「ストーリー(運命)」が軽すぎた問題
(写真は記事の内容に関係ありません。素敵だったのでお借りしました)
昨日、自分の進めてきた希望や考え方をまるっと考え直そうと思ったことが思ったよりもしんどかったようで、胃が痛いわ気力が出ないわで、昼くらいまでうつらうつらしていました。
でも気候のよさが手伝ってくれたのか、昼には起き上がって洗濯機を回して、なんとなく庭を眺めていました。
それから、ポツポツと家事を始め、昨日放送されたイチローのドキュメンタリーの録画をBGV(?)として流していました。
イチローのすごさは私がここで記すまでもないですし、イチローのすごさのエキスを私がそうやすやすと得られるわけではない。すごいひとの努力する姿を見て、私がなにか悟りを開けるわけではないです。
が、イチローが描いた「とてつもない物語」の影に、どれほどの努力と苦しみがあったのかということを知ることができ、私自身が「ストーリー」だとか「運命」だとか言っていたことの甘っちょろさを痛感しました。
何が20年越しの恋ですかね。甘い甘い。
ただ、一回のおばさんの私にも人生があり、そこにはささやかながら「ストーリー」があります。誰もが一生に一冊は物語が書ける。それは自分の人生である、と言われるように。
イチローのドキュメンタリーを見終わって、気持ちがシャッキリしました。私が本当に望んでいることは何であるのか。それをもっと絞り出し、実現する方法を模索しないと。
私は一般よりものを知らず、気づくのが遅く、スタートも遅いと思っています。いつも誰かに教えられ、あるいは偉人の言葉や生き方から様々を補い、なんとかながら生きていっています。
そう思えば、私のストーリーなどまだまだ完成するはずもなく。
がっかりする必要はなかったです。また明日から、ひらめくまでひたすら生活していきます。
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