常に難しい。着地点が少しでもずれて円を閉じることに失敗すると、軌道はらせんを描いてどこまでも落ちていく。この負のスパイラルthe downward spiralにはまると、そこから抜け出すのは容易なことではない。ウィスタンやマチルダにしても、円を閉じようとするのは相当の覚悟がなければできないだろう。

ゾルデ じゃあ、やっぱりレオンが正しいんじゃない? 過ぎてしまったことは忘れたほうがいいんじゃない? 負のスパイラルにはまって落ちていくくらいだったら……。

メフィスト たしかに、ブリトン人への憎しみを忘れず復讐するまで終われないと考えるウィスタンが着地に失敗して無限スパイラルに落ちる危険性は大いにある。だが、サクソン人とブリトン人との間に結ばれた友好の絆は小さな花の茎で作られた結び目のように弱くて脆いものだと言うウィスタンとは対照的に、彼とともに旅をしたブリトン人の老夫婦は、ウィスタンやエドウィン少年との間に生まれた個人的な友情を信じ、それを確かなものにするために、「私たちのことを忘れるな」と言う。

「エドウィン、私たち二人からのお願い。これから先も、私たちのことを忘れないで……。忘れないで、私たちのことを。あなたが子供だったときの、この友情のことを」

カズオ・イシグロ『忘れられた巨人』

トリスタン ブリトン人に復讐しようとする者も、サクソン人との友情を永続させたいと願う者も、両者ともに同じことを言うわけですね。「忘れるな」と……。

メフィスト そう。だから、それが正しいんじゃないか? 決して忘れない……。それしかないんじゃないか?

もう一つ例をあげよう。1972年9月のミュンヘンを忘れなかったのはイスラエルのユダヤ人だけではない。ミュンヘンオリンピックに参加したバスケットボール男子アメリカ代表のメンバーもそこでの経験を「忘れなかった」。

トリスタン ミュンヘン事件の二日前に日本代表を66点差でやぶった、あのアメリカ代表ですね?

メフィスト そうだ。年を重ねるにつれ、ミュンヘン五輪の記憶を持つメンバーの数は少なくなっていく。だが、バスケットボール男子アメリカ代表は、自分たちのチームの物語を決して忘れなかった。
これから話すのは、生き残った人への献身、忠実さ、そして愛によって、30年以上の時を超えて、円を閉じようとしたチームあるいは家族の物語だ。
それは決して遅すぎるということはない。忘れてしまわない限り、円を閉じることはいつだって可能だ。

だが、健忘の霧に呪われた国では、記憶は共有されず、過去は簡単に忘れられてしまう。やがて、われらの時代の偉業を語る者もいなくなるだろう……。
物語など無用だ。そんなものなくても強くなれるとあなたたちは言うかもしれない。しかし、かつてNBAのスター選手で構成され、圧倒的な戦力を擁しながらオリンピック3位に終わったチームを”立て直す”ためにコーチKことマイク・シャシェフスキーがアメリカ代表に招聘されたとき、チームビルディングの達人である彼はチームをひとつにまとめ、選手たちに献身を求めるために物語を必要とした。そのチームに参加したレブロン・ジェームズは「ミュンヘン五輪のことを少しは知っていたけれど、物語の全てfull storyは知らなかった」と語った……。彼らの言葉を聞いても、物語など無用だと言えるのか?
歴史のないチーム、伝統のないチームがどれだけ強くなれるというんだ? 語り継ぐべき物語を持たないチームがどれだけ強くなれるというんだ?

だから誰かがドラゴンを殺し、この地の呪いを解かなければならない……。
誰がやる?

トリスタン 私がやりましょうか?

メフィスト そうだな。他にいなければ……。

ゾルデ そう焦らなくても、きっと誰か出てきますよ。たとえ”彼”が旅の途中で倒れても、タンタンが倒れても、生き残った誰かがそれをやるでしょう。旅をともにする仲間、その意志に共感する誰かは必ず現れますよ。

メフィスト そうかもしれない。それじゃあ、いつか合流するかもしれない仲間のために、われらが旅の一団にも戒めを定めておこう。十戒も十二戒もいらない。それはもっと少なくていい……。

忘れるな。

歴史を忘れるな。

歴史を築いてきた人々を忘れるな。

われらの時代の偉業を忘れるな……。

忘れるな、私たちのことを!

(【3-3】へ続く)


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