ゼロから始める曲考察①~錘~幸祜ちゃん2周年に寄せて
1.はじめに(事の始まり)
うす、おはこんばんにちは。いつもお世話になっております。残機0と申します。
とりあえず、この画像を貼りますかね。ペッ
えー、この時期、中々に節目と言いますかなんと言いますか、幸祜ちゃんにまつわるイベント事を列挙致しますと
といった感じになりまして、と~にかく幸祜ちゃんにまつわるイベントが目白押しでござんす。
これに先立ち、シンギュライブ2が発表される前、あられライブ2に備えて何らかの曲考察をしていきたいなとふわっと考えていたところ、日程が繰り下がっていたというのに気づいたら前日とかいうね。
(※書き始めがあられライブ2前日の7日です)
でも、やはり曲考察は遅れてでもいつか、数曲には取り組みたいなと思っていたところでして、特に考察されたのを見かけておらず、尚且つ私的に重要視している楽曲とその組み合わせを提示して、考察するならどれがよろしいか、という感じになりました。
そして今回、特に票が集まった組み合わせが、
「錘」、そして「閃光の彼方」になりました。
いや~、、自分でやっといてなんだけどこの2曲難しそう。例によって一般的な考察しか展開できない私が、果たして切り口を開くことが出来るのかという所でございますけれども、普段からこういう考察をしている諸氏におかれましては(多分)温かく見守ってくださるので、自分なりの解答をここに何とか形にして提示したいと思います。
2.「錘」という楽曲の概要
さて、皆様は幸祜ちゃんの「錘」という曲、聴いたことはありますでしょうか?
初披露時は2021年12月29日の幸祜ちゃんの「1st ONE-MAN LIVE PLAYER」の時で、セトリとしてはライブの前半を締めるブチ上げ曲「the last bullet」の前に初披露された新曲でした。
作詞・作曲は我らが大沼パセリ先生でございます。
また、先日PLAYERのBluRay発売決定に伴い、これまでに公開されていたLive ver.MV、「the last bullet」「白昼夢」に加えて同様に「錘」も公開されました。
ということで、まだ見てない・聴いてないという方はぜひ。YouTubeのMVはURLを貼っておきます。
現時点だと、この時以外にライブで披露されたことはなく、MVとアルバム(prayer)内に入っているので各種で配信されているという感じです。
また(まだ私はBluRay見れてないので記憶頼りですが)、初披露前MCでは"新曲"だということにだけ触れていて、披露後はバンドメンバー紹介に入ってしまうためこの曲が一体どういう趣旨なものなのかは、MCからは分かりません。
他には、私がスクショし忘れていなければ、配信サイトZ-aNの時のライブ再配信チャット内ではギターソロの演出について触れており、prayerのアルバム発売記念の当日同時視聴会の時は、コメント欄で錘の披露中幸祜ちゃんが手を挙げたことに対して我々観客側も呼応して手を挙げたこと、そのことについて触れておりました。
ということで、私がインタビュー記事等を見逃していなければ(Vtuberスタイル買ってない敗北者じゃけぇ!流石にそこで局所的ポイントに錘が当てられるとは思わないと思いたい)、特にこれといって幸祜ちゃん達側からは考察をする上での前提やヒントが提示されていない、という形になります。
というか、今気づいたんですけど錘に関してライブパンフで触れられてたらそこでゲームセットなんですけど。1番大事な聖典が手元にないんすよねぇ!!
国立国会図書館で公開されてたりしない?????
3.ライブ披露時の演出を探る
さて、本題に入っていこうと思ったのですが、その前にライブ披露時の演出について触れるのを忘れていました。
「錘」のリリックモーション・映像演出を担当されたのはTatsuyaM™さん。
そして、タイトル・リリックデザインを担当されたのはJEFF99さん。
https://twitter.com/nesspaula99/status/1476184477495971845?s=46&t=GxgTVaV3P8GiqgXcHOTwmQ
映像の方は一口で言うなら首都高速道路を走っているような感じで、所々トンネルや橋を走っています。最初は夜の首都高を走っている感じで、光るビル群が美しく映ります。
その一方で、最後のラスサビ終盤では空が明るくなり、朝焼けの中走っている印象を受けます。
(数日後追記事項①)また、『幸も不幸も修正したいよ』辺りの部分から、それまで前進して走っていたのが逆行していく形となり、『私の存在意義を!』という歌詞の部分で、通ったトンネルを逆戻りして抜け出す、という場面になっています。この演出も少しばかり参考になりそうです。
また、先の夜から朝になり、夜の暗さからやがて明るくなる、という演出は考察をしていく上で重要なものになりそうです。ただ、夜が暗いとは言っても都会の明るさもあるため、ただただ暗いというわけではないということは留意すべき点でしょう。
(あられライブ2視聴後追記①)
あられライブ2最高だったって話する?いや、その話はとりあえず置いておいてですね、このツイートを見てみましょうか。あられライブ2終盤にかけた所の場面で、SWAV大先生が触れていた点です。
そういうことですか。ハイハイ。ハイハイハイ。
ははーん、なるほどね。ふーん?タイムリーやね。
つまり、錘の映像演出は幸祜ちゃんの原風景としてのコンセプトそのものと言うことができそうです。
あと、個人的に「錘」のリリックモーションがめちゃくちゃ好きで、タイトルが文字通り『錘』のように重力を伴って落ちていくのが大好き。(n回目)
他の特徴としては、漢字のリリックデザインが漢字を構成するパーツごとに若干分解されているような印象を受け、他のひらがな・カタカナも物によってはそういう特徴が見られます。
このように、「錘」というタイトル自体と、歌詞の文字が(空中?)分解されていくかのような演出には、何かしらの意図が感じられるかも知れません。
こりゃまたBluRayを見れてないので記憶・スクショ頼りで申し訳ないですが、リリックモーションには小さな泡のような、光の粒のようなものが付与されています。(てか、MV出てるんだからそれ見ればよかった※追記されてるのはそれ見返したため)
考察をしていて思ったのですが、この小さな泡のようなものは、おそらく『浪費する酸素』を表しているのではないのかなと思うところにてございます。
また、特徴的なのは『東京に潜む怪物達は~』のパートで、四角形の中にリリックの1文字1文字が閉じ込められ、下から上にキューブが登っていく演出です。この四角形の中に閉じ込められた文字は、他の通常リリックデザインとは違い、しっかりとした文のデザインになっています。
このパートは、四角形の中に閉じ込められることで、空中分解されていくかのような文字がしっかりと形を保っている、という点に注目するべきかもしれません。勿論、このパートはこの歌の通常のものとは異なる曲調で展開していくので、そういったものの表現や差別化と言い換える事も出来るでしょうか。
とりあえずライブ映像からはこんなことが分かるのですが、このような演出は楽曲を実際に聴いて担当してくださった方が独自の解釈で表現しているのか、もしくはプロデューサー側からそういった表現が欲しいといった、ある程度の注文を受けて制作しているのかは分からないので、先の表現に歌詞の考察が縛られる必要性は無いかもしれない、とは注を入れておきましょう。
私としてはある程度考える上での支柱が欲しいので、これらの材料をかき集めて考察にあたっていこうと思います。(追記:あんま使いませんでした)
4.本題~歌詞の考察~
では、本題に入って行きましょう。
一応ここで注を入れておきたいのは、私は大沼パセリ先生の歌は好きなのですが、制作される楽曲の全体的な特徴や歌詞の書き方について掴めていないので、パセリ先生の曲に造詣が深い方が読み取れば、また違うものが見えてくるかもしれません。
幸祜ちゃんのメインコンポーザーである大沼パセリ先生について詳しくない私の至らぬ点でございまして、そこら辺はご了承頂けると幸いです。
それじゃあ、歌詞を見ていきましょう。
薄暗い路地裏で吐く溜息
ビルの光が照らす人々の影
浪費する酸素 心に救難信号
誰も気付かない日常
ログアウトする
幸も不幸も愛していたいよ
誰のためとかじゃない論争
溢れるデータ 存在薄れてく
愛も憎悪も撃ち抜いてくれよ
内向的な気持ちを消去
誰か見つけて
私の人間定義を
曖昧な生活を歩いて
変わる君 帰る世界 灯す明かりを
灰になるこの街も いつの日か
繋いで 紡いで
空に笑み 浮かばせよう
東京に潜む怪物達は
情報に踊らされて
商法に釘付けさ
あれもこれも嫌になって
あんなことも嫌になる
渦を巻いて回り回る条理の底へ
浪費する酸素 心に救難信号
誰も気付かない日常
ログインしよう
幸も不幸も修正したいよ
誰のためとかじゃない本当
溢れるテーマ
存在薄れてく
愛も憎悪も撃ち抜いてくれよ
内向的な気持ちを主張
誰か見つけて
私の存在意義を
曖昧な生活を歩いて
変わる君 帰る世界 灯す未来を
灰になるこの街も いつの日か
繋いで 紡いで
曖昧な生活を歩いて
変わる君 帰る世界 灯す明かりを
灰になるこの街も いつの日か
繋いで 紡いで
空に笑み 浮かばせよう
Source: https://www.lyrical-nonsense.com/lyrics/koko/omori/
Lyrical Nonsenseさんのサイトから引っ張ってきました。ちょうど歌詞が節ごとに分かれているので、各節に分けて考えていきましょう。
(各節ごとに長文と化していて、歌詞を載せてはいるのですが分かりずらくなっているので、もしお手元に用意できるなら、歌詞を横に置きながら読んでいただけるとわかりやすいかも知れません。)
WARNING WARNING‼️
⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️
※1 以下、文体が「ですます調」「である調」「その他」等にめちゃくちゃ乱れます。ごめんなさい。
※2「錘」初披露から約1年が経とうとしており、その期間までに出てきた幸祜ちゃんにまつわる事柄をも絡めた解釈になるので、その当時の意図として作られた曲の解釈が出来ている保証はないです。
また、幸祜ちゃんの内面的なものに勝手に触れて勝手に妄想しているので、そういうのが苦手という方はちょっとあれかもしんないです。
スマーーーーーン!!!!!!!!
※3 私はnoteの書き方として、考えたことをまとめてから書くことをせず、実際に打ち込みながら書き進めている方法をとっています。なので正直、読んでいるのは掘り散らかした石がそこらへんに転がっている鉱山のような感じです。
そのため、今回の考察の流れでは、まず節ごとに考察をしていき、その後に先の考察案を叩き台にして曲の「1番」「2番」ごとに内容をまとめていきます。
まとめた際にもっと良い解釈や別の解釈が生まれていることがあり、最初に節ごとに出した考察とは別なものが併記されていることがあります。本当に分かりずらかったり読みずらかったりで申し訳ないのですが、私の思考の轍を辿っていける体験だとして受け入れてもらえると恥ずかしいですがとても嬉しいです。
最終的には「これです!」という考察案を1本化すると思うので、煩わしい方、お時間の無い方はそこまで飛んでいってもらえるとよろしいかも知れません。しかも、色々と考えを提示した割にそれらをズバズバ削っていくものになると思います。部分的な解釈だとそういう内容も見えるよね、ということで1つの考えが泡のように浮かんでいたと感じて…。
長くなりましたが、お付き合いよろしくお願いします。
⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️⚠️
ありふれた、夜の都会の情景(1番)
「薄暗い路地裏」と「ビルの光」という歌詞、そして先の映像演出を加味して、曲の中の世界は一定の規模を持つ「都会」=都市部であることがここから分かります。
そして、「薄暗い路地裏で」溜息を吐いている存在と、「ビルの光が照らす人々」が対照的に示されつつも、敢えてビルの光によって生み出される人々の「影」に着目している。
この部分の曲のインストに関しては、まさに都会の夜の静けさを表しているような感じ。
一見、薄暗い路地裏と華やかで明るい表の路地は違うもののように見えても、光が透かす人々の影は大きな塊となって、あの薄暗さとそう大差は無いのかもしれない。また、路地裏にいる存在だけが溜息を吐いているのではなく、ビルの光に照らされた人々だって、心の中では溜息を吐いているかもしれない。
(後の歌詞的に、東京に潜む「怪物達」であるために、もしかしたら影の形は人では無いのかもしれない、と考えさせられますね)
そうした対極とも言える2つの立場にいる人達は、そうやって溜息を吐いて共に「酸素を浪費」し、それによる辛さからか「心に救難信号」を送っている。
誰も口に出さず、他者に関心を示さず、知らない人同士が絶えず往来する都会の雑踏で、通り過ぎる人たちの日常など、知る由もないのである。そうした意味での「誰も気づかない日常」なんだと思う。
でも、異なる立場であること以外には、不思議と共通項が多くなっている。
この後に続く「ログアウトする」は、どこに意味がかかるのだろうか。
次の節では歌詞において感情が発露していくようなパートになるので、言い換えるなら「都会モード=外出モード」から帰ってきて、自室で物思いに耽っているのか、文字通り1日が終わって就寝する時なのか。
幸祜ちゃん的に考えるのであれば、『幸祜』という存在から一旦ログアウトする、といった風に捉えることも出来るだろう。
そうした文脈だと、幸祜ちゃんがおくる日常そのものは、文字通り彼女の普段の姿など知る由も、気付く由もないので「誰も気づかない日常」と例えられるとも考えられる。
せっかくなので、ここからは幸祜ちゃん目線を主軸にして展開していこうと思う。(歌詞考察ってどこに軸を置いていくべきか考えるの難しくない?)
幸と不幸、愛と憎悪
(この部分のインストは、サビへと繋ぐにあたり徐々にテンポが上がっていき、何かが動きだしていくような雰囲気を感じる。)
そんな、誰も気づかない日常からログアウトした幸祜ちゃんは「幸も不幸も愛していたいよ」と、考えます。
「幸」と言えば幸祜ちゃんの名前を、そしてその意味を構成している要素で、不幸とは真逆な意味を冠しています。しかしながら、そんな不幸という存在すらも愛したいと願う。「幸」を冠する自身と、それと対極を成す「不幸」という存在、もしかしたらそれに対応して、不幸を冠する幸祜ちゃんオルタみたいなものが存在しているのかもしれない。
さらに言ってしまえば、幸せもやがては不幸になり、不幸もやがては幸せに転じる可能性がある。その両極を愛して"いたい"と思うのは、プラスな面もマイナス面も等しく愛し、ポジティブに捉えていきたいという姿勢の表れで、"いたいよ"と言っているのだから、今はその姿勢になれてないのだろう。
でも、そんな姿勢になりたいと思っている傍から、「誰のためとかじゃない論争」というマイナスな面を目に触れてしまう。
(本人としてはあまりニュースを見ていないという感じの扱いになっていますが、『此処へ』中の「横目で見てるネットニュース」や、(知らない方がおかしいのかもだけれど)世界が大変になっているという事くらいは知っている点など、少なくともある程度は時勢を把握しているような気配はします。)
そんな中、例えるならば実際に被害にあっている方々を差し置いて「誰のためとかじゃない論争」を展開し、信ぴょう性の可否は置いておいてどこからともなく引用され、引っ張り出されてきた「溢れるデータ」に頭がパンクしていく。
( これは私も理解できるというか、そういう経験があるためにこうした考察になってしまうが、最近ではSNSで展開する議論を目で追うことに疲れ、嫌になって距離を置いている状態に今私は置かれてます。)
そうした状況の中、未だ物事をポジティブに捉えられない自身と、そんな愚かな論争を見ることで気持ちが暗くなり、不幸になって、己を構成する「幸」が薄くなっていく。これこそが、「存在 薄れてく」なんだと思う。
そうして吹っ切れていった幸祜ちゃんは先の願いが「愛も憎悪も撃ち抜いてくれよ」に変化していき、徐々に曲のボルテージも上がっていく。
憎悪だけでなく、等しく愛も撃ち抜いて"くれよ"と歌いのける。鋭い弾丸をその歌声に宿す幸祜ちゃんらしい歌詞で私はとても好き。愛と憎悪どちらの感情にも、等しく彼女の声が撃ち抜いていくのだ。
そして、自身の「内向的な気持ちを消去」して、彼女は今心の内に宿した救難信号を世界へ発信する!
「誰か見つけて 私の人間定義を!」
ネガティブな感情が己を支配していき、存在が薄れていく中で、"私"はあの大きな都会の中では雑踏を構成する1つの存在にしか過ぎず、『幸祜』としても存在する"私"の日常など、誰も知る由はない。
じゃあ、こんな自分の「人間としての定義」ってなんだろうと、深夜内気にモヤモヤと考えてしまう。
けれど、そんなモヤモヤを振り払って、今一度、この"私"が放つ「救難信号」でもって「"私"の人間定義」を外界へ問いかけたんだ、と解釈します。
(1番の歌詞考察を後述でまとめた際、別の考察案も出たので解釈違いお兄さんお姉さん達はまだ目通してくれると嬉しい♡)
the last bulletとの接点と灰になる街
「曖昧な生活」とは、十中八九『幸祜』でいる時の"私"とそうでない時の私、この曖昧な自我の境界線を跨いでいく日々のことなのだと思われます。
その文脈で行くなら、「変わる君」とは『幸祜ちゃん』のことを指しているかも知れません。しかし、「幸祜」が『幸祜』として存在する時、より素を出している(出せている)というようなことを過去に言っていたような気がするので、『幸祜』という存在に引っ張られて、"私"自身も変わっていく、そんなことがこの歌詞に表現されているのかも、と考えることができます。この解釈も「曖昧」なのです。
(この点は、幸福拡張部電脳科の9月のメンバー限定壁紙の説明にも現れています。この壁紙とその説明を見て、私は一層「錘」を考察したいと思いました。錘のデモ音源を聴いて、微笑む彼女。)
「帰る世界」とは、"私"と『幸祜』が帰るべき場所のことで、居場所に帰れば(時間帯によっては)明かりを灯しますよね。(=「灯す明かりを」)
(でも、『幸祜ちゃん』が帰るべき場所とは、一体どこなんでしょうか。)
ここはもう少し深堀したいところです。
花譜ちゃんの件でもよく言われますけれども、幸祜ちゃんを観測する人たちの一人一人が、(共通項が多いような気もするけどw)異なる幸祜ちゃん像を持ち合わせている。
それが顕著なのは、幸祜ちゃんがツイートや企画で執り行っている「幸祜のイメージを一言で表すなら」「私のイメージのお花はなんだろうか?」において、(イメージはPONが多いのかもしれへんけど!)様々なイメージが寄せられている点です。
様々な幸祜ちゃんのイメージが各々に宿って、その脳内に、お持ちの端末に、そして実態物にも、幸祜ちゃんが宿っている。宿っていく。
『幸祜ちゃん』という大元から、私たちは何らかの刺激を受け、それを持ち帰る。大元から分かれた分霊は様々な形で受け取られ、そして私たちに帰属していくのである。
つまり、例えばライブを終えた時。配信を終えた時。『幸祜ちゃん』は私たちの方へ帰っていくのだ。ライブではあの歌い方が良かった。MCが可愛かった。振り付けが好きだった。そうした場面ごとの『幸祜ちゃん』を私たちは切り取って、記憶に仕舞いこんでいく。
そうやって幾万に枝分かれした幸祜ちゃんが「帰る世界」というのは、観測している私たちの数だけ無数に存在しているというわけなのである。
そして、「灯す明かり」というのは、各々の『幸祜ちゃん』を持ち帰り、何らかの刺激を伴って自身の心に残っている。つまり「心に光(火)が灯されている」と形容できるかのような状態になっているわけで、『幸祜ちゃん』という存在によって私たちの心に灯った明かりのことを指しているのかもしれません。
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さて、この文脈に辿り着いたのであれば 、この曲に触れない訳には行きません。
そう、「the last bullet」。
幸祜ちゃんアルバムであるprayerの曲の順番は、必ずしもライブPLAYERのセトリに沿っている訳ではありません。
しかし、「錘」は変わらず「the last bullet」(以下、ラスバレ)の前に披露される楽曲として君臨しています。
ラスバレで目立つ歌詞の描写は「炎」。
このように、幸祜ちゃんが再び立ち上がるための活力となった「炎」というのは、私たち観測者の一人一人の心に灯った「火」が集まって出来たものだと思うのです。それこそ、ラスバレはplayerのMV企画によって誕生した最後の3つ目の曲で、界隈の在野の方々も多く結集し、企画に携わっています。
「私とあなたの歌。」この文言からも、一人一人が幸祜ちゃんと結びついてる様子を表しています。
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かなり脱線してしまいました。戻ります。
さて、「灰になるこの街も」という歌詞の描写から、皆さん思い当たる節はありませんか?
そう(そう?)、ライブPLAYERのキービジュと、アルバムprayerのキービジュとの違いです。
PLAYERとして再び立ち上がった幸祜ちゃんは、摩天楼よろしく近未来的な都会を背景にして、その顔に微笑みを携え雨が降る中建造物に座している。
ライブの終盤、彼女は「音楽を通して伝えたい想い、祈りがあります」と口にし、ライブタイトルのダブルミーニングとしてprayerにもなっていった。
そして、生配信終了後(私は現地で見ていたのでハッシュタグのツイートを参考にしています)、このprayer type-Wのジャケ絵が表示されていたようです。(ツイート引用失礼します。🙇♂️)
このビジュアルになってからは、ツイートにもあるように街が「朽ち果てて」おり、これは「灰になるこの街」とリンクして考えても問題ないと思います。
朽ち果てたビル群と、幸祜ちゃんが座っている建造物には植物が育っていて、この描写からかなりの年数が経ったことが伺えます。
しかし、そんな灰になった街の中、変わらず佇む存在が1人、『幸祜ちゃん』です。それでも、その表情には変化が見られ、少し険しい顔になっています。
そんな、「いつの日か」朽ち果ててしまう運命にあるものでも、幸祜ちゃんの『祈りが込められた』歌を「繋いで」、「紡いで」、ディストピア的な状態に陥ったとしても、「空に笑み 浮かばせよう」というポジティブな描写に落ち着くのだと思います。
そうして繋がれ、紡がれていった結果が、朽ち果てた街の中でも変わらずその場に佇んでいる幸祜ちゃんの姿に現れているのだと思います。けれど、本当にそうやって後世へと続いているのか、そうした不安が表情に現れているのかもしれませんね。
前述のように、幸祜ちゃんはいつまでも『幸祜ちゃん』として存在できるわけではないので、そうして繋がれ、紡いでいくバトンは『狐子ちゃん』に受け継がれていく、とも言えそうです。
(各同位体とそのオリジナルである両者の関係や解釈の仕方も本人たちによって(若干?)違うので、本当に愛おしい。
あられライブ2では初めて狐子ちゃんを披露した場である上に、一緒に歌い、また、メインを歌わせつつも本人はドラムやコーラスで共演したりと、幸祜ちゃん独特の同位体との掛け合いが素晴らしかった。狐子ちゃんを「お見送りしているようで」というMCにはグッと来てしまった。
その後、ED前に披露したnikiさんのbrilliantの歌詞には、私の個人的な解釈として狐子ちゃんとの文脈も乗せて歌っているような気がして、1人で号泣。)
1番の歌詞考察まとめ
1番だけでも、かなりの文字数を割いてしまい、自分でもなんだかよく分からなくなってきました。
これまでの考察を一旦まとめて見ましょう。
(まとめていく内に新たな視点も出てきました。)
1節目
都会の雑踏の中で憂いを抱く人々の中に1人、「幸祜」でもある"私"がいる。そんな中、通り過ぎて行く人々の日常など知る由もないように、"私"の日常のことなど誰も気づかない。
そんな「幸祜」としての、もしくは"私"としての日常をログアウトしていく。
2節目
誰も知らない日常からログアウトし、巡る思考の中で「幸も不幸も愛していたいよ」という切実な想いを抱くも、世間を取り巻くネガティブな話題とそれに付随する膨大なデータによって幸祜ちゃんの名前の要素である「幸福」とは正反対な「不幸さ」がその身を犯し、(幸福を象徴する幸祜ちゃんが不幸に染められてしまうので)存在が薄れていくという感覚。
そして、「愛も憎悪も撃ち抜いてくれよ」という、憎悪だけに限らず先の「~愛していたいよ」という感情すらも撃ち抜いてほしいと願う。
これは、愛と憎悪のどちらかを撃ち抜こうが、きっと対になる感情の片方が無くなってもその内再び芽生えてしまうのだから、そのどちらをも撃ち抜いて、まっさらな気持ちになりたい。そんな気持ちが読み取れるような気がします。
さらにこじつけていくなら、「まっさらな気持ちになる」ということは、メンバー間の諍いを平等に私情を挟まずジャッジすることの出来る、そんな頼れる存在になりたかったのではないかな、と妄想します。
また、この後の歌詞は「愛していたいよ」→「撃ち抜いてくれよ」→「消去」といった具合で、段々と実現したい想いや願いが推移していき、1番強い想いだった「内向的な気持ちを消去」することが最優先されたのだと考えられます。(もしくは、建前から本音への推移?)
そして、内向的な気持ちを消去することに成功した幸祜ちゃんは「誰か見つけて 私の人間定義を!」という、内側にあった感情の発露が出来るところにまで至ったのだと思います。
この「私の人間定義」を見つけてほしいのは、次のサビの歌詞にある「曖昧な生活」によって揺らいでいるその定義を見つけてほしいのだと解釈しています。
(春ちゃんと幸祜ちゃん2人で配信をしていた時、お互い直して欲しい部分はあるか?という質問で、春ちゃん→幸祜ちゃんからは特に何もなかったのだけど、幸祜ちゃん→春ちゃんからは、「気を使いすぎて喋ってくれているのがすごい伝わってくるから、なんかもっと突っ込んで欲しい、なんか、なんでやねん!とか!」という要求をしていて、そうした過去のバンド活動の経験からくる「直して欲しい部分」なのでは無いかな~と、またまた、妄想する次第なのである。)
3節目(1番目のサビ)
『幸祜』でいる時の"私"とそうでない時の私という、曖昧な自我の境界を歩いていく日々。
そうした日々の中で、変わっていく『幸祜』と私という両者の存在(どちらの視点から見ても変わる「君」になる)。
私には帰る世界があって、『幸祜』には観測者が各々受け取った心という世界へ帰っていく。
帰った私は部屋の明かりを灯し、観測者ごとに宿った幸祜ちゃんはその心に明かりを灯していく。
そんな私や観測者たちが住んでいる街も、遠い未来いつの日か灰になってしまうかもしれない。
それでも、幸祜ちゃんの歌声によって繋がった私たち(幸祜ちゃんのオリジンも含めて)が、その歌声を未来へ繋いで、そして紡いで、どんな未来が私達を襲おうとも、空に笑みを浮かばせていこう、というポジティブさで1番のサビを締めている。
という形で1番をまとめてみたがどうだろうか。
"東京"に潜む怪物達(2番)
2番目に入ります。ここで一旦曲調を変えてアクセントを加えている、そういった場面です。
「"東京"に潜む」という歌詞から、都市の情景は東京だったという可能性がここで示唆されています。
幸祜ちゃんの世界観としては近未来的な都会を背景にしている点が指摘できて、「the last bullet」MV内においては「未来の渋谷」を舞台にしていると監督・制作を担当した緒方さんが明言しているので、彼女の世界観の舞台は未来の東京だと言えそうです。(電車内の電光掲示板にあるこの駅の名前、めちゃくちゃ童心をくすぐるよね…良すぎる…)
そのため、歌詞に用いる語感の良さ以外にも、東京が舞台であるために、具体的に「東京」と名指ししているのかもしれません。
("現実拡張"マナーとは、どういう意図でしょう)
https://twitter.com/llcheesell/status/1451786408671076353?s=46&t=Wbv125Ei72hPn6ntp919EA
さて、ここでちょっと難しいのはこの「怪物達」をどのように解釈していくのか、という点です。この怪物達は「情報に踊らされ」、「商法に釘付け」な存在であり、漠然と都会の人間のことを指しているのだろうと思われますが、踊らされ、釘付けにされる彼らはいわば被害者なのかもしれません。
しかし言い換えれば、情報を提供するメディアに考えを決められ、そして操られていく存在はある種の「怪物」と化していると言え、そんな怪物達が盲目的に商法に釘付けとなっている様子を横目に見ている"私"は冷めた気持ちになっているのだと思います。
この現象には私にも覚えがあるところで、特にSNSで見かけるものですよね。「東京に"潜む"」とあるように、単に隠れているという意味合いではなく、先の「誰も知らない日常」と同じように人間ごとの内面は分からないもので、今通り過ぎている普通のように見える人でも、もしかしたら「怪物」と化しているかもしれません。
そんなことを考えていたら、例えばそんな怪物性を潜ませる浅ましい人間、メディアや商法、情報の本質を知る上での作業や行為自体がもう段々嫌になってくる。そうした嫌悪感が私生活の面においても侵食してくる感覚がある。
そういう文脈が乗っかって、「あれもこれも嫌になって あんなことも嫌になる」ということになり、そんな思考をめぐらせる(=「渦を巻いて回り回る」)うちに、「条理の底へ」と落ちていくのである、と考えられる。
より解釈の幅を広げるため、「条理」の意味について確認してみよう。
「条理」には3つの意味があるが、基本的には①の意味で通して良いのかと思われる。①の場合、具体的に選択するのは「物事の道理」という解釈にして、その「道理」は「人の行うべき正しい道」(※スーパー大辞林 雑ですまん)だとある。
つまり、情報に踊らされ、商法に釘付けとなった「怪物達」に対して説くべき、または自身が持ち得る「道理」について、思考を巡らせていくうちに考えがまとまったのだろうかな、と推測できる。
しかし何故、急にこのような文脈を伴った歌詞が出てきたのであろうか。ここで参考にしたいのは、PLAYERのライブ後、パンフレット売り切れ等の大盛況ぶりに伴って書かれた、PIEDPIPERさんことPさんのPLAYERに関するnoteの内容から着想を得たい。
(これ、パンフ持ってないからパンフに載ってない情報の点がどこまで書かれているのか分からないけど、幸祜ちゃんを知る上での1つの重要な聖典なのでマジで読もう)
さっそくだが、noteの文章から引用しようと思う。
「真面目でストイックな不器用な生き方しか出来ないタイプの人間」、「純粋すぎる事」、「上手く世渡りが出来ず」、「本当に信じた人間に裏切られ」、「何度も何度もそんな役回りをしてきた」。
これを当初読んだ時、本当に辛くて胸を締め付けられるような思いでした。
このような経験から幸祜ちゃんはきっと、これまで関わってきた「人間」が自身にとっての「怪物」に転じるその瞬間を見てきたのではないのかと思うところがあります。
また、「仕事」をする上では、その規模に関わらず少なくともメディアや企業と接触する機会はあったかもしれません。歌詞中にある「情報」や「商法」というのはそういうところにも現れている可能性はあります。
そうした(あれもこれも、そしてあんなことも嫌になる)経験を通していく内に、「条理の底」へ辿り着いた。つまり、幸祜ちゃんにとっての「道理」、「人の行うべき正しい道」を見出したのだと思う。
さて、ここでさらに考察を飛躍していこう。
「人の行うべき正しい道」を歩んで行けば、後ろにできた道、轍は確実に「人間の証」となるわけである。このフレーズ、もちろん観測者一同なら知らない者はおるまい。
そう、花譜ちゃんが歌う「不可解」の最後の部分。
先の情報や商法、世渡りといった内容がまさにこの歌詞の文脈にモロに乗っかかる点。
幸祜ちゃん自身が初期から花譜ちゃんを観測しているという一観測者としての視点。
そして、この考察を閃いた時に思い出して電撃が走ったのは、「幸福拡張部電脳科7月の《マンスリーイラスト》」で描かれていたその光景だ。
恐らくだが、この例だけ(絵師さんの告知ツイートを除き)公式で幸祜ちゃんのマンスリーイラストの一部が垣間見える告知であり、メンバーシップに加入していない方たちでも、この上部ツイートを見れば一目瞭然だろう。
これが故意の処置なのか、単にいつもの運営さんの如くたまたまなのか分からないが、このイラストを見るだけでも味わい深いという事が分かるだろう。
幸祜ちゃんのメンバーシップにだけ入っている私が露骨に宣伝するのもあれだが、加入すればイラストの全貌に加え、文章も添えられていてより素晴らしいので、まだ加入していない諸兄らはぜひ検討して頂きたい。
このように、錘は不可解と繋がる要素があり、狙いがあるかは不明だが、メンバーシップのイラストにも如実にあらわれていると言っていいだろう。
いやはや、またしてもだいぶ逸れてしまったが、このパートは「東京に潜む怪物達」が幸祜ちゃんによる経験をも相乗した意味合いになっていて、そんな怪物達を見て嫌気が差し、思考をめぐらせたその先に、自身が「人として行うべき正しい道」を見出したのだと思う。
また、これは私の妄想だが、「此処へ」の歌詞から私は幸祜ちゃんが上京してから神椿に出会うまでの間、何らかの活動を東京で行っていたと考えられ、そうなると「"東京"に潜む怪物達」と、場所を限定した意味合いもそこで補足できると考えている。
誰も気づかない日常 "ログイン"しよう
この部分は1番の歌詞とほぼ変わらないが、その時は「ログアウト」した日常を、ここでは「ログインしよう」というフレーズに変化している。
また、先の「条理の底」は渦を巻いて回り回った先にあったもので、水中を思わせるかのような表現にもなっている。そのため、今回の「浪費する酸素」は、水中に潜っていくうちに減っていく酸素量を表していそうで、救難信号を送っていることからも、条理の底へ辿り着くことは決して容易ではなかったということを表現していると考えられる。
そして、その底へ至り手に入れた「人として行うべき正しい道」(やや抽象的な表現がアレであるが)を携えて、幸祜ちゃんは日常にログインしていこうとする。
また、あくまでも「ログイン"しよう"」とあるので、この歌詞を歌い上げたらログイン"した"という訳ではなく、この後の歌唱パートに繋がる、独特な音の広がる間奏部分でログインしている模様を表しているのではないかな、と思うところである。
その他、「ログイン」「ログアウト」といった表現の仕方は、幸祜ちゃんの世界観を構成する上での「loading…」や「to be continued…」などに現れる、英語を用いたサイバー的な表現が特徴的で、先の「ログイン」「ログアウト」もそれに含まれています。
幸も不幸も"修正"したいよ
さて、「幸も不幸も"修正"したいよ」というフレーズが来ましたね。ほんと、山場が多い…。
幸祜ちゃんをしっかり摂取しているならこのフレーズにピンとくる方は一定数いると思われますが、そう、『幸福(福)修正局』ですね。
しかし、このMVでの幸祜ちゃんの行動は、街の中にそびえる『幸福修正局』に何かしらの感情を抱き、私服衣装から通常衣装の「type-first Bellatrix(ベラトリックス)」へ換装して、最終的に修正局へ銃を向けており、街にそびえる修正局の建造物も消えていました。そのため、当MVでは『幸福を修正すること』に対して否定する立場を取っていたと言えそうです。
けれども、MV冒頭では恐らくあの修正局の建物の上で座ったり佇んでいたりしていると思われ、当初は修正局の使徒的な存在であり、後に反抗心を抱き、修正局に銃を向けたとも考えられそうです。
ていうか、夜光を呼ぶの考察だけでも1つnote書けてしまいそうで頭抱えるので、泥濘にはまる前にさささっと抜け出していきたいです。今回は歌詞まで見る余裕が無いため、MVの演出に焦点を当てています。ほんますみません。
ですがそもそも、幸福を『修正』するというのはどういうことなのでしょうか。
このMVは【ユーザー参加型MVプロジェクト】playerの企画で制作された3曲のうちの1つで、募集部門もそれに対応して3つあり、「夜光を呼ぶ」は写真部門をもとに制作されたものです。
下部に貼ったツイートを参照して欲しいのですが、写真を応募する上での募集テーマが「あなたの『幸せ』を感じる情景」であり、この時点ですでに『幸福修正局』を用いようとしていた意図が感じられます。
見事選ばれた写真たちはMVに登場して、まるで修正局が写真ごとにタグをつけてそれを「管理」しているかのような演出に落とし込まれていました。
つまり、『幸福修正局』とは写真たち=幸福を「管理」し、場合によっては「修正をする」機関だったと考えられます。人の幸福が何らかの機関に管理され、その幸福が「間違って」いたり、「不十分」であるとして「直して」「正しく」することなど、あってはならないことでしょう(なんであってはならないの?と聞かれると答えるの難しい、置いておきます)。
しかし、この錘の歌詞では「幸も不幸も修正したいよ」としており、夜光を呼ぶの時とは対象的な考えです。(作者の人そこまで考えてないと思うよとか言わてたらそれまで)
けど、1番目の「愛して"いたい"よ」と同じ文脈で"したいよ"となっていて、あくまでも欲求を述べる表現になっています。しかし、「愛していたい」から「修正したい」と明らかに「幸と不幸」に対する心境の変化が起きています。
その後に「誰のためとかじゃない"本当"」(後に続く"内向的な気持ちを主張"していると言える)と歌っていて、「修正したい」という欲求は誰のためでもなく、「自分のため」なのだろうと思います。
「夜光を呼ぶ」の文脈では、player(私)たちの幸福(写真)を修正局から開放するための行動(=その行動は、直接的に「自分のため」になるのかどうか)。しかし、最初は修正局の使徒的な立ち位置であったため、その考えに賛成的な要素もあった?
対して「錘」の文脈では、歌詞の1番目で、「愛していたい」という姿勢が「修正したい」に変化し、「幸と不幸」の両方を愛するということは実際無理な話だったと悟り、じゃあ自分が幸と不幸を愛せるようにそれらそのものを修正していけばいいのでは無いのか?という考えに至ったのでしょうか。正直言って、ここら辺の解釈は難しいです。
また、ライブPLAYERでは開幕時、神椿ライブ開幕特有の『詠唱』中に『幸福の修正』が登場しており、いずれにせよ該当項目が幸祜ちゃんにとって依然として重要な要素であることが伺えます。
ダラダラと脇見運転しまくりで申し訳ないのですが結局のところ、『幸福の修正』、並びに『不幸の修正』とは何なのか。まず整理したいのは、
・夜光を呼ぶの文脈から、幸福を修正することはあってはならないという立場を取る→銃を向ける
・幸福修正局は大勢の人の幸福を管理していた
・修正局へ銃を向けた原理は、特定の機関が人々の幸福を「管理・修正」するなどという行為は到底許されたものでは無い、と推測→つまり、他人によって幸福が修正されることはあってはならないが、自身の手によって幸福を修正するのは悪いことでは無いと判断している
・つまり、夜光を呼ぶ時空から「幸福を修正する」という行為に対する是非が錘で変化しているのではなく、単に自身に置き換えたら、修正するというのはアリだと思うよね、といった感じなのかと。要は視点の違い?
以上により、「幸福を修正」するという行為は、自ら行うのであれば否定しないという立場であり、けれども修正"したいよ"という欲求から、あくまでも自身の欲求の域を出ない考え方なのだと思います。
では、その修正先である「幸福と不幸」とは何か。
まず「不幸」、これなら皆さん、そういうことがあったなら修正したいなぁって、思うこともあると思うんですよ。あくまでも不幸を消し去るのではなく、部分的な修正を行うことで心の痛みを少しでも軽減しようとする。不幸を消し去ってしまえば対比である幸福も感じられなくなってしまうはずなので、あくまでも「修正」であることは重要です。
それに対し、「幸福を修正する」という行為とは一体何なのか。これが難しい。もう既に幸せだと感じているものに果たして修正を加えるのだろうか?
だが、「軌道修正」という言葉があるように、何か誤った方向に進んで得た幸福を、本来目指すべき方向へと修正していくというのなら、何となくわかりやすい。
特に強調したいのは、誤った方向であれなんであれ、より良い方向へと進み幸福の規模や範囲を広げていこう、そういった意味合いが強いのではなかろうか。そういう意味で、幸祜ちゃんのメンバーシップ名である『幸福"拡張"部電脳科』に繋がっていくのではないか。正直言って点と点を結んだだけの解釈かもしれませんが。
さて(さてではない)、なんか寄り道しまくって正直何言ってんの?って感じじゃない?ごめん。俺もようわかってない。後でまたまとめます。
次の歌詞は「溢れる"テーマ"」となっており、1番目の「データ」とは変わっています。
またこれ夜光を呼ぶからの着想でほんと申し訳ないんですが、溢れていくテーマとは前述の「幸と不幸」とに絡め、MV内で使用された写真(=私たちが「幸せ」を感じる情景)のことを指しているのではないかな、と思うのです。実際、きっと多くの写真が応募されたであろう中でも登場したのはあの量なので、本当に「溢れるテーマ」だったと思うのです。
ただ、写真の募集テーマは1つなのに、それが溢れるのはおかしくない?ということも考えられるのですが、先の「幸福」について触れた時、それは多面的な要素であると説明しました。
つまり、その写真が映す情景にもひとつひとつの幸福=テーマがあって、それらが溢れていくということをあらわしたいのでしょう。
しかし、そんな溢れるテーマによって「存在が薄れていく」というのはどういうことなのか。
企画の際集められた写真の多くは、というよりも恐らくほとんどが、「幸祜ちゃんを介さずに成り立った幸せの情景」だと思う。
そういったものが集められ、溢れていけば、それらの幸福に関与していない幸祜ちゃんという存在は希薄になっていくと思うのです。
実際、夜光を呼ぶのMVでは歩いている幸祜ちゃんが一瞬ノイズが入って存在が揺らぐような描写があって、この解釈に当てはまるかは分からないのですが、十分考えられる線です。
1番では、己を構成する「幸」の要素が薄れて~のような文脈で捉えましたが、加えて自身が関与する「幸」でないといけないんですかね。
そうして再び「愛も憎悪も撃ち抜いてくれよ」になるわけなのですが、先程の文脈から繋げていくと、「愛」というのは企画を通して「幸せの情景」を自身に共有してくれたことに対するもので、それに対する「憎悪」というのは、それらの情景に自身は関与できていないのだと思ってしまう卑しい自身に対して向けられた感情なのではないかな、と思います。
そして、1番目と同じような文脈で、その両者の感情を等しく撃ち抜くことでまっさらな気持ちになる。
そうして現れた「内向的な気持ち」を、この2番目の歌詞では「消去」から「主張」へと変化している。
、、考察の手が少し止まってしまいました。何故かと言うと、これまで漠然と錘の歌詞を読み取っていた時、「内向的な気持ち」を「消去」から「主張」へと変化したのは、幸祜ちゃんの成長を表していたと思っていたからです。
これまで自身が抱えてきた内向的な気持ちを消去することで、自身の本当の意見をある種黙殺して無理に周りに合わせてきた、というような過去があったのではないか。
それに対して、そのような内向的な気持ちを主張できるようになったというのは、環境の変化はあれども幸祜ちゃん自身による変化が生んだものに違いないです。
ですけども、私は1番目の考察の時、内向的な気持ちを「消去」をすることで内なる感情を発露できたと解釈していて、些か違和感があることに気が付きました。でも、そこから「人間定義を!」のセリフにつながるので、、うーん、「消去」をどう捉えるかによりますよね…、これはもう各々に委ねていいすか!れっつ!、シンキングタ^~イムッ!
いずれにせよ、そんな気持ちを「主張」できるようになった変化がここで生じていて、それは幸祜ちゃん自身の気持ちの整理と、内向的な気持ちを受け入れてくれる周りの存在が大きかったのでしょうね。
そうして、内向的な気持ちを主張できるに至った幸祜ちゃんが言い放った言葉が、
「誰か見つけて 私の 存在意義を!」。
歌詞の内容としては存在意義を見つけて欲しいなどという、一見辛そうなものなのにやけに清々しいんですよね。カラッとしているような。それほど、この気持ちを主張できたことに喜びを感じているような気さえするような。
では、何故ここで存在意義を問うたのか。それは、先に触れた「幸せを感じる情景」に求められるのではないかと。
「この情景が幸祜という存在無しに構成されたというのなら、きっとこれからも私無しでそうした情景を見出していくのではないか?」「そこに私の存在意義はあるのだろうか?」という、葛藤が生まれたのだと思います。
でも実際に錘を初披露した時、多くの観客が幸祜ちゃんに応え、皆が手を上げて大きく振っていました。この光景は、幸祜ちゃん自身が関与して生み出した、私たちが「幸せを感じる情景」に他ならなかったのです。
存在意義を投げかけたその先に、声は上げれずともリアクションでそれに反応していく観客とのこの関係。自分でこの文脈を見出して書いているとはいえ、我ながらしっとり泣けてきました。。。
そうして、この曲も終盤に差し掛かってくるのです。
灯す未来を(ラスサビ)
サビの解釈は1番の時と同様、ほぼ同じような文脈でよろしいかと思います。繰り返しになってしまうので、まとめの方で再び触れます。
先と違う点は、ラスサビ前半の「灯す"未来"を」で、「灯す"明かり"を」から変わっています。
これはもう実に素直に解釈してしまってよくて、灯された明かりはその実、幸祜ちゃんをも含めた私たちの未来も灯していた。
この後「灰になるこの街も いつの日か」という、いつか来てしまうであろう避けられない未来を示唆しつつも、そんなにも未来への展望を臨めるのは、「繋いで 紡いで」くれる存在がいてくれるからなのではないのだろうか。あつがましい解釈だが、その存在の1つとして私たちも入っていると考えます。
また、歌詞にある「繋いで 紡いで」を体現するかのように、その箇所から再びサビの冒頭に戻り、そうしてサビを歌いのけて曲が終わっていくという形です。
2番の歌詞考察まとめ
1節目
場面が変わり(戻り)、東京(1番冒頭の都会と同じ?)に焦点が当てられ、そこに潜む「怪物と化した人間達」は情報に踊らされて、半ば誘導される形で商法に釘付けになっている。
そんな怪物達を冷めた目で見ている"私"は、段々気分が悪くなってきて不快な気持ちが心の中で渦を巻いていた。
しかし、その思考が巻き起こした渦の底に彼女は「人の行うべき正しい道(=人間の証)」を見出すことになる。
これはある意味、1番目のサビ前に見つけて欲しいと言っていた自身にとっての「人間定義」を見つけることが出来たと言えるかもしれない。
2節目
そうして"私"自身も酸素を浪費し、心に救難信号を送るはめになったが、見つけられた自身にとっての「人間定義」を胸に携えて、「誰も知らない日常」にログインしていく。
このログイン・ログアウトは依然として、主語が『幸祜』・"私"のどちらに掛かるのが分かりずらい。やはりこの点は曖昧なのだと思う。
3節目
誰も知らない日常へログインしていく中で「幸も不幸も修正したいよ」という、「誰のためとかじゃない"本当"」に自身のためにしたい想いを抱く。
そう考えると、1番目の「幸も不幸も愛していたいよ」というのは「誰かのため」だったという考えに至るけれども、これは他人というよりは"私"自身のためだったと思える。
こう解釈すると、修正したい(幸福修正局という要素も加味して)のは『幸祜ちゃん』の方の意思。
バンド経験をも含めた「幸」の記憶はより拡張して、1番目の方で消去してしまった「不幸」の記憶は軌道修正することで、幸も不幸も全部『幸祜』としての経験値にしたいと考える。
しかし、『幸祜』になる前の、よりパーソナルな部分に触れるのは恐らく様々な課題があって、そういう面を出せば"私"の存在がより出てしまって、『幸祜』としての存在感が薄れてしまうのではないか。
そんな、"私"の記憶に対する愛、『幸祜』に向けられた愛に対して、自身のパーソナルな一面を白日のもとにさらす事でしか『幸祜』という存在を補強できないのかという不甲斐なさを感じ、それに対する自身の不快感(=憎悪)という、2つの感情を一身に背負う(より内面を出す)懸念を「撃ち抜いてくれよ」と乞う。
そして、1番目にある「消去」とは違い「内向的な気持ちを主張」し、幸祜ちゃんは1番目とは違う新たなテーマ「誰か見つけて 私の存在意義を!」を投げかける。
先程の「実際のライブ空間で肯定される自身の存在意義」についての解釈は上手くいったが、文脈的には本筋に組み込みにくいと考えている。
なので別の路線で考えてるんだけど頭抱えてる。
1番では幸と不幸を愛していたいというだけのもの
だったが、2番目ではそれらに修正を加えることで幸祜ちゃんの経験値として活かそうとしている。
そして、「内向的な気持ち」を持っているのが本来の幸祜ちゃんで、1番目ではその気持ちを"消去"することで「誰か教えて 私の人間定義を」という問いかけに至っている。
しかし2番目では、その内向的な気持ちを"主張"する形で存在意義を問いかけており、自身のパーソナルな面を主張してまでここに存在している価値って、一体なんなのだろうか、こんな私を受け入れてくれるのだろうか。そんな問いなんだと思う。
わかんない。
4.5節目(ラスサビ)(省略、総論へ)
5.錘 総論
ちょっと自我出していいですか、考察、むっっっずい!、、、!
各節ごとに考える→1番,2番事にまとめて意味が全体的に通るよう考察の文脈を整える(これダメ)
いやあの、各節ごとにはいい感じに書けてたと思うんですよ、でもなんか2番目以降せっかく掘り下げた解釈を1回まとめる時に全部押しやってしまいましてですね、なにやってんダァ…???もうっっ!!アアッ!!!!泣きたい😭😭😭😭不甲斐なさすぎる。。。。。。。。
はい、以上錘の歌詞考察についてもうなんか出涸らしだろって感じで、付け焼き刃でやってきました…
これからまたできるだけ見やすい感じにして全体をまとめたいと思います。
1番目①~⑤:全体的に暗めの内容
都会の光源的明るさがありながら、どこか温かみが無く冷たさを感じさせ、そこにいる一人一人が何かしらの憂いを抱えながら生きていて、普段の生活を終えていく。
⑥~⑨:歌詞の内容が"私"の内面的なものに移り変わる。過去の経験に触れて立ち返るも、前に進み続けために抱える悩みを明るみにしながらも、前向きに生きていこうとする気概が感じられる。
⑩(サビ):自身の人間定義が揺らぐかのような、そんな曖昧な生活でもそれを愛していくような、肯定していく姿勢が感じられる。
その生活が根底から揺らいでしまうようなことがいつか未来に起きたとしても、幸祜ちゃんの歌声にのせた想いを未来へ繋いで、紡いで、辛い状況下でも空に笑みを浮かばせよう、というサビがポジティブさのピークに達している。
2番目①:憐れな怪物たちをみて冷笑的な態度をとるも、それに対する(自身の態度へも含めた)不快さが心の中で渦を巻いていく。だかその底で「条理」を見つける。→蔑みや不快感といった負の感情が転じ、正の感情への手掛かりを掴む。
②:辛い思いをして手に入れた「人間定義」を胸に新たな展望へ臨もうとする「チャレンジ精神」を持つ
③:"私"としての経験を『幸祜』の経験値として活かせないのだろうかと考える。しかし、より確実に"私"と『幸祜』の要素が溶け合うような形になり、私が私である理由、幸祜が幸祜である理由、そんな中舞台に立つ理由、そういったものが曖昧になっていく。自身の存在意義が何であるかを投げかけるも、それをある種肯定してくれるような、応えてくれるような人がいるからこそ、こうした問いかけが出来る、そんな"信頼"に近い何かを感じるような気もする。
⑩’(ラスサビ):自身の人間定義が揺らぐかのような、そんな曖昧な生活でもそれを再び愛していくような、肯定していく姿勢が感じられる。
自身の人間定義は曲の過程(条理の底)でみつけ、自身の存在意義は今目の前で呼応する観客たちが証明してくれている。
幸祜ちゃんが届ける弾丸は、"私"をも含めた観測者たちの心に明かりを灯し、同時にその先の未来も灯した。
しかし、そんな曖昧な生活が根底から揺らいでしまうようなことがいつか未来に起きたとしても、幸祜ちゃんの歌声にのせた想いを未来へ繋いで、紡いで、辛い状況下でも空に笑みを浮かばせよう、というサビが再びポジティブさのピークに達して曲を終わらせている。
6.さいごに:『錘』とはなんなのか
では最後に、曲のタイトルである『錘』が示す意味について書き散らして、この駄文を終わらせようと思う。
まず、曲のタイトルが『錘(おもり)』であるというのに、メロディは浮揚感に溢れている。
また、歌詞の解釈をしていくうちに、要所要所で心の浮き沈みと浮上という要素が感じられ、自身を1つの『秤⚖️』として見立てた場合、様々な感情が『錘』となって、秤を傾けたり吊り合わせたりしているような表現だと言えるのではないか。
そういう意味で、タイトルの『錘』に対する曲の浮揚感というのは、錘を秤に乗せたことで体重が掛かり、もう片方の台が重さに引っ張られて上に吊り上がるこの『浮揚』を表しているとも言える。
曲のイントロや『幸も不幸も修正したいよ』の前に鳴っている時計の針のような音は、その実『秤⚖️』を使う上で質量を測っている様子をあらわしているのかもしれない。
その他、『幸祜』と"私"というどちらの存在に重きを置くのか、そうした両者への「ログイン・ログアウト」する面においても、『錘』の要素がちらつくのではなかろうか。
また、錘という字は『紡錘』という語句にも用いられている。紡錘とは、
つまり、「糸を紡ぐための道具」なのであり、この道具における「錘」は棒に糸を巻きつけるための回転力をつける役割を持っている。(wiki参考)
サビにある「繋いで 紡いで」とはまさにそれを表しており、幸祜ちゃんの歌声が未来へと繋ぎ紡がれていくための『錘』として、当楽曲は重きをなしているのではないだろうか。
────────── ⚖️──────────
いい感じに締められたので道中のゴタゴタの全てを許そう、ニコ・ロビンしてくれるとめちゃくちゃ助かります。編集後記みたいなのも書こうと思ったけど、正直もう、そんな元気がない…。解釈まとめてる途中で寝落ちしてました。いい感じに最後キレが出直して来たのは、多分寝たから。
もう私のこんな思案ノート、叩き台にしてくれちゃっていいので、みんなもっと錘推そうぜ。ライブの最高よな。また手上げて振りたい。
ともあれ、成り行き任せで書いてなんとか幸祜ちゃんの2周年に間に合いました。一応最初から観測している身で十分大好きだったのだけれど、PLAYERを現地で見たあの時、運命の歯車が動き始め、私の歩む世界線が確実に変わりました。
こんな不甲斐ない自分の存在意義を示してくれているのは紛れもなく幸祜ちゃんのおかげで、本当に、本当に大好きです。2周年おめでとうございます。
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