先日、自分の実家がなくなりました。台風で飛ばされたり、地震で倒壊したりといった災害にあったわけではありません。親が実家を売って少し離れたマンションに移り住んだ、というお話です。
前々からそのような話は聞いていたのですが、意外と早かったなというのと、ちょうど同じ時期に自分もマイホームを購入したこともあったので、改めて「実家」という存在について考えました。
生まれ育った家≠実家
大学で一人暮らしを始めるまで約18年間、ずっとそこで暮らしていました。大学の3年生以降はまた近くなったので戻ってきたり、社会人になってまた出て、最初の会社を辞めてまた戻ってきたりと、その後は何度か出たり入ったりを繰り返していました。しかし、結婚を期に家を出て以来、実家に帰ることはなくなりました。
自分の場合は祖父母の頃からその家に住んでいたので、引っ越しもなく生家=実家でした。あるいは、自分の子のように、生まれた後にマイホームを購入して引っ越した場合は、その家が実家になるでしょう。しかし、ふと考えてみると生まれ育った家=実家という構図は成り立たないことに気づきました。
転勤族のように各地を転々とする方や、旅の一座やサーカス一家のように定住しない方たちにとっての実家とはどこなんだろうと。このような方々の話を聞いたわけではないので分かりませんが、必ずしも生まれ育った場所が実家というわけでもなさそうです。
親のいるところが実家?
「実家に帰る」という行動を考えてみると、それは親のところへ帰るという行為を指すでしょう。だとすると親の住む家が実家なのでしょうか。個人的にはそれは否です。その場合、先日親の引っ越したマンション―現在まだ一度も行ったことない―が実家ということになります。それは親の家であって、実家ではないと思っています。
実家というのは一体なんなのか、もうちょっと深く考えてみました。
思い出の記憶媒体
実家という物理的な存在の中には、背の高さを記録した柱や反抗期に穴を開けた壁、自分の部屋に貼った好きなアイドル・キャラクターのポスターといった「実家の象徴」がある人もいるでしょう。象徴的なものはなくても、ベッドや勉強机など、そこで生まれ育った思い出が想起されるものがあると思います。
新しい親の家はそれら思い出の記憶媒体がないから、実家と呼べないんだと感じました。そこから導き出した自分なりの実家の定義は、自分が育った思い出の記憶媒体として機能する建築です。思い出の机のような個々の記憶媒体を包含するだけでなく、建築自身にもまたそういった思い出が刻みこまれている必要があります。記憶媒体を包含するだけでは、空間であり実家という建築にはならないと考えています。
「実家」は消滅した
先の定義を当てはめれば、自分の実家は消滅しました。しかし空間まで消滅したわけではありません。新居にはダイニングセットなどの家具を持っていくと聞いています。新居でも実家空間は残っているといるでしょう。(実際にまだ行ったことないので、本当にあるかは分かりませんが)
空間という概念で捉えれば、転勤族やサーカス一座も物理的な実家はなくとも、実家空間は持ち得ます。より抽象的に飛躍すれば家族さえ集まれば空間は成立するかもしれませんが、それはまた違う機会に考えることにします。
Photo by Elliott Stallion on Unsplash
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