ミンドロ島と奥永源寺の「いい知れぬほどの恥ずかしさ」の話【断想】
高名な児童文学作家・灰谷健次郎氏のフィリピンのミンドロ島での休暇のエピソードに印象的なものがあります。
ある日、イシガニと呼ばれる大きなカニを捕まえ、灰谷氏一行は歓声をあげました。すると現地の人が、茹でて食べさせてあげましょうとカニを持ってどこかへ行きました。ところが、しばらくすると調理をせずに戻ってきて、申し訳なさそうに、抱卵しているので海に帰してやると言いました。
それをきいた灰谷氏は「いい知れぬほどの恥ずかしさ」を覚えたそうです。
日本人は世界の海を「海賊のように荒らし回って」きました。
自分の手で乱獲をしておらずとも私たちは、そうして獲られた魚を食べながら生きています。
灰谷氏は、ミンドロ島の人たちが当たり前に、抱卵しているカニは海へ帰すということをしているのを目の当たりにして、生命への畏敬を自身が、日本人が忘却してしまっていることを痛感させられたのです。
先日僕は滋賀県の山奥の奥永源寺という土地を訪れました。
奥永源寺は「宇治は茶所、茶は政所」と茶摘み唄で歌われ、かの有名な石田三成の「三献茶」(三成がお茶の温度と量を変えて三杯いれて秀吉に見込まれたというあれ)でも出されたという「政所茶」の産地として知られています。
ところが政所茶はこの百年の間に徐々に人々に忘れられ、存亡の危機を彷徨ってきました。
そんな政所茶にいま再び光が当たろうとしています。
その大きな理由は、政所茶が全国でも2%しか残っていない「在来種」であることです。
均一化・大量生産の流れの中で、お茶の生産も効率化され、機械による摘み取りや加工も容易な「やぶきた」という品種が殆どの地域で採用され、農薬や化学肥料も大量に使用されるようになりました。
旨味の強いお茶が好まれ、均一でない茶葉は見向きもされない。その上高齢化、過疎化は加速の一途。
そんな時代の潮流に苦悩しながらも決してのまれることなく、奥永源寺・政所は在来種という伝統的なお茶の木を守り続け、農薬や化学肥料に決して手を出すことがなかったのです。
苦境の中で兼業化してでも地域の伝統を守り続けさせたものは一体なんだったのか。
その理由の一つには「源流に住む私たちが水を汚しては、川下の方々に申し訳ない」という思いがあったそうです。
この話を聞いた時に僕もまた「いい知れぬほどの恥ずかしさ」を覚えました。
自然への畏敬というとなんだか話が壮大になりますが、私たちの生活に不可欠な「食」を守るということも風景を、自然を守るというに繋がります。
今からでも自身の「食」を見直さなければならないのではないか。最近は益々そんな風に思えてなりません。