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バスケットボールの定理 【第3部】 〜孤独なアナリストの証明〜

理想と現実

2006年4月、東京都目黒区
大学のバスケ部であればバスケに情熱を持った選手たちと一緒に思う存分バスケに打ち込めるはず……。恩塚亨の思いから誕生した東京医療保健大学女子バスケットボール部。チームの愛称はウィザーズ(魔法使い)。
いつかはバスケットボールの聖地、代々木第二体育館へチームを連れていきたい……。その大きな希望を胸に恩塚は真新しい体育館へと向かった。
だが、現実はそう甘くはなかった。

1年目の部員は経験者3人と初心者2人の計5人だった。
試合中はベンチに恩塚一人しかいないため、タイムアウトになれば恩塚が選手に水を渡し、選手がベンチを出ていけば恩塚が椅子を並べ直した。
しかも部員たちはバスケをするために大学に来たわけではなかった。 2部練習をしようとすれば「なんで1日2回も練習しなきゃいけないんですか?」と言われ、厳しい練習を嫌がって1年しないうちに退部した部員もいた。
そしてついに、オフシーズンには誰も練習に来なくなった……。

何度も部員たちと話し合いを持ったが、練習を強制するわけにはいかない。一緒に上を目指していける選手を少しずつ増やしていくしかないと、高校に選手のリクルートに行った恩塚は、そこでも厳しい現実をつきつけられる。
当たり前のことだが、できたばかりの東京医療保健大学のことなど誰も知らなかった。高校の先生に挨拶に行っても、「何者だ?」という反応を返され、実力のある選手たちを勧誘しても、誰一人応えてくれない。
このときの恩塚は全く無名の大学の全く無名のコーチにすぎなかった。

あきらめの悪い男

実績を作らなければ……。
恩塚はますますそう思った。実績がないならば自分で作るしかない。そしてどうせなら最高の場所で、日本代表のスタッフとして実績を作りたい
ちょうどその頃、恩塚の友人がユニバーシアード代表にビデオ撮影という役割で帯同したという話を聞いた。
「ビデオ撮影なら自分にもできる……」
さらに調べていくうち、どうやらアメリカには試合や練習の映像を撮影して分析する”ビデオコーディネーター”という仕事があるらしいと知る。
「これだ」と恩塚は思った。そこでさっそくMacBook Proと動画編集ソフトを買いに行き、ひたすら動画編集を練習し始めた。

しかし、当時日本のバスケット界では専門のビデオコーディネーターはおらず、当然代表にもそんなポストはなかった。
どうやって売り込むか……。
そこで恩塚がとった策は、またしても企画書作りだった。大学にバスケ部を創設させた時と同様に、恩塚は、シンガポールで開催されるアジアヤングウーメン選手権大会にビデオコーディネーターとして帯同させてほしいという企画書を書き、日本バスケットボール協会に持ち込んだのだ。
協会の返事は「いいアイデアだが、もう予算が決まっているから大会には連れていけない」というものだった。
最初に断られるのもバスケ部創設のときすでに経験済みだ。
恩塚はこのときも”あきらめの悪い男”だった。
「じゃあ自腹だったらついて行ってもいいですか?」
その切り返しはあまりにも予想外のものだっただろう。
そしてもちろん協会には断る理由がなかった。

2006年12月、シンガポール
恩塚は渡航費・滞在費の一切を自腹で払い、アジアヤングウーメン選手権大会の開かれるシンガポールにいた。大会直前いきなり現れた恩塚に面食らっている選手やコーチ陣を尻目に、恩塚は試合の撮影からビデオ編集、スカウティングとほとんど寝ずに黙々と仕事を続けた。

大会結果は、決勝で中国に2点差で敗れ、U21日本代表は惜しくも準優勝に終わっている。なお、この大会でMVPと得点王を獲得したのが、現役引退後、東京医療保健大の恩塚のもとでアシスタントコーチを務めることになる吉田亜沙美であった。

「指導者の役割は何だと思いますか?」

2007年4月、千葉県千葉市
一方その頃、鈴木良和が立ち上げた”バスケットボールの家庭教師”事業は順調に成長を続けていた。そしてついに鈴木はこの事業を法人化する。株式会社ERUTLUC(エルトラック)の誕生である。
”ERUTLUC”という一風変わった社名の由来については、かつて鈴木の恩師である日髙哲朗がバスケットボールのことを”文化”と呼んでいたことを思い出せば、比較的容易に推測がつくだろう。

事業を立ち上げてからこれまでの期間、鈴木は指導者として研鑽を積むことに余念がなかった。
主にジュニア期の子供たちを教える機会が多かった鈴木が特に意識したのはヨーロッパの選手育成だった。
2003年にはドイツへ行ってBVケムニッツ99のコーチであったトーステン・ロイブルのクリニックに参加し、ドイツU16ヘッドコーチによる講習を受けた。
2006年、世界選手権でのスペインの優勝を見た後、「この選手たちがどうやって育ったのかを知りたい」と、2007年にスペインに渡り、当時、リッキー・ルビオが在籍していたホベントゥートというチームに1週間滞在し、クラブとスクールの練習を見学して、下部組織の責任者に話を聞いた。
こうしてヨーロッパの育成環境をリサーチしていたある時、鈴木はそれまでの自分の指導のあり方を根本から問い直される出来事に遭遇する。

2008年2月、イタリア・ミラノ
サッカークラブの名門ACミランの視察に日本からやってきたツアー団体。その一団の中に鈴木の姿があった。
周りはサッカーの指導者ばかりで、バスケの指導者は鈴木ただ一人だったが、スポーツ界においてあらゆる面で進んだシステムを持つサッカーから学ぶことはバスケの指導者としても大いにあるだろうと思い、鈴木はツアーに参加したのだった。

このツアーではACミランの本拠地ほど近くにある育成に定評のある別のクラブも視察することができた。その時のことだ。
育成年代の選手たちの練習を見学していると、練習でやろうとしているプレーがうまくできていないのに、次々メニューが切り変わっていく。それを見て日本のサッカー指導者たちがざわつき始め、鈴木も違和感を覚えた。
できるようになるまで教えなくていいのだろうか?
練習後の質疑応答で、日本人指導者がその疑問をイタリア人のコーチにぶつけた。
「なぜちゃんとできるようになるまで教えないのですか?」
イタリア人コーチはきょとんとして、まるで質問の意図がわからないといった様子だったが、やがて逆に問い返してきた。
「指導者の一番の役割は何だと思いますか?」
今度は日本人指導者たちがきょとんとする番だった。
鈴木も彼が何を言いたいのかわからず、困惑するばかり……。
すると、イタリア人コーチが言った。
「私たちは指導者の役割は課題を与えることだと考えています。そして課題を解決するのは選手たちの仕事です
彼はこう続けた。
「また明日同じ練習をすると言ってあるので、彼らは明日にはその練習をどうやるべきか考えてくるでしょう」

そのコーチの言葉に、鈴木は、えも言われぬ衝撃を受けた。
ヨーロッパの指導と日本の指導の違いがここにあると思った。
鈴木を含む日本の指導者は、できない選手をできるようにしてあげるのが指導者の仕事だと思っていた。
一方、ヨーロッパの指導者は、選手が課題を解決する力をつけるためにいい課題を与えてあげるのが指導者の仕事だと考えているのだ。

ヨーロッパでは自ら課題を解決しようと試行錯誤し、自分の力で課題を解決する能力を持った選手が育ち、日本では自分の頭で考えず与えられた解決法に取り組むだけの選手しか育たない……。
それは、鈴木の育成・指導に対する考え方を根底から揺るがす経験だった。

存在価値の証明

シンガポールでのアジアヤングウーメン選手権大会の後、恩塚は女子のA代表にも帯同させてもらえるようになった。
2007年の北京オリンピック予選では交通費が支給され、2008年の最終予選には正式なスタッフに昇格。そして2009年に恩塚は女子日本代表のアナリストというポストを得る。任期は4年だった。

当初、周囲からの目は冷ややかだった。
「指導者として何の実績もないやつに代表の分析ができるのか?」
恩塚の分析能力に疑問を投げかける者もいたし、
「あいつはビデオ好きのただのオタクだよ」
徹夜でビデオ編集に明け暮れる恩塚をそう言って笑う者もいた。
今でこそ、アナリストはどのチームにも欠かせない存在になっているが、当時バスケット界では、まだアナリストという仕事は確立されておらず、スポーツにコンピュータを使うこと自体に違和感を感じる人も少なくない時代だった。
男子代表チームにももちろんアナリストなどついていない。女子代表にだけ突然つくられたアナリストという未知の肩書きで全く無名の若造が意見してくるのだから、その意見が聞き入れられないのも無理のないことだった。

アナリストというのは過酷な仕事である。試合のあった日は試合映像の編集・分析が翌朝の4時5時までかかることもザラだった。
恩塚は休む暇もないほど自分とマシンを酷使しながら(彼は予期せぬクラッシュに備え、常に複数台のMacBook Proを持ち歩いていた)、コーチたちにレポートを上げ続けた。
そして、恩塚の粘り強い執念がまたしても実を結ぶ時がやってくる。

2010年9月、チェコ共和国・ブルノ
そのとき恩塚は寝不足の頭をフル回転させていた。
女子バスケットボール世界選手権、1次ラウンド。日本代表は初戦を落とし、負けられない第2戦、アルゼンチン戦を迎えていた。
アルゼンチンのチーム戦術の傾向を徹底的に分析していた恩塚は、試合が始まるとアルゼンチンの攻撃の入り口を手に取るように先読みできた。
「そこ行くよ!」
ベンチから恩塚の声が飛ぶ。
その声に選手たちが反応し、アルゼンチンの攻撃を次々につぶしていった。
恩塚の的確な声かけによる固いディフェンスから日本代表はペースをつかむもアルゼンチンも押し返し、試合は一進一退の大接戦となる。
そして試合終了間際、1点ビハインドの日本代表は大神雄子の劇的ブザービーターによって、59対58でアルゼンチンに勝利したのだった。
試合終了後、恩塚に笑顔でハイタッチを求める選手たちが口々に言った。
「恩さん、ありがとう!」
恩塚の昼夜を分かたぬ分析の積み重ねが、ついに報われた瞬間だった……。

情報や映像を活用してもらえるまでに2年ほどかかったが、自分に向けられる疑いの目に対し、恩塚は結果で自らの有用性を証明してみせた。
恩塚が代表活動と並行して大学でヘッドコーチを務めていたことも大きかっただろう。代表でのアナリストの仕事において、彼は「ヘッドコーチだったら何がほしいか?」という視点で情報を集め、分析し、ビデオを編集することができたのだ。
そして、スカウティングのために膨大なビデオを撮影し、その記録とデータを持つ恩塚は、こんな戦術がある、こんなスキルがあると、映像を見せながら代表のコーチ・選手に提案できるまでになった。

「自腹だったらついて行ってもいいですか?」
そう言って半ば強引にシンガポールまで押しかけていった若者は、いまや女子日本代表にとって欠かせない存在になっていた。

だが、恩塚にはまだやり残していることがあった。
「ウィザーズを代々木第二体育館のコートに立たせたい……」
関東大学リーグの1部に上がるかインカレに出場して勝ち上がればその夢は叶うが、たった5人の部員でスタートし有力選手のリクルートもままならないウィザーズにとって、その道ははるかに遠く険しいものに見えた。
しかし恩塚は事もなげに言ってのける。
「人って何かにチャレンジして自分が成長していく過程が一番楽しいと思うんです……」

彼の挑戦はまだ始まったばかりだった。

(第4部へ続く)



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