ほどいて、結んで
受動的になされるがまま、時間の中を漂っている。ただ過ぎる。抵抗することなく、沈む、沈む。やがて息ができなくなって、口からぼこぼこと気泡を吐く。もうここまで来てしまったのか、と朧げな思いを抱くだけて、もがこうともせず、無抵抗に重力もない世界で、濃紺に溶ける。空っぽになって消費されるだけの自分。直感が消えゆく。
22年間で自然と育まれた森。根を伸ばし、幹を太くし、枝を悠々と広げ1本1本が丁寧に育ったモノもあれば、新たに芽吹くモノもあれば、まだ種に土を被せただけのモノもある。これからどんな水で、太陽で、空気で、愛で豊かにするのかは自分次第、何色のどんな形の花を咲かせようが正解はないし、また花を咲かせるだけが正解ではないとおもう。そんな森を抱えて混沌とした今の社会を生きるということは、私にとって自傷行為に近い時がある。心の底では隣の芝が青かったりする。そしてそのネガティヴを燃料に命を燃やしている。
考えるということを胎の中に置いてきたよう、人とモノの間を潜って、都合の良い妄想の中でしか泳げない、自分が憎かった。(憎さの中には、愛も含まれる)そのぶん、人間という自分以外の生き物が好きだった。全くもって同じ思想をもつ仲間などいないのに、傷を舐め合い寄り添い合い、思いやることを諦めない。擦り合わせの世界で産まれる神秘に近い、感情や行動があたたかくやわらかく、妙に愛おしいと感じる。そこに突如フィルターを通し、人と接する時代がきた。一気に地球が小さくなった。便利になった反面、人々は電子の檻に閉じ込められ、いいねの世界で泳ぐようになる。その世界でホンモノを見定めるためには、自分のものさしを信じるしかなかった。
「チワワちゃん」をみた。若い映画だった。フィルターを通して語られるだけで結局、チワワちゃん自身が思ったことは一切絵描かれなかった。みんな色眼鏡ごしに人を観察して、勝手に虚構を羨望の眼差しで指を咥えて見つめるだけ。でも、物語のいちばん最後に出てきた本屋で働く女の子。登場人物の中であのコだけが、生き物のチワワちゃんと向き合っていた。
私はここにいるよ、認められたい、羨んで、多くは自らを燃え殺してしまう。そんな若い魂たちは、ある分岐点で戦わなくてはならない。個性が大切をうたいながらも、似通った格好を強いられ、取り繕った姿を評価される。顔を塗り潰され、何者になって選別を味わったとき感じた、この世界の違和感、喧騒、生きずらさ。うすい空気の中をあさい呼吸でのりきるのではなく、ゆたかな空気の中で深く深く息を吸って、素直に暮らしたいのに。何もみえない。手探りでだれを、なにを信じて歩けばいいか、分からない。何者になることに慣れすぎていて、自分がいなくなってしまった。そんなとき、灯火は盤となって、私の元へやってきた。
俺たちもクシャクシャに丸められて捨てられるちゃうかもしれないね
深い話は無しにしよう わかり合えなくたって お前が好きさ 思想や言葉 傷の場所も違うけど お前が好きさ
消費社会にがつんとじんわりと、けれどアルコールが徐々に回ってふんわりしてくるように、心地よく滾らせてくれる。ハマスタでの雨の中、Hit Me, Thunderを歌い上げる彼らは何を祈っていたのだろう。
いつかYONCEがインタビューで言っていた。
「分かりたい」というより分からなくても一緒にいることに意味がある。
もちろんアーティストから紡がれる楽曲がプロパガンダだとは思わない。個人の祈りだとおもう。余白を残して、聞き手に委ねる。自由に解釈してもいい。感動してもしなくてもいい。でもその中で、紛れもない自分がそう感じて選び取ったモノが正解なのだ。直感で生きることは悪いことじゃない。6人から紡がれる表現をおまもりにして、ポッケに忍ばせておく。すると、少しでも強くなった気がして、ゆっくり歩いてゆける。
去年5月、年号が変わった。1つの呼称が変わったからといって、何か特別なモノを感じたわけでも、未来が拓けるわけでもない、と思っていた。同調圧力が蔓延っていた森は、少しづつだが、一人一人の新しい価値観を尊重すべき森へと変わりつつある。時代は流れていく。ぼやけていてもはっきりとピントが合うときがくるのかな。身を捧げて尽くしたいものの先に、きらきらの想いが詰まっていますように。遠回りした先に花畑が待っていますように祈る。
人と関わって生きていくことは尊く、そこで生み出されるモノは必ず砂金となって、あちこちで煌く。