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実家でダラダラする人間の屑ポケモン
なんかの間違いで実現した4連休、たまにゃ泊まりでツーリングでも行くかと思ったら連日雨らしく膝から崩れ落ちた。私が勝ち取った連休は必ず雨になる……というか、8月の連休については2回とも雨どころか台風直撃だった。今年の春からずっと雨降ってないか?気のせい?いつまで経っても暑いし……ブツブツ……。いずれ勝ち取るであろう大型バイクの排気ガスでこの地球をぶっ壊してやるからな。次世代の子どもたちはバイクを楽しめなくなるだろうけど、仕方ないよね。ウフフッッッ!!!!!!
そんなわけで、大型二輪免許の申し込みを行った。入金は済ませてあるのであとは入校式、そしたら晴れて教習が始まる。中免を持ってるので12回の教習を経て卒検といった流れだ。今乗ってるNINJA400は去年の8月から乗り始めて……立ちゴケとか色々したけど本当に乗りやすい最高のバイクだった。冗談抜きで弱点がひとつも思いつかない、最初のバイクとしてはこれ以上ないくらい完成度の高いバイクだ。まあ12月に車検があるから少なくともそれから半年以上は乗り続けるつもりだけど、この170kgしかない最高のバイクからいきなり激重クソデカ排気量の教習車に乗ると思うと気が重い。中免を取るときに乗ってたCB400SFですらガードパイプなど様々な装備込みで230kg以上あったのだ。大型の教習車ならされより遥かに重いはずだ。怖いわ、ハッキリ言って。
そんだけビビってるのになんで大型二輪免許なんか欲しいのよ、あんた、一体どういう風の吹き回しよ?とツンデレの女の子風に訊かれれば私は先日会社の上司らと執り行ったマスツーリングにて1人だけ大型バイクではない故の疎外感に苛まれたからだ。実際400ccだからパワー不足なんかはなかったんだけど、大型バイク特有のトークに加われないのはなんだか寂しかったのだ。それにもう一度教習所でバイクの知識や技能を身につけたいというのもあったし……ごめん正直言うわ狙ってた女との接点がなくなって仕事と外食をするだけの日々に嫌気が刺してたんだワ。しょうがないじゃん、合わなかったんだから。私はたとえ人間性が合わなかったとしてもどうにか細胞壁を溶かして溶けあえると信じていたけど、やっぱり成長に伴い身についた偏見や思考の傾向ってのは努力じゃちょっとどうにもならないらしかった。自分のどこが変容可能で自分のどこが変えられない部分なのか見極められたらいいのにな。ファック!
これは予定に過ぎないんだけど、師匠と課長がZ900RSに、上司がGSX-R1000に乗ってるのでとりあえず被らないバイクに乗りたい。おれは本当に人と被るのを嫌う。こういった特性もこの協調性のなさに拍車をかけてる気がするが……。ホンダ車はなぜかクラクションとウインカーの位置が逆なので論外。そもそもボルドールは重すぎ、ファイアーブレードは高すぎ、ナナハンは300万越え。カタナもいいなと思ったけど……もうね、セパハンキツイわよ。肩と首が痛くなっちゃう。今どきのネイキッド、バーハンドル、ホンダ以外で言ったらYAMAHAのMTシリーズ、XSRシリーズくらいしかない。カワサキはZくらいしかネイキッドがないし、スズキはGSXで被るし。
で、XSR900いいじゃなぁ~~~い?と思いスペックや装備を確認したらもう電子制御モリモリよ。クイックシフターまでついて120万くらい。わからない人向けに説明するとこれはかなり安いです。ただね、エンジン音がなんか……あんま好きじゃないかも。いやごめん、好きじゃないわ。甲高い音が好きじゃないんだよね。今乗ってるNINJA400もマフラーから響く音はヨシムラの低音が効いてるんだけどエンブレや加速時のエンジンから響く音は甲高くてあんま好きになれない。XSR900のあの音、マフラー変えて変わるものなのかなあ。フルエキなら……?変わらなかった時の代償計り知れないぞ。フルエキマフラーなんか十万超えるからな。なんだこの金のかかる趣味。アホか(本音)
あの寡黙な親父が今やゆっくり解説を真剣に見てるの嘘みたいだよな。時々ずんだもん解説も見るらしい。親父ィ……。
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おれが生まれた時から飾ってある壁掛け時計、おかげさまで100万部の文字はかつて真っ赤だったのに今やほとんど灰色に近い。実家に飾ってあるおれや兄貴、家族の写真も劣化のためかセピア調のようになっている。実家に帰ると時間というものを痛烈に感ぜられる。両親は老いていくし、おれはちょっとふっくらしていくし。ところで、坊主頭を見たおふくろはショットガンで撃たれたくらい驚いていた。当然だ。幼少期からサラサラヘアーを伸ばしていて時々結んでいたくらいだったし。おれは自分のアイデンティティをあえて捨てることで、新たなアイデンティティを獲得しようと試みてる。実際顔をよく見てもらえるようになったので接客時は積極的に表情を使うようになった。あの鉄仮面と言われたおれが、だ。変化ってやつはいつも気持ちがいいな。
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実家の照明がサイケデリックになって久しい。ぜったい怪しい物々交換が行われてる地下クラブでしょ。なんでこの色にしたのか聞いても確かな返答が得られないあたり、やまれぬ事情があるのだろう。あるか?近所でも話題になってると言うのに。
ピーマンを白だしに漬けたやつ、ニラもやし炒めをツマミにビールを飲んだ。顔面が桃色になったくらいで酔ってはいない。明日は友人の「グ」と静岡に出かける。別に目的がある訳では無いのだけど、友人とは目的がなくとも会えば楽しめるものだから……本当にそうか?エアポケットが生まれたらすぐ帰ろう。仕事のこと、狙ってた女との関係が終わったこと、今後の展望、学術的な話などいくらでもできる。友人が「グ」と童貞くらいしかいないから本当に大切にしたいといけない。自分は分散依存と呼んでるんだけど、人間は必ず何かに依存しなければ生きていけないという前提において、その依存先を多く持つことが清く生きる秘訣だと思ってる。家族に、職場に、友人に。どっかでなにかが拗れても依存できる環境が多くあるべきだとおれは思うのだ。ちなみにおれには全然ないです。ゲームを辞めたのは大きかったな。でもゲームしか趣味がない現X (旧Twitter)に入り浸ってるカスみたいな人ってつまんないしな。それはそれでよかっ……よかったのかなあ。よくわからん。選択が正しかったかどうかわかるのは多分もっとずっと先だろう。いやーーーでもゲーム繋がりで女見つけるのかなり楽ですけどね。えーーーそのためにまたゲームやる?ダサすぎだろ動機が。まあなんか……そのうちどうにかなるだろ。知らんけど。
仕事でかなり精神を摩耗してしまっていて、怒りに起因する反骨心、ロックンロールの季節はとうに過ぎて、冬、諦念の時節、凍結、ある種のやましさ、引っ括めてしまえば全ては老いに帰結する冷血を感じている。ギターを叩きつけたり、呂律の回らない酒焼けした声楽で、チューニングのズレたベースと、緩んだテンションボルトのドラムスで、非論理性を表現していい歳では全くないのだ。ため息と酒とタバコとガソリンと雨と冷気と穴の空いた靴と誰宛でもない「愛してる」と夜風に消えていくいくつかの言葉と下咽頭で立ち往生しているいくつかの言葉と言葉に対する疑念。もうすぐ寒々しい冬がやってくる。1人で冬を迎えるのは久しぶりのことだ。私の冬が好きなのは寒さゆえに暖かさをより強く感じることができるからだ。ただただ寒いのが好きという訳ではない。ストーブ、エアコン、体温、鼓動、排熱、ラーメン。寒いからこそ、あらゆる熱というのが私には愉快なのだ。ちょっと待ってくれ。30代に突入して初めて迎える単独の冬というものに耐えられる気がしない。耐えられなくても心臓は動くし呼吸は続くがなにやら精神的に多くのものを落としながら生きていくような気がしてならない。いつかきっと本当に壊れてしまって拘留された日には誰も面会になど訪れないだろう。両親が4んでしまったら私には本当に何もなくなってしまう。分散依存、分散依存ですよ、プロデューサー!依存する先がせめて健全なものであればいいな。
仕事が難しい。
配達業だから、じゃあ配達だけしていればいいといったらそういうわけではない。どこにどれだけ荷物があって誰がどういう状況にあるから……なんてことまで考えなければならない。この仕事を始めてまだ1年目なのに色々考えてみんなをまとめなければならないのはまだ許せるとして、みんなおれより配達数少ないのが我慢ならない。しかもドライブレコーダーで運転の採点がされるんだけど、これも自分より高い人が数人しかいない。実際にはあらゆる意味で自分より格上の人もいるが、それも3人くらいしか見当たらない。格下は相変わらず文句ばかりで数もこなさないし本当に信頼出来る数少ない上司とバイクの話をしてる時だけが楽しいという、希望して異動する前と同じ状態に陥ってしまった。私は人というのは取り巻く環境を映す多面体のようなものだと思っていて、ただその環境という写像を僅かばかり歪ませて反射することしかできないと考えている。しかし今どんな環境に身を置いていても大概同じような位置で同じような苦しみを感じるのならばその限りではないのかなとも思い始めている。いや、むしろ私という多面体の構造が明らかになったということでもあるのかもしれない。中心にあるのはただただとめどない悪意だ。黝いプリズム。
人間。
これは持論だが、私は宗教を全否定しつつも宗教を全面的に受け入れてもいる。つまり、宗教とは、信心とは人間そのものなのだ、人はなにかを盲信しなくてはとても生きてはいられない。それが悪徳宗教であれ、地球が丸いということであれ、人間は素晴らしいものであるということであれ、宗教はクソだという宗教であれ、証拠不十分で論理性に欠いた信仰であれ、やっぱり私は、全て人の認識や世界が五感で感じうる全てが全てだという前提においてその全てが夢か現実かの区別さえも曖昧であるならば、それが現実と信じることも夢だと信じることさえも宗教的であり、人、脳、という物自体が宗教の腐臭を帯びている腐海であると断言出来る。ちょっと何言ってるかわからないな。おれはめちゃくちゃニーチェに傾倒してるし、宗教も大嫌いだけど、その一方でその思想自体も宗教ですよと言いたいのだ。だからおれは宗教を否定するとおれ自体を、人間自体を否定することになってしまうとわかっている。でも冷静に考えたら人間自体も全然好きじゃないからこの思想でいいのかも。問題は全く幸せではないということ。
生の指向性は幸福に向かっている、向かうべきだと思っている。逆説的に言えば幸福に寄与しない全てには価値がないと感じる。誰かの考え方に触れて、倫理的に正しかったとしてもじゃあその考え方であなたは幸せですかって話であって。倫理的に正しいことってマゾヒスティックであることが多くて、苦難を快楽に変える才能がないとただただ不幸であるしかないんだよな。おれは別に当人が幸福であるならばマキャベリズム的にその思想行動を肯定したい。アル中でもヤク中でもなんでもいい。幸せであって欲しいし幸せでありたい。
実家で寝る時ですらASMR聴くんだぁ、おれ……。