子供を連れ去り三年間、断絶させた元妻は遠い目をして言う。「独りで子育てするのに疲れた・・・」
■28
頭の中で、何度もその言葉がリフレインした。
「わたし、ひとりで子育てするのに疲れちゃった……」
「わたし、ひとりで子育てするのに疲れちゃった……」
「わたし、ひとりで子育てするのに疲れちゃった……」
「わたし、ひとりで子育てするのに疲れちゃった……」
「わたし、ひとりで子育てするのに疲れちゃった……」
・・・・・・・・・・・・。
(えっ)
(は?)
(えぇ?)
(はぁぁ?)
(えええええ!?)
(はっあぁぁぁぁぁぁぁぁぁ)
あれほど謝りに謝って、謝り倒して、「何でもするから」とへりくだり、何度も「会って謝りたい」と伝え続け、面会交流調停でも「子供抜きでいいから話し合いたい」と言い続けてきたのだ。それらをすべて蹂躙してきたのは自分だろうに。何をいまさら……。そうか、今だからか。今やっと、私の誠意が届いたということなのか。
いやいやいや、違う。そんなわけがない。しっかりしろ。これは、いつもの駆け引きだ。
ヒューマニストなら「もう一度、奥さんを信じよう」とか「愛とは許すこと」とか言うだろう。実際それは美しい話だし、それを選べばこの場ではラクになれるかもしれない。私だって自分が当事者でなければ、「男の度量」などと口にしていたかもしれない。
しかし違う。
ここは絶対に「それ」じゃない。さんざん元妻の駆け引きに誠実に対応しようとした結果、振り回されてきた私にはわかる。
安易に信じるのは怠慢だし、愛とは許して良いことと許してはならないことを子供のために見極めようとする態度だ。
元妻は「わたし、やっぱりあなたが好きなんだと思った」と次のカードを切る。
ふつうであれば家族再生の瞬間だと思うだろう。だが違うのだ。断じて、ここは絶対に「それ」じゃない。話を逸らそうと私は切り返した。
「おまえは、好きな人とかおらんかったん。彼氏とか」
「いないよ。少なくとも子供たちが高校を卒業するまでは、ほかの男の人と付き合う気はない。だってイヤじゃん。母親が、父親以外の男性を連れてくるなんて……」
何も知らずにこのシーンだけを見れば、けなげな女性だと思うだろう。
出会ったとき、結婚していることを私に隠して関係を持ち、子供ができたことを当時の夫に隠して離婚し、私と暮らしているときに前夫との間にできた子供を週二、三回泊まりに来させていた人とは思えない発言だ。
彼女の強さは、この「文脈無視力」にほかならない。
そこまでの経緯を強引にひっくり返したり、あるいは完全無視して自分の主張を通してくる。本人に強引だとか、完全無視という自覚は無い。決して自分がやってきたことを、振り返りはしない。いま言っていることだって、いずれ、いともたやすくひっくり返す。
懸命にその時、どういう会話を経て、どのようなことを決めたのか説明しても無駄だ。「気が変わった」「そんなこと言ってない」「じゃあ訂正するわ」何度も大切な約束をいとも簡単にひっくり返されてきた。
「子供のためなら、それでもヨリを戻すべきだ」という声もあるかもしれない。しかし、ここで妥協してしまったら、私はまた以前の無気力人間に引き戻されてしまう。
この日から私は金輪際、つきあっていた女性の存在を、元妻に絶対に隠し通さなければならなくなった。