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"絶望"を描くことで"希望"を見せるマカロニえんぴつ・はっとりのソングライティング

 "何かと、気持ちが浮かない日々が続いていますけど、ずっと続く絶望は多分ないと思ってるので、今が最悪だと思って、どんな日々でも愛していけたらいいんじゃないかなって思います。" ———「THE FIRST TAKE」に出演したマカロニえんぴつのvo.はっとりは歌唱前、こう語った。SONYが運営するYouTubeチャンネル「THE FIRST TAKE」。今でこそレーベルの垣根を越え、多種多様なバンドやアーティストが出演しているが、当初はSONY系レーベルのバンド・アーティストのプロモーションが目的であり、初期では他レーベルのバンドの出演はなかった。そんな中、当時はまだインディーズだったマカロニえんぴつのキャスティングは異例だった。

 冒頭に記した言葉、ファーストテイク出演時のコメントではあるが、それだけではなくて、ある種、はっとりというソングライターが綴る楽曲の根底にある彼の人生観でもある。この時披露された楽曲は「青春と一瞬」。そしてバンドとして再登場した際に披露したのはニューアルバムのリードトラックでもあった「hope」だった。通例、ファーストテイクにおいては、殊に初登場時はそのバンドを象徴するような代表作と言える楽曲を披露することが多い。マカえんも当時から「レモンパイ」や「ブルーベリー・ナイツ」、「恋人ごっこ」といった楽曲の方が広く認知されていた。にも関わらず、それらの楽曲ではなく「青春と一瞬」と「hope」を選曲した意味を考えると、ファーストテイクが敢えてマカロニえんぴつを選んだ意味が見えてくるのではないかと思う。

 はっとりがファーストテイクに初登場し「青春と一瞬」を披露したのは2020年4月3日のこと。当時といえば、俗に言う"コロナ禍"の最初期。誰にとっても経験したことのない事態に計り知れないほどの不安を感じていたような頃だった。そんな中だからこそ、はっとりの言葉はリスナーの心を揺らす。何が正解かなんて時間が経ってから分かることの方が多いし、一生かけても辿り着けないことだってある。そんな不確かな未来を生きるために必要なのは、確かな今を愛し抜くこと。答えが見えないまま何もかも遣り残し過ぎていく空虚な時間を"青春"と表現している。"ずっと埋まらないくらいでいい 時間は少し足りないのがいい"というフレーズは、先の見えない毎日に不安と遣る瀬無さを抱えるリスナーに向けて選んだはっとりからのメッセージなのだろう。

 ファーストテイクとおおよそ同時期の4月1日にリリースされたアルバム「hope」は、前述の「青春と一瞬」の他「レモンパイ」「遠心」「ブルーベリー•ナイツ」「恋人ごっこ」「ヤングアダルト」と、インディーズ期のマカえんを象徴する名曲が揃っている。そしてこのアルバムの表題曲でもある「hope」もまた、マカロニえんぴつというバンド、そしてはっとりというソングライターを象徴する一曲だと思う。タイトルから既に"希望"を意味するこの曲、しかしながら単に希望色全開な楽曲ではない。むしろ描き出しているのは絶望に近い感覚だろう。季節が移り変わる中で、思い描いた理想の自分に近づけそうにもなくて、変われないまま時間が過ぎていくことに焦ってしまう。うまくいかない現状に不安を感じていながら、どうにもできない自分のことを嫌いになって…。きっと誰にだってそんな感覚はあるはず。生活が大きく変化する新年度なんかは特にそう感じることは多い。だからこそはっとりは"手を繋いでいたい" と歌う。そんな毎日への不安で千切れてしまわないよう繋ぎ止めてくれるものって、人との繋がりなんだと思う。孤独を感じる時だって、見えなくてもちゃんと繋がっている。そうやって千切れそうな心を繋ぎ止めてくれる存在がいて、お互いの弱さも預けられることが、絶望しかない毎日に射す微量の希望なのだろう。絶望を描き、希望を歌うこの曲、"ベランダから春が射した 理由もなく泣いてしまった" "幸せの削りカス 集めて生活する" "どんどん狭くなる恋路をどうしてだか愛してしまうな" "僕らは結局 それぞれだったよね" と、個人的にはどこをとっても感情を揺さぶってくる大好きなフレーズばかりだ。この曲が配信されるにあたってはっとりは「絶望の裏側では必ず希望のカケラが息をしていて。その微かな希望の光を見出せるか否かにかかっていたりする。」とセルフライナーノーツに綴っている。自分ははっとりのこの言葉も大好きなんだけど、これも何というか、はっとりというソングライターの楽曲に強く滲んでいる人生観な気がする。

 マカロニえんぴつというバンド、サウンドだったり言葉選びだったり少しトリッキーなところがあって(バンド名もトリッキーだなんてことは散々擦られてきたし本人たちも自虐してきたことだが)、他のどのバンドも持ち合わせないようなマカえん独自の不思議な空気感がある。そこに魅力を感じる人もいれば、そこに苦手意識を感じる人だって勿論いると思うし、ハマらない人にはハマらないバンドなのかもしれない(私はこんな文章を書いているのだから当然その空気感にハマった側の人間である)。でも、歌詞に乗せられるメッセージは他のどのバンドにも劣らないくらいに力強い。そして誰の心にだって同じように刺さる。

 彼らの楽曲が描いているのはいつだって"孤独"や"退屈"だ。希望というよりは絶望に近い。それは彼らの代表作「ブルーベリー・ナイツ」なんかが象徴的な存在だし、上に挙げた2曲も例外ではない。別れの曲が多いのも理由の一つではあるが、真っ直ぐな愛を歌う楽曲であっても、"抱きしめてたのは孤独だった"(「たしかなことは」)、"二人ぼっちの夜をどうか許してあげて"(「二人ぼっちの夜」)といったように、孤独に視線を落とす表現が多く見られる。心のどこかに内在する孤独に目を向けて、無理に埋め合わせるのではなく寄り添うこと。それがはっとりにとっての"愛する"ということなのだろう。

 そして、絶望を描きながらも絶望を描くに終始しないのがマカロニえんぴつの魅力だ。彼らが絶望を描くことで本当に見せようとしているのは絶望よりも希望の方である。誰だって不安だし孤独だからこそ、絶望ばかりが目に映って、すぐ傍にあるはずの希望にすら気付けないでいる。そんな時ほど、人は不安の行き先を探そうとする。"死んだように生きていたい僕の やっぱりどうしようもないこんな歌が あなたの逃げ場になるなら歌うよ" (「ハートロッカー」)と歌うはっとりも、また同じような絶望の感覚にに押し潰されそうになりながら生きているのだろう。絶望の先には必ず希望があると強く信じているからこそ、自分と同じ絶望を抱えるリスナーの孤独に寄り添うための歌を書く。思えば「愛の手」「哀しみロック」「恋人ごっこ」といった楽曲も、描いているのは失恋だったり割と絶望色の濃い心象のはずなのに、視線はどこか希望の方向にあるように感じられる。

 そして、はっとりが見せるその基本姿勢は、メジャーデビューを果たし、バンドとしてさらなる飛躍を遂げた今のマカロニえんぴつにだって変わらない。2022年1月にリリースされたメジャー1stアルバム「ハッピーエンドへの期待は」もマカえんらしく、絶望と希望が共存する名盤だ。"愛してるよぜんぶ 足りなかった毎日" "ハッピーエンドへの期待は捨てるなよ どうか元気でね" と綴る表題曲に始まる本作には、大切なものを失い悲しみに暮れる毎日と訣別し"また僕を好きになりたい 生まれ変わったりする以外で" と再生を誓う「メレンゲ」や、遣りきれなかった過去への後悔も先の見えない未来への憂いも全て"青春"として肯定してくれる「はしりがき」(個人的には令和版「青春と一瞬」とでも言うべき楽曲だと思っている)、"まだ分からない 分からないままでいいか" "最悪な未来ばかりじゃないからね"と不確実な未来でも信じ抜けるような確かな愛を歌う「キスをしよう」など、今のマカロニえんぴつがリスナーに向けて表現したい楽曲が詰まっている。「ワルツのレター」で歌われる"希望の歌が残ってないなら おれが作ってやる" というフレーズは、はっとりが常に追求し続けてきた「何のために歌うのか」という命題に、今のはっとりが出した回答になるのではないかと思う。マカロニえんぴつはいつだって、希望を歌うバンドだ。絶望に暮れる毎日の中で見失いそうになっていたとしても、ずっと続く絶望はないからこそ、きっとその裏に潜んでいる希望の存在を教えてくれる。

 かつて「OKKAKE」という楽曲の中で"歌っていてあげる 一生ね まだ流行らない名曲を" と歌っていたマカロニえんぴつも、今では各種チャートでも上位にランクインするようになり、テレビにも出まくってるし、映画やCMのタイアップも当然のようにつけられるほどになって、最早"邦ロック界隈"とかそういった環境の枠を超えて幅広い層のリスナーに楽曲を届けられるメジャーバンドの1組になりつつある。でも、彼らが表現したいものは"希望"であり、それは彼らがどれだけメジャーな存在になろうときっと変わらず、根底にあり続ける。マカロニえんぴつ、流行り物のバンドだし名前くらいは聴いたことがあるくらいの認識の人が多いと思うけど、今だからこそちゃんと手に取ってみてほしいバンドだ。
 

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