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他人の話を聞こうとせずして、何故自分の理想が達成できると思えるのか?

コミュニケーション。
自分以外の誰かと意思を伝え合ったり、交流を図ったりする行為。
私たちが生活する上で必要不可欠です。

そして私たち人間は、様々な手段で他者とコミュニケーションを図ることができます。
しかし昨今、それにも関わらずこの体たらく…。。と思うことが少なくありません。

規模の大きな話だと、プーチン大統領による隣国への下劣な侵攻。

話し合いが不可能なウイルスに対し世界各国が共闘したい時に、なぜ人間同士、対話しないのか?
なぜ双方向のコミュニケーションを放棄するのか?

一方向からの視点で物事を判断してはならないと思っても、無抵抗な誰かの生活を脅かす権利なんて誰にも無いと思う。
やはり武力攻撃からは、どうしたってコミュニケーションは生まれないと思うのです。

ピース・トークにしても、相手が受け入れることがほぼ100%難しい条件を平気で持ち出す "和平交渉" など存在するのでしょうか。
大義のない不合理な戦いに落とし所などありません。

思惑や行動が理解できないプーチン大統領に対し、精神的に問題があるのかもしれないと考える向きもありますが、軍事や国際政治学などの専門家は、彼の行動は「力の論理」に従った合理的なものであると説明しています。
しかし、”隣国の非武装化を求める目的” のために、対話ではなく武装という手段を取る人間の精神が、どうにかなっているのかもしれないと思うことは、特段異質なことではないと思ってしまいます。


”プーチンの戦争”から一気に規模を縮小し、自分の半径数メートルの、例えば職場での上司や同僚とのやりとりに目をやると、驚くことに ”プチ・プーチン” は結構存在していて、彼らもまた、意思の疎通を必要としていないように見受けられます。

人は成長する過程で、自分の道理や欲望・期待にのみ忠実では、社会生活を円滑に進めることは難しいということを学んでいきます。
もちろん、自分を偽ったり自分の信念を曲げてまで郷に従うことが正しいとは思いません。
しかし所属するコミュニティの中で、関わりを持つ誰かとの間で、相手を知っていく過程でバランスを探り、譲ったり寄り添ったりしながらお互いが心地よい関係を構築していくのが、コミュニケーションのあるべき姿ではないかと考えます。

そしてそのコミュニケーションの手段は、ひとつではありません。
例えばジョン・レノンは、「自分にとって音楽はコミュニケーションの手段」と言いました。
対話、音楽、ダンス、ファッションなど、手段はいくつもあります。
しかしどの手段を取ったとしても、それが一方通行であれば、コミュニケーションは成立しないのです。

「 他人の話を聞く。」

そのシンプルで、時に難易度の高い行為が、コミュニケーションの第一歩ではないかと考えます。

一国の頭首の暴走を見ながら、他人に発言の機会を与えない上司を見ながら、コミュニケーションについて考えさせられる年度末です。

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MiHo O'Hara / Mihowell
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