観劇した3公演それぞれの演出とか芝居とかの違いについてちょっとだけ話させて欲しい
です。
ざっくり、31日の初演と2日のマチネはほぼ同じ表現でのお芝居で、2日ソワレの千秋楽だけ若干、前2つとお芝居のアプローチが違っていたような気がする、という話。
芝居論とかそういうのではなくあくまでいちオタクの所感なので、フーンアンタはそう見えたんだ?程度に読んでもらえると気が楽です。特に長くないので……
①台詞の書いてある用紙(台本)の扱いの変化
先に投稿した「80分の悪夢〜」で書いた用紙の捨て方の演出について、
【春琴・佐助の言葉を読み聴きし終えた用紙は優しく恭しく手放すのに対し、春琴に無礼を働いた男の言葉が綴られている用紙はかなり雑に投げ捨てていて〜】
と書いたわけなのだが、2日のソワレ(千秋楽)だけ用紙の落とし方の変化が消えていた。
個人的にここの対比が(あくまで勝手に対比だと思っていただけに過ぎないが)好きだったので、変わったのね……という気持ちになっていたりした。
*
②声の強弱・緩急の付け方の変化
たまたまか?とも思ったけれど、2日マチネの時は特に何とも思わなかったので(オタクわいが鈍すぎるだけだった可能もおおいにあるが)おそらく意図的だろう、と思った話。
この件に関しては具体的にどこの場面が〜ということでなく全体的にという感じで、良い悪いの話ではなくなんと言うか、31日・2日マチネと比べて千秋楽は朗読劇というより舞台表現のアプローチのような雰囲気を感じ取った……というイメージ。
日本語が下手なので上手く言えないが、千秋楽だけ声の強弱付けの具合がかなり極端に感じて、それが悪いということではなく、そういう見せ方もある台詞なのか、みたいな雰囲気。
あえて一つ場面を上げるのであれば、春琴が熱湯をかけられ絶望し、永遠ではないからこそ美しかった、永遠の美しさなど存在し得ないと語るところの、ほりえるのお芝居。
31日とマチネは絶望よりも諦めの雰囲気が強く淡々とした物言いだったのに対し、ソワレはどちらかと言うと絶望に寄った、喉を絞って無理やり吐き出したような表現に変わっていたというもの。
総括としては、やっぱり舞台はナマモノだから、同じ日の同じ配役・同じ物語でもその都度見えるものって変わるんだよなというもの。
技術的な話も論理的な話も何も分からないけど、朗読劇っておもしれ〜〜という気持ちで今後も観劇したい。
【完】