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標準語を話し始める友人と関西弁にこだわる僕の話【断想】

 標準語では極力話さないようにしている。
東京でしばらく過ごした際にも、特段意識していたわけでもないが、決して標準語を使うことはなく頑なに関西弁で話し続け、周囲に関西弁を伝染して得意げに帰ってきたのを憶えている。

 ところが皆が皆僕のように方言にこだわるかといえばそうでもないように思う。

大学生になると、関西の大学に通っているというのに、高校の友人の数人が標準語を話すようになっていったのには驚いた。どうやら様々な地方から来る人がいたり、異年齢との付き合いが多くなったりする中で、当たり障りのない標準語を使うようになり、それが染み付いていくケースは少なくないようだ。

関東に行った友人達は程度の差はあれ当然のごとく標準語にどんどんと染まっていった。

 そんな友人達と話す度思う。気持ちが悪い。
人に対して気持ち悪いなんて言うもんじゃないと思うのだが(笑)、感じるものは仕方がない。感覚には嘘をつけない。

 自分が標準語を喋った時にも同じように気持ち悪さをおぼえる。
舌はなんとなくフワッと浮いた感じで、全身がムズムズしてきて腕や太腿をつねりたくなる。

確かに自分が話しているのに、まるで自分が話していないような感じ。

 僕にとって言葉とは自身の人格と切り離すことができないものだ。
言葉を身につけて此の方二十年、僕はずっと関西弁を話して生きてきた。
僕の人格は話し言葉においては常に関西弁という仕方で表出されてきたわけだ。

それを急に標準語でと言われても、とても同じものを表現できているような感じはしない。
「自分らしく等身大で、但しスーツ着用」みたいなイメージ。

方言から標準語に乗り換える人達は違和感をおぼえはしないのかと僕は不思議で仕方がないのだが、どうやらあまりそんな感じはしないらしい。僕に「気色わるっ」と言われた友人は概して「そんなに標準語?」といった物足りない反応だ。

 方言は地域や土地を背負ったものであり、話し言葉は近しい周囲の人の影響を強く受けたものである。
話し言葉で方言を話すということはアイデンティティと密接に結びついている。

そして、そういう言葉を共有しているということは人間関係において重大な事象なのではなかろうか。

 友人が標準語を話し始める。
その事態は、関係を成り立たせているものが、共有してきた何かが失われてしまったのではないか、そんな不安を僕に与えているのかもしれない。


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ざわけん/大澤健
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