『私の愛した能登半島』能登半島地震体験記⑤〜発災1ヶ月半後の輪島〜
こんにちは。
ディーケーです。
今回は、能登半島地震発災後、1ヶ月半後の輪島の様子を写真でお伝えしたいと思います。
・故郷への帰還
金沢へ避難した後、1月11日に父と叔父の3人で一度輪島へ戻りました。
そのときは家にあったものを取ってくるだけで、すぐに金沢へ戻りました。
それから1ヶ月後の2月16日。
私は1人でもう一度輪島を訪れました。
実家に入って物を取ってくるだけでなく、ニュースなどで報じられている故郷の様子をこの目で確認したかったからです。
私が通っていた高校は、避難所としてだけでなく、小中学校で校舎が壊れたところの児童生徒が通っている状況でした。
一部のブロック塀が壊れ、非常に危険な状態でした。
生徒が登校しているときに地震があったら?と思うと、ゾッします。
続いて、大規模火災が起こった朝市に向かいました。
ニュースなどで報道されていたので、どのような状況かはわかっていましたが、朝市に近づいていくと、足が重くなっていきました。
1ヶ月半経っていましたが、未だに焦げ臭さが残っていました。
それだけでなく、かつて多くのお店や観光客で繁盛していた通りは跡形もない状態でした。
大規模な火災が起こった朝市でも残っていた物がありました。
1つは「いろは橋」です。
かつては緑色の橋でしたが、輪島塗の色合いを意識した黒と赤に塗り直されました。橋の両端が崩れ、通行はできませんでしたが、きれいに残っていました。
もう1つはまれのケーキです。
土屋太鳳さん主演の朝ドラ「まれ」の資料館の横にあったケーキのオブジェ。
残念ながら、資料館は焼けてしまいましたが、ケーキのオブジェは大きな損壊もなく残っていました。
子どものときに遊んでいた海岸も悲惨な状況になっていました。
テレビの報道で「海が隆起し、陸になった。」という旨の報道を目にしていたので、どのような状況になっているのか、子どものときによく遊んでいた袖ヶ浜を訪れました。
白い岩のような物が見えると思いますが、これはかつて海だったところです。
「たった1回の揺れで陸ができてしまったのか」
と衝撃を受けました。
・まとめ
以上が私が訪れたところです。
かつて通った学校、海、輪島の誇りである朝市は姿を変えてしまっていました。
たった1分の地震、1回の地震で私たちの生活は大きく変わってしまいました。