【文豪缶詰プラン:文豪目線】温泉宿に閉じ込められた
ある日のこと、鳳明出版の担当から温泉に入らないか?と連絡が来た。
特段、迷惑をかけたこともなければ、かけられたこともないが、二つ返事で日取りを聞く。
「今から来てください」
それは少々急がすぎるというものだが、まあ急く予定もあるまい。
ひとまず、トランクを開いて適当に荷物を入れる。
特に〆切も控えていないし、本でも持っていこうか。
そうそう、夜のお供も忘れちゃいけない。
適当に転がっている葡萄酒でも。
目的地、森川町まではるばる数キロ。
目的地は文京区は本郷の鳳明館 森川別館だ。
表の札には編集部の名前がある…てっきり慰安旅行の代打かと思ったが、先生御一行…?
とにかく中に入ろう。
そう思って、引き戸に手をかけたところ、中から中居がやってきた。
「あら、先生!お待ちしておりました!」
中から出てきたのは中居ではなく、編集部に顔を出すとたまに見かけた顔だった。
「あのー、三月分の原稿がまだでして…」
あれ?送ったはずでは…?と、二月は京都に行っていたから送ったのは一月の話だったか…?
「とにかく出来るまでここからは出られません」
あれよあれよと一束の原稿用紙と共に部屋に閉じ込められてしまった。
とにかく書き始めて見たが、すっかり温泉で怠けるつもりだったから全くやる気にならない。
2階だが、屋根をつたえば降りられそうだ。
遠くから編集者たちの声が聞こえる。今ならまだ間に合う。
さて、荷物はどうやって下ろそうか。
「あっ、いたぞー!!」
からんころんと下駄の音が近づいてきた。
ぐぬぬ、バレている。
どこか、逃げ道はないだろうかと辺りを見渡した。
「逃げ道を探さないでください!!」
参った。
白紙の原稿用紙を白旗代わりにひらひらとやると、更なる追い討ちをかけるように後で差し入れを持っていきますからね!と吐き捨てて去っていった。
ふう、少しでも音を立てたらすぐに捕まりそうだ。
とりあえず下書きでも書くか。
※
ざっと下書きをしたところで、一息つくために茶を入れたらこぼした。
もうだめかもしれない。
気を取り直して、風呂にでも入ろう。
どうやら今日は高砂風呂かローマ風呂に入れるようだ。
まずは高砂風呂に入ろう。
体を一通り洗ってさあ、入浴!
あっつつつ!!
初めて湯かき棒とやらを使った。
やれやれ。ひとまず広い温泉に浸かれただけよしとするか。
どうやら風呂場の先の地下に息抜き部屋なるものがあるらしい…ひとまず、髪の毛を乾かしてから気が向いたら行こう。
部屋に戻ったら気が抜けたので持ってきていたカップ酒を開けた。
うまい。
と、部屋の外が静まり返っている。
今なら脱出できるかもしれない。
ふむ、どうやら脱出は厳しそうだ。
玄関近くの部屋からは編集者たちの話し声も聞こえてくる。
大きな物音―例えば戸を開ける―を立てると一気に騒ぎになるに違いない。
やれやれ、観念してとりあえず寝るか。
※
頼んでもいないモーニングコールと共に進捗確認をされたので、大丈夫、とだけ答えておいた。何が大丈夫なのかはわからないが、なんとかなるだろう。
起きて部屋でボーっとしてると朝ごはんが届いた。
お腹が一杯になったところで、外を見やる。
すごい雪が降っている。
おまけに旅館にいない担当は田中さん経由で報告がいっているのか、電信が飛んできた。
とりあえず二度寝した。
起きてもまだ昼で、朝ご飯のおかげで全くお腹が空かない。
窓の外の雪を眺めながらぼーっとしていると、あっという間に夕方になってまた、部屋の電話が鳴った。
さすがに進みがまずい。
そう伝えると、電話口の声は「なんとかしてください」と非情だ。
仕方ない。腹をくくるか、と書き始めて小一時間。
一旦切り上げて風呂へ。
今夜はローマ風呂。
なるほど、古代ローマの大衆浴場を感じさせる広さだ。
部屋に戻り、晩御飯として売店のカップ麺を啜った。
さてと、酒を煽るか。
葡萄酒をラッパ飲みしながら、下書きを片手にワープロに切り替えた。
※
書き終えたか記憶がないまま、気が付いたら部屋の電気をつけたまま布団の上で寝ていた。
ワープロを立ち上げて中身を確認すると、一応、完結はしているらしい。
あとは校閲か担当がなんとかするだろう。
最後の晩餐ならぬ、最後の朝食だ。
ワープロのデータを記録媒体に移して荷物をまとめて部屋を降りる。
階段下で田中さんを含めた編集者と女将が待っていた。
記録媒体を渡しつつ、次は仕事じゃないときに呼んでくれ、と声をかけて外に出た。
帰り道の桜はきれいだったなあ。
※このnoteは鳳明館 森川別館で実施された「文豪缶詰プラン」を文豪ないし先生役として宿泊した人間が文豪目線で書いたものです。
時系列はレポートの都合で前後しています。
現実目線なレポートはまた後日あげます。
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