偉大なるわが両親について
夕方です。今日は乾燥していて唇が乾く乾く。昨日までは唇がかわくこと自体忘れてたもんで、改めてこれは「乾くもの」だと思い知らされるようで真新しいような懐かしいような気分。
そんなふうに起床後刹那思考時間を挟んだ後、目に飛び込んだ天井は、懐かしくてとても懐かしい、実家のものでした。そういうと昨日は、住所を移さずに一人暮らしをしているため衆議院選挙の投票のために実家に帰ったのです。そうしてこのおうちにはかわいいかわいい息子が帰ってきていたのでした。そしてそこにあったのは実家で暮らしていた時には気づかなかったこと。
俺は家族に愛されていること。それも少しじゃなくて、俺が自分自身をおもうより、恋人をおもうより、保育園児が移動式の籠に詰められた愛くるしいアレをおもうより、ずっと重く思っていることを、ここのところ実感し始めている。洗濯、掃除、炊事、実家での生活の全ては偉大なるわが両親の御心にて保たれ、これは損なわれないのだ。生家を離れ1人で暮らすこと3年目にして、ようやく自分の意志でもって生活を回すことの億劫さ、けだるさ、そして愛しさがわかってきた。ごはんを食べるのは自分がかわいいから。洗濯をするのはくせえ服を着る自分が嫌で、フローラルな自分だとうれしいから。掃除をするのは自分が鼻水ズビズビになりたくないから。偉大なるわが両親にとってそれらの「自分」にはきっと俺のこともふくまれている。きっとそうだ。そうに違いないから、俺が実家に帰れば嫌な顔ひとつせず、他人の俺に美味しい飯を食わせてくれるのだろう。
それがどんなに幸せなことだろう。俺はひとりで、俺以外は他人だということは変えようがないが、どうやら他人にとって俺は他人ではなく、溶け合ったひとりでさえあるらしい。ならば俺はだれかとひとりになれるのかもしれない。そんなひとりとなり、自分を可愛がるのはどんな心地だろうか。
俺が痛がれば俺も痛がり、俺が悲しければ俺も悲しい、そんな俺であれるとしたら、それは痛いことかもしれない。けれど、いま、16時21分、俺は猛烈にそんなひとりにいたく憧憬を抱いている。のだ。明日はどう思ってるかは知らないし、今日寝る前にどうかも知らないが、いま、いま、いま、俺になれたことは忘れずにいようとおもう。
もうすでに先程の憧憬の燻りが見えはじめてはいるけれど、このあとはボーリング。友達とボーリング。投げ投げ投げ投げ、そのあとは鍋を食おう。
とても辛いやつ。