80分の悪夢【春琴の佐助】感想殴り書き
●はじめに●
「抄」とは
「多くの中から少しばかり書き写すこと」とか
「抜き書き」とか
「注釈をつける」だとかそういう意味合いのある言葉で、つまり
「春琴の人生を少しばかり抜いて書き写すよ」というのが「春琴抄」。
今回の朗読劇は「春琴抄」改め「春琴の佐助」、つまりどついうことかと言うと、そういうことである。
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※以下注意※
このnoteは2024/10/31-11/3に開催された
イクニプロデュース 朗読劇【春琴の佐助(白藤)】のネタバレを大いに含みます。あと台本の内容にもゴリゴリに触れます。閲覧は自己責任で、お願いいたします。
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しかしながら後々読み進めていくとわかるけれど、佐助もまた春琴の人生の一部みたいなものなので、大題としては「春琴抄」でまァ間違いは無いといえるだろう。
「春琴の佐助」は言うところの中見出しみたいな。
というのを踏まえた上で「春琴の佐助」における、佐助という男は一貫して春琴の「モノ」であった。
●脚本・本筋についての話●※原文「春琴抄」未読
春琴と比べて佐助の心情描写が極端に少ないな、という印象。
語り部を除いて佐助の一人語りから本筋に入るが、佐助は基本常に春琴のことを考えていて、春琴がどんな人間か……とか、春琴をもっと知りたい……とか、そんなものばかりのため、心情としてカウントするには些か浅い。
佐助は徐々に春琴のモノとして覚醒していくわけで、覚醒した佐助の心情描写については綺麗さっぱり抜け落ちている。結果として佐助の心情描写は針を目に突き刺す時の「さすぞ……」以降に集約されてしまった。
この極端な演出については
「視覚でしか情景を認識出来ない春琴」と、
「視覚で得た情報がそのまま感情として出力される佐助」の対比も恐らくあって、
「見えないものが見えている」春琴の抽象的な心情描写、
「見えているのに見えない」佐助の見たものをそのまま伝える情景描写で区別されていた気がする。
ただ、終盤になると佐助がかなり春琴に近い言葉で情景を語る場面が出てきて、その後唐突に第三者である「春琴に琴三味線を習いにきていた男」が語り部として現れ、「春琴と佐助」の2人についてを語り始める。
上記した第三者の男が出てくるまで、佐助にとって春琴は「分からないけれど理解したい、美しく儚い人」であり、春琴にとってもまだ第三者的な立場の人間でしかなく、言うなれば佐助もまた、春琴を外側から語る「語り部」であった。
それが、2人で共に年月を重ねたことでお互いへの理解が深まり、佐助も春琴を理解し始めたことで佐助もまた、人から理解され難い何かに徐々に変化してゆく。
結果として、見えていない何かで繋がった気妙な2人として、第三者から語られる対象となる。
……、
ぶっちゃけ物語が始まってかなり早い段階で「たぶん本当にヤバいのは佐助の方だな」って薄らわかる。佐助の生きる目的が春琴になった瞬間が手に取るようにわかる演出と、伊東さんのお芝居がかなり顕著。
(台本を読んで知ったのだが、明確に佐助が春琴に心惹かれていく場面がト書としてあった。それ声で表現できるもんなんや……プロってすごいぜ)
たぶん、佐助の人生は奉公人として平凡だった。
ただ佐助がその「平凡」に物足りなさを感じていたから、もしくはただ「平凡」であったがために春琴みたいな変わり者の超人美少女に惹かれてしまって、囚われて、「平凡」のままであれば普通に得られたはずの「喜怒哀楽」のうち「喜楽」を手放して、怒も捨てて、哀に生きる道を選んでしまった。
で、春琴の傍若無人な振る舞いに辟易せず付き従って、自分で買った三味線で恥をかかされて、恐らくあそこが春琴を見限ることが出来る最後の瞬間だったろうに結局逃げずに向き合い続けて、観客としても「ああ、やっぱり佐助って本気でヤバい人なんだな」って気付く。
話は戻って、佐助は常に「人」と「モノ」を行き来していたように思う。結局春琴の一言でどちらにもなってしまうのだから、相対的に見れば佐助は佐助というモノ以外の何ものでも無かったのだろう。それを春琴も望んでいたし、佐助も望んでいたのだから、こんなにも歪なのに相思相愛である事実に変わりはない。
2人の関係を愛や恋なんて言葉で表現するのは綺麗すぎて些か違和感をもつけれど、じゃあこのふたりって結局どうだったん?と問われると、おかしな形ではあったけれど、愛し合ってたんじゃない?みたいになってしまうから複雑である。
ただ身も蓋もない言い方をすれば完全に共依存の1番ヤバいやつだとは思う。依存の先に幸福は無いよね、みたいな。
あと確実に、佐助って相当ドMを拗らせている。(いくら春琴への深い情があったとしても、ある程度痛みに対する許容がないと恐らく耐えられるものではないため)
春琴は誰に対してもあの振る舞いで(盲目である点、類まれなる美貌と才能持ちという点を踏まえてもかなり酷い)言い逃れしようのないドSだし、最低の関係だけどたぶん最高のパートナーだった2人。傍から見れば生き辛い人生にしか思えなくても、当人たちはきっと幸せだった。
ある一瞬、ともすれば男女の関係にもなり得たチャンスを己の両目と共に潰したあの瞬間、春琴に付き従って恐らく初めて彼女より優位に立てたはずのあの場面で佐助は、彼女と関係を変えるより、変わらず主人と丁稚であり続ける道を選んだ。その関係こそが多分、2人にとっては正しい愛の形でもあった。
●演出とかの話●
台本ではなく藁半紙のようなものを読む2人(語り部含めて3人)という舞台。
春琴・佐助の言葉を読み聴きし終えた用紙は優しく恭しく手放すのに対し、春琴に無礼を働いた男の言葉が綴られている用紙はかなり雑に投げ捨てていて、あの用紙そのものが2人の気持ちであり、何ものにも代えがたい慈しむべき人生そのものであると、こちら側も察することができるような演出だったように思う。
2人の関係については後述するが、舞台後方の席から前方のマイク前に移動する際、2人の場面における登場の仕方は、必ず春琴(ほりえる)が先を行き、その半歩後ろから佐助(伊東さん)が着いていく、という形で統一されていた。
例え台詞外であってあも、丁稚は主人の前を歩かない。
立ち位置は上手が佐助(伊東さん)、下手が春琴(ほりえる)。
普通であれば位の高い春琴を上手に置き、佐助は下手のはずだが、今回あえてこの立ち位置だったのは暗に「2人の関係を形作っているのは佐助の方である」ということを示唆していた?というぼんやりとした考察を投げておく。
横移動より縦移動が多いという珍しい動きをしていたが、春琴が夢に落ち、その後佐助に対して奇妙な違和感を感じ始める第3場でのみ2人の立ち位置が入れ替わる。この時、2人の台本(用紙)が本来の立ち位置(上手・伊東さん、下手・ほりえる)である用紙と混ざり合うことで2人の人生も恐らく混ざりあった。
後の暗転に向かうまでのやり取りから、2人の関係に身体の交わりが加わったような掛け合いが見てとれるものの、第3場は春琴と佐助がお互いの立場と役割を再確認する場面でもあるため、2人の人生において最も変え難いものは「主人と丁稚」の関係である、ということが案に示されている(とオタクは受け取った)。
精神的にかなりくる演出だったわけだけれど、ダイレクトにダメージを食らうということはそれだけ分かりやすいという意味合いもある。
当たり前だが物語のメインは春琴であり、盲目である春琴の心情に深くリンクした演出のため舞台全体はかなり暗い。印象的な場面が多かった中で特に印象に残ったのは、「光」が春琴を傷付ける「痛いもの」として使われていたところ。
熱湯をかけられ叫ぶ春琴の場面、ヤイヤイ観客の目を潰す気か?!というレベルの光線のような光演出があって、そこから物語は文字通り急降下する。
ただでさえ緩やかに降下しながら進む話なのに、さらに下がっていくのだからそら痛いし怖いに決まっている。
ここ、春琴「毎日明るくて、まぶしい」とここ一番の優しい表情を見せ、舞台全体を通して最も穏やかな2人の場面が演出されていたために、その後の転落具合の残忍さがより強調されていたのもある。
長い月日をかけてようやく、音から得られる光しか美しいものとして認識しなかった春琴が、そうではない外部の光も「美しい」と思いはじめる、このかなり重要な場面を「転換」として使う演出の仕方がもうグロい。
(ここに関しては、台本上でこの光がそもそも「春琴の顔を溶かした熱湯」の扱いであることが書かれていた。これは褒め言葉だが、最悪の演出である)
それと、他でもない春琴が琴三味線に秀でているという話があるにも関わらず、舞台上でいっさいの「音楽」が使用されなかったのも強く印象に残った点。三味線を演奏する場面は多々あるのに、音楽としての音はただの一度も鳴らなかった。
台本にもあるが、辱めとして佐助が三味線を演奏させられる場面、「演奏している」のに演出としては佐助を演じる伊東さんの「三味線に合わせた息遣い」しか聴こえない。それも過剰なほど過剰な、聴いている方が苦しくなるような喘ぎともとれる息遣いのみ。
座席5列目からでも視認できるほどこの時の伊東さんの喉元は物凄い隆起の仕方をしていて、息ってこんなエグい音出せるのか……と唖然とした。下から当てられる弱い光のみの舞台上で、佐助の喉元だけが照らされた光景はあまりにも異様だが、この光の演出は「盲目」が主題としてある今回の舞台において、なくてはならない表現方法であることは言うまでもない。
●メインキャスト2人の芝居についての話●
春琴を演じるほりえる、天才だった。
と言うかほりえるの芝居見る度「この人天才だよな」って思う。天才だよ本当に、芝居……は……
ほりえるの声って別に女声ではないのだけれど、女の声に寄せた圧のある声色は普通に怖いし、むしろ普通に女性が話すより奥行きがあって息が詰まる。
あの声で怒号を浴びせられてぶん殴られたらそら大の男でも泣く。あとヒスった怒号が怖すぎて声が止んでもしばらく肩が強ばっていた。
声の強弱の付け方が本当に天才で、穏やかに話したと思ったら次の瞬間怒鳴りつけてきて、酷いとか怖いとか通り過ぎて苛烈の域。そのくせ「叩いている私の手だって、痛いのに」とか言うからタチが悪い。
でも、そのちいさな呟きの中に、佐助への強い思いに戸惑う女性らしい儚さがおそらくあった。ここまでずっと苛烈で気難しい女を見せ続けていたのにもかかわらず、ふとした瞬間に出る仕草や表情、言葉の湿度に「いじらしさ」を感じてしまい、いよいよバグが起こる。
あまりこちらの感情を振り回さないでくれ。
*
伊東さんの佐助、いちばん怖かったのは目を潰したあと、春琴と同じ盲目の世界を見た時の口元しか見えない状態で発せられる「本当の、くらやみ!」の芝居。裏返った声と、微笑みの浮かぶ口元。両の目を自ら潰して「痛い」と泣き喚きながら、慕う女と同じ世界を見て愉悦に浸る紛うことなきヤバいやつ。
おそらく観た人全てにトラウマを植え付けた佐助の例の場面。
「さすぞ……」の切迫した声音から、情景説明として入れられた「ずぶり。」以降の台詞の声音。
全体通してここの場面はひたすら暗く静かなために、その後の「痛い、痛い痛い痛い痛い」の絶叫がより一層恐怖をもたらす。
痛みを表現する時、「痛い」と言葉にするとわざとらしさが出そうなものなのに、この時は紛れもなく痛覚があった。思わず舞台上から目を逸らしたほど、伊東さんの、佐助の、悲鳴が、痛くて仕方なかった。(3公演とも怖くてちょっと泣いた)
「無知な田舎者だが聞き分けは良い」青年である佐助は文字通り「春琴の佐助」として作り替えられていくわけだが、恐怖を含む全ての感情を1人の女に捧げてしまった男のゲシュタルト崩壊した「はい」ほど怖いものはない。伊東さんの、台本すら見ていない虚ろな目が、どこを向いているのか分からなくて怖かった。
というか基本的にずっと、佐助は「よくわからない」怖さがある男だった。
*
ほりえるのお芝居は何度も観ているというわけではないので詳しくは分からないけれど、伊東さんのお芝居に関して(少なくとも主観で、かつここ1年ほどの観劇において)は、わりと動的な表現をする人だという認識があった中で、今回のお芝居はかなり「静的」だったように思う。
特にメインキャスト二人の「静」が目立っていて語り部の動きがやけに大きく感じた。ただ、舞台上においては語り部の大きすぎる反応が目につくけれど、恐らく本当の意味で浮いていたのは春琴・佐助の2人の方で、2人はずっと、外野が何を言おうと言わずとも終始二人の世界に生きていたのだろうなと想像できる表現に思えた。
●春琴と佐助 2人の関係についての話●
春琴は言わずもがな天才で、現代の言葉で言うなら「スター」の立場にいる人。対して佐助は一般人であり、本来であれば春琴とは横に並ぶことすらできない立場の人間。
どこかで一線を引きながら、自分の全てを決して見せない春琴は、それでありながら佐助に対して「全て捧げろ」と言ってのける。自分は佐助に対して、全てをさらけ出すことはしないのに、だ。
そして佐助である。身の程を弁えた上で強く相手を思いやるとこうなる、というのをその身をもって体現した男。言ってしまうと、この2人がこの結末を迎えるに至った元凶は確実にこの男だと思う。
2人の関係性については、第4場で登場した「2人を語るもの」利太郎が言い放った
「気色悪いんですよあのふたり!(中略)関わって分かったのは、どっちもまともな人間じゃないってこと!あんなふたり、絶対幸せになんかなれないね!」これが総括。
利太郎は普通の代表だった。男なら惚れた女のいじらしい声が聞きたくなる、2人きりになってイイコトをしたくなる、殴る蹴るをされて腹が立つ、どれも当たり前の感情で、ご丁寧に「至って常識人ですよ」と言ってくれている。(その後熱湯をかけたのは恐らくコイツなのでこいつもヤバい奴だが、腹が立ったのでやり返したくなる、という感情そのものは「普通」の感覚であるとも受け取れる)
言わずもがなここは、佐助の立場との対比である、と思う。
何年付き従っても春琴を汚さない。
どれだけ痛めつけられ辱められても春琴に歯向かわない。そんな佐助の、異常なほどの春琴への従属と想いとの対比。
普通じゃない春琴に対して、結局のところ佐助も普通ではなかった、というか、普通であることを辞めてしまえた。惚れた女のために。
「美しくなければ、私は私でなくなってしまう」と言っていた春琴が、両目を潰した佐助に「おまえがいる限り、私は私だ」と言い放つ。
「春琴の佐助」の名の通り、この時佐助は本当の意味で春琴の一部になった。佐助の中にいる自分の姿が永遠に美しくあることを認めたのはつまり、佐助の目に映っていたものが美しいものであると、春琴が認めたということだと思う。
春琴は佐助の中で生き続ける。美しい姿のまま、佐助が佐助である限り、春琴は春琴でいられるのだと。
2人にしか見ることのできない光と暗闇の世界で、盲目の女と、女を盲目的に想い続けた男は、混ざり合ってひとつのくらやみに溶けていった。
〇劇終〇
全てが悪い夢のような朗読劇だったと思う。
楽しさや嬉しさを削り落として、苦しさや痛さ、辛さ、悲しさ、異常さを最大限まで膨らませた悪夢。悪夢はなかなか忘れることができないもので、トラウマほど心にしつこくこびり付いて消えることはない。
そういう舞台だった。二度と忘れられない、忘れることを許されない、最悪で最高の物語を、お芝居を、ありがとうございました。
いやー、凄まじかった。しばらく引きずる。
(カテコ無し、キャストのいない舞台上に向かって拍手をして劇場を後にしたのも初経験で、最後の最後まで2人の幸せな笑顔を見ることなく退散したため情緒はぐちゃぐちゃである)
【番外編:台本をおすすめしたい話】
声で聴いても怖かったけど、活字になるとまた別の怖さがある「お前はモノだ」「はい」の押収。
ここに限らずだけど、春琴と佐助のこういった短い台詞のやり取りだけで4ページ5ページ余裕で使われていてその執念が本気で怖い。
台詞を縦に列ねることも出来るだろうにそうしないのは、ページを捲らせるとか、紙を落とさせるとか、そういう演出面も関わっていたのかしら……とか思った。
あとやっぱり春琴の「飯」「紅」「暑い」「寒い」諸々の紙はランダムだった。そうじゃないかな〜と伊東さんの言葉の間を聴きながら思っていたけれど、ランダムだからこそ「振り回されてます」感がリアルで良かった。徐々にイライラしてくるほりえるのお芝居も相まって、臨場感が仕事しまくり。
最後に出てきたアレ、お墓だと思ったけどモノリスと書かれていた。モノリス、一般的な意味は「一枚岩」「一体化した大きな物体」とのことで、成程な……という感じ。お墓にしてはのっぺりしていて違和感があったので、「建造物」だと言われて納得した。あのふたりは""そういうもの""になったということなのだろうか。
納得こそすれ、スッキリはしない。
あと最も重要なのは、台本に書かれていて舞台では演じられなかった第5場のラストシーン。2人がかつて出会っていたことを示唆する場面がごっそり削られていた。
80分という時間に収まらなくて削った、というのが妥当なところだろうが、何となくここを入れてしまうと「説明」になりすぎてしまうような気がしないでもないので、意図して入れなかった可能性もある。
ここの場面は恐らく物語全ての答え合わせで、川に引きずり込んだかもしれない春琴と、共に泳いで渡ったかもしれない佐助の、持ちつ持たれつの関係がここにきてハッキリ書かれてしまう。
ここを踏まえると、春琴が夢に落ちるイメージの際使用される音響が水音だったのも理解出来ると言うか、春琴の意識化として描かれている水の中にそもそも佐助が存在していたことになるため、このふたりは元より""つがう""2人であった、というのが明確に示唆されるということになる。
第5場、物語の最終場面は「老いて死ぬ寸前から徐々に若返り、最後の最後まで関係の変わらない2人を示すもの」という演出として見ていたのだけれど、台本には「死後の世界(極楽浄土)」とあった。
ここを極楽浄土として受け取るためには、前述の「台本にはあって実際には演じられなかったラストシーン」の佐助の台詞が必要不可欠だと思う。だのに、あのシーンを入れなかったということは、必ずしもあの場を「極楽浄土」として認識する必要は無いという、演出側の意思だと受け取ることも出来る。
現地物販で台本が枯れるなんて場面、そうそう見られるもんじゃないと思うので、そこも踏まえて良い現場だったと思う。台本買って良かった。気付きがある、というか多すぎる。色んなことを思う。あとめちゃくちゃ怖い。
印象として、ものすごく読みやすい台本だと思った。その分キャストの技量がガッツリ試される。間、呼吸、息、全てがキャストの芝居に委ねられていたのだと思う。呼吸ひとつとっても油断出来ない、そら聴いてるこっち側も休まる場が無いわけだ。
キャストの二人には到底及ばないけれど、観客も観客で相当キツかったので、まずは「お疲れ様でした」と言うことを許してほしい。
お疲れ様でした。台本を買おう。
【完】
ついでに、時間のある方は補足文章もよければ↓↓↓