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そもそも「似ている=パクリ」という考え方を改めた方がいいんじゃないか

先日、OSSプロジェクトとして作られた、コロナウイルス感染症対策サイトをパクリと呼んで炎上している方がいました。残念ながら、オープンソースという言葉や概念は一般的に浸透しているとは言い難いです。なので、オープンソースのことを知らないのは無理もないとは思います。この概念を広めていくのはエンジニアの使命かもしれません。

しかし、OSSの知識以前に、「似ている=パクリ」という考え方自体に問題があると思います。

結果として「似ているもの」

世の中には似ているものが多くあります。例えばどこのメーカー製でも一般的なマウスの形はどれも似たような形をしています。そんなもの当たり前と思うかもしれませんが、当たり前なのはデザインとしての「結果」です。

しかし、ちょっと違うマウスもあります。その見た目にAppleのMagic Mouseはホイールボタンがありません。左右のクリックボタンも見えません。実際は表面を指でなぞるとホイールボタンのように作動し、左右のクリックもできます。

ほかにも、トラックボールつきのマウスもあります。マウスを動かしてカーソルを移動させるのではなく、ボールを動かしてカーソル移動させます。普通のマウスに慣れていると、使いにくさを感じることもあります。

そう、違うデザインは使いにくさを感じるのです。似ているからこそ、新たな知識・体験を得なくても使えるのです。

自然界にも似たような現象はあります。「収斂進化」と呼ばれているもので、その進化系統が別々の生物が、生物的適応の結果似た形質を得ることです。合理性を求めた結果、似ているものにたどり着くのです。

「似せる」ことと「パクる」は違う

似ている道具や機能について例にしてきましたが、ロゴといったデザインでも起こり得ることだと思います。ロゴといえば、2020東京オリンピックのロゴがパクリ疑惑で話題になりました。かの件については批判も擁護もしませんが、ロゴデザインが「似る」ことはあり得ると思っています。

ロゴデザインにはコンセプトの体現、伝達という機能を持っています。人々の持つ共通認識や文化的背景などの共通のコンテキストを通じて伝えています。

例えば美容室のロゴを作るとします。「美容室はハサミを使う」というイメージを使って、ロゴデザインの中にハサミをいれます。そして、お店の名前もいれます。そもそも読めないと意味がないので、文字のレイアウトも作法やテクニックに従って決まってきます。そうして出来上がったロゴは形態としては既にどこかにあるロゴと同じにようなものになるかもしれません。

共通のコンテキストや普遍的な操作を通じて作る以上、「似ている」ことはデザインの収斂としてあり得ると思っています。

では、「パクる」とはどういうことか言えば、上記のプロセスを何も考えず、ただ結果をコピーすることだと思います。そこにデザインの意思やコンセプトはありません。

「パクリ」というレッテル貼りの凶器

冒頭のOSSの件でも「パクリ」という言葉で攻撃しています。この言葉の強いのは、先のアウトプットまでのプロセスを無視して、似ているというその表層的な面だけをもって攻撃でき、そして論点を「似ている・似ていない」二元論に置き換える点です。これが成立してしまうと「だって似ているじゃん」の一言で攻撃できてしまいます。

さまざまなプロセスや試行錯誤を通じてできたものを「パクリ」の一言で攻撃されるのは、作者が感じる辛さは想像に難くないでしょう。

それだけに、「パクリ」というワードを、安易に使う言葉ではないと思います。


付記:パクリを擁護するつもりはない

パクリ行為自体を擁護するつもりは毛頭ありません。クリエイターへの冒涜行為ですから。本当にパクリかどうかを経ないで、パクリ認定する行為をなくしたいのです。一方で「お前、マネるデザイン研究所なんかやって、パクることを助長しているだろ」という声もあるかもしれませんが、当該サイトでは、表層的な表現ではなく、そのデザインが成立する意図・理由などを明らかにしていきたいのです。その意味で真似を通じてデザインプロセスを大事にしていきたのがコンセプトです。

参考:


Photo by Rowan Heuvel on Unsplash

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