ゆるキャンで号泣するってなかなかないよね
アマプラでゆるキャンの映画を見た。
子どもと一緒に。ほのぼのしていて、いつものゆるキャンの世界観だけれど
大人になっているなでしこたちを見るのが何だか切なくて込み上げるものがあって…
りんちゃんとなでしこが温泉に入りながら「大人になるとなんでも自由にできるんだと思ってた、でも違う。その分いろんな責任があってやらなきゃいけないことも増える」みたいなことを言っていて。それでも誰かに伝えたい、という想いからできるんだみたいなことを言っていて。(違かったらすみません)
息子たち唖然とする中大号泣よ、母ちゃん。
なでしこと同じおぎの行ってたよ〜郵便局でバイトしたよ〜
自転車で、どこまでも行っていたよ〜
なでしこもう立派に、東京でやりたい仕事やって、向いている仕事やって、車も持って、手に入れて、すごいよ。
高校時代を思い出したり、重ねたり、自分の今を俯瞰したり。なんだか”くる”ものが多すぎた。(そして最後なぜかりんちゃんのおじいちゃんがちゃんと生きているだけでも泣けたし、いいキャンプ場って言ってくれたところにも大泣きした。
結局、10代を30代まで引きずってるよ。引きずっているのか、これがもう変えられない私なのか。
バイトで、こんなバイトの私に裁量を与えてくれるという。
願ってもないチャンスだと思う、
でも、私には書きたいコラムがない、、、、
あんなにコラムリストになりたかったのにねぇ。
私がかくコラムが、「ウケない」ことを知っているから、かけない。
ウケるものが必要で、それに単価が支払われるのだから。
ずっと文章が好きで文章で人に伝えるほうが得意だと思っていたけれど真逆で、文章はとても苦手なんじゃないか、とようやく気づけてきた。
余白や、長文や、まとまりがない文章でも読み取ってくれていた心優しい友達がいたmixi(死語、というか滅語)だからそう思えていただけだったなと。
要は受け止める側の、読む人の優しさに自惚れていたんだなと。
まっさらな私の文章は、人の心を打つものではない。私には、何もない。
去年の冬に、ようやく、気づいた。
誰かに寄りかかってないふりをして、寄りかからずも助けてもらっていた。
甘えた環境の中で、甘えた言葉でただ一方的に呟いていただけ。
それを、優しい人たちが聴いてくれていただけなの。
そんな場所をいくつか作るのを成功しただけなの。
りんちゃんやなでしこや、斉藤さんやあきちゃんや犬こや・・・
あの子たちのひたむきさは、私にはないの。真っ直ぐさはないの。
久しぶりだな〜無音で、文章を書くの。
1人だと、静かだな〜。
私がまた努力できるよ雨になるには、きっと孤独が必要だな。
どうしようもなく、ひとりぼっちに落とされる、孤独がきっと、あの頃の私のひたむきさだった。
優しい人たちに向き合わず、気づいていなかったあの頃は孤独だった。
今は優しい人たちに甘えすぎている。日常が、幸せすぎる。
お前は、保育士になって何がやりたかったんだ、
できているなら自信を持て、くらべるな。
できてないなら、孤独に立ち向かえ、お前しかできないんだぞ。
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とかいう文章を書いていた後、自分の昔の文章を見返していたらやっぱり..sukipiとなってしまった(笑)
なんだろうな、好きだ、自分の文章が。自分の文章だからだろうね、だから自分に一番刺さるのか。だから自分に甘いということか(笑)
今の自分の手札で、自分の書きたいこと(自分の言葉でかけること)で、ウケそうなもの。。。なんて考えてみる。ウケそうというか、人に伝えらsれそうなものというか、届けられそうなものというか。
まずは、利益重視のあの社長やら保育の面白さに特段関心のない社員さんやらに響かなければいけない。即効性やらコスパやら、そんな彼らにいいですね、って言われなきゃ、かけない。
これだけ目で見てわかりやすいコンテンツが溢れている。
素人の活字の文章を、一体誰が読んでくレルのだろうか。
どうしても、何が求められているのだ老化が先に思考の先にきてしまう。
今一度問う、私が書きたいものは何。
私が、書けるものは何。