目には目を、歯には歯を③―ナポレオンの次は、農○ツアーのエジプト遠征
「ガイドの免許を見せてくれないか?」
ふと振り返ると、そこに"奴が立っていた。
またお前か...
奴こと、エジプト人ドイツ語ガイドのヒシャームのせいで、私の眉間のシワは深くなる一方だ。
こいつが日本人ガイド嫌いなのは間違いなかったが、ガイド歴が長い大御所日本人マダムたち(←迫力あった😆)や、日本人男性ガイドには何も嫌がらせできないので、私のような一番若い女性ガイドたちだけを、集中攻撃で意地悪をしていた。
しかしドイツ人ツアーは多くはないのに、どうしてこんなに遭遇するのだ。きっとこいつはガイドとしては優秀だからなんだろうな、とは思った。
「さあ、免許を見せてくれよ」。
「...」
ヤラレタ。
ここはクフ王ピラミッドの"中"。
私の組んでいるライセンスガイドのエジプト人のオバチャンは、中に入るのが面倒くさいので、ついてきていない。
「グループの荷物番をしている」のを口実にし、ピラミッドの入り口の外で石場に腰かけ、同じようなライセンスガイド友達とお茶をすすってべらべらお喋り。
ヒシャームはそれを知っている上で
「通訳をしていたというなら、エジプト人ライセンスガイドはなぜここにいないのだ。おかしいじゃないか」
と勝ち誇った顔をし、王棺の間の隅にいる警察官に近寄り、私の方を見て何か言い出した。そしてちらっとこちらを見てニヤリッ...
「成田空港発着のエジプト航空が増便された!これでもっと日本人が飛んで来れるようになった!さあますます忙しくなるぞ!」
ある時、同僚のターメルおじさんがそう嬉しそうに言った。でも私はげんなりした。
「えー、やだなあ。もうへとへとだし、そもそも私は学生だもん。休学ももうマズイからなあ」。
「Loloさん、じゃあガイドをしてくれる日本人を、もっともっと連れて来てよ! そうじゃないと君は休めないよ」。
日本人ガイドを使おう、だけど外国人はガイドになれない。
そこで飛び出した案が、通訳"。
もともと、ずっと以前から日本人マダムたちが、通訳の肩書きでガイドをしていたことはしていた。
ただその頃は日本人ツアー本数自体が少なかったので、あまり彼女たちの存在に気を留めるエジプト人はいなかった。
ところが、日本人ツアー倍増に伴い、様々な日本人ガイドが増えた。一気に目立ちだした。
エジプト人ガイドたちはもやっとしだした。
前に書いたが、エジプトでは観光ガイドになるのは難関で(エジプトだけではないけど)、エリート意識が恐ろしく高い。
それなのに、猛勉強して難しい国家試験を突破したエリートの自分たちに仕事がなく(←欧米人ツーリストは渡航自粛気味だったので仕方ない)、
ライセンスがない日本人が堂々とガイドをして踏ん反り返っている。(←そんなことなかったけど、彼らの目にはそう映っていた)
その上、聞けば日本人ツアーは買い物が凄いので、日本人ガイドは大金のマージンを受け取っている。(←そもそもエジプトにはそこまで高額な物は売っていない&欧米人は土産文化がない人々&財布のひもが固いからやむを得ない)
だから彼らは面白くはない。とはいえ、黙って指を加えているしかないのか..
関西空港からもエジプト航空が飛び発つようになるのと同時に、エジプトの各旅行会社は、日本人"通訳"の争奪戦を繰り広げ始めた。
かき集めれば日本人は結構見つかるものだった。
留学生の日本人たち、"たまたま"ふらっとエジプトに放浪にやってきた、日本人バックパッカーの若者たち。そしてさらなる日本人マダムさんたち。
留学生は、ヨーロッパの大学院でイスラムを研究して、奨学金でカイロに来た、日本の国立大学から留学で来たという、なんだかハイレベルな学生/院生/研究生から、私のような一般私費留学生までまちまちだった。
バックパッカーの日本人若者たちは、遺跡をふらふら歩いているところ、突然エジプト人の旅行業者にスカウトされ、その一週間後にはガイド(表向きは"通訳")をさせられた。笑
むろんほぼ全員、労働ビザなど持っていなかった。十年以上、観光ビザのままで"ガイド(通訳)"をしていた元バックパッカー君もいた。笑
やはりもっともスキルが高く、評判も良いのはベテラン日本人マダムたちだった。
何十年もエジプトに暮らしガイド歴も長い。そりゃあ、経験数も知識量も何もかも一回りも二回りも上をいっていた。
彼女たちは実力があって話も面白くて、観光地どこでも顔が利く。こんなに頼もしいことはないので、日本人添乗員は常にマダムたちを指名した。
担当ツアーを選びたい放題だった、ベテラン日本人マダムガイドらは、"パッ○"と"ルッ○"ツアーを独占した。
パッ○とルッ○は、最も高額日本人ツアーと言われていた。
高いツアーになればなるほど、旅程にもゆとりがありガイドもちょっと楽を出来た上、自分も一番いいホテルに泊まれて美味しい食事をいただける。
その上、外国旅行慣れをした客層なので、引率しやすい。(必ずしもではないけど)
それだけではない。高い絨毯やゴールドを買うのにぽんと大金を使ってくれる。イコール、自分の懐に入るマージンの金額も大きくなる。
私のような新人には、絶対の回ってくることのない夢のようなツアーだった。苦笑
ところで、エジプトでの旅行業に労働基準法はなかった。
日当はたった五千円以下。
エジプトツアーは早朝の起床が深夜三時で日付が変わる0時過ぎまで働かせられることも珍しくなかった。(その最大の理由は、エジプト航空国内線の大幅な遅延があまりにも多かったため)
ところが、早朝/深夜勤務手当も残業手当も一切つかない。そういう概念自体がエジプトにはない。
つまり、早朝に起きて野犬に追いかけられ、見知らぬ怖い男たち寄ってくる砂漠道路で自力でタクシーを捕まえ、南エジプトの炎天下の遺跡を喋り続けながら歩き回り、
さらに体力ダウンしたお客さんの介抱もし、夜の食事も付き添い、全員がホテルの部屋に入るまで、こちらは全く休めない。(優秀な添乗員がいれば、そうでもなかったけど)
ここまでやっても、日給が五千円以下だ。しかもタクシー代や各観光地とレストランで払うチップは全て自腹。
しかし、添乗員同行ツアーを担当すれば、添乗員が日本の旅行会社から用意されたチップをガイドに渡してくれた。
これがとても助かった。一日1500円から2000円、2500円ぐらいだったかな。だけども、添乗員無しツアーなら、チップはない。
また添乗員のチップも、女性添乗員の場合はこちらの働きぶりを実によく見ていてくれて、
「こんなにもよくやってくれたので」
とヨーロッパの日本人ガイド並みの額を上乗せしてくれることもよくあった。
ところが男性添乗員というのは、これまたセコい輩が多く、こちらが一日15、20時間もグループのために奉仕して懸命に働いて、
本来なら添乗員の業務であることにも手を貸していても、なんと!
むしろ逆にチップの額を減らして渡してくることが"頻繁"にあった。
しかもやり方が汚いことに、最後エジプト出国するぎりぎりで、「一週間分のチップ」と封筒を渡す。
中身を確認すると、全然少ない。でも本人はすでに出国ゲートの中に逃げている。
こうしてガイドには千円/一日しか渡していないくせに、日本の旅行会社には、「ガイドに一日2000円払った」という精算書を提出。(差額は自分のポケットへ)
ちなみに、こういうせこすぎる男の添乗員を大勢抱えていた、某旅行会社。その後、見る見る業績悪化していました。やっぱりね...
如何せん、日当が悪いので、チップだけはなくお土産屋のマージンはもそりゃあ、必要不可欠だった。
やはり一日15時間働くのが当たり前だったのに、日当はたった五千円以下だけでは苦しい。
マージンは大変ありがたい収入だった。だけど、むろん日本人ガイドの独り占めではない。
日本の旅行会社(添乗員ではないところがミソ...)、エジプト側のオフィス、ライセンスガイド、バスドライバー、そしてアシスタントらと分けていた。
この分け前をちょろまかす日本人ガイドはいなかった。みんな正直にちゃんと分けていた。
ところが、多くのエジプト人日本語ガイドやエジプト人ライセンスガイドだと、すぐに「俺(私)に多めに渡せ」としつこく耳打ちしてくる、と土産屋全員が、呆れていた...
分け前云々はさておき、どれだけグループが買い物をしてくれるのか、というのはとてもとても重要だった。
ツアーグループにドカンと物を売るのに成功すれば、オフィスや同僚たちに入る金額も大きくなる。また土産屋も当然嬉しい。
だから、ごそっとマージンを取れる日本人ガイド(つまり太い客層のパッ○とルッ○のようなツアーを持つガイド)は、人気が出た。
すると、おのずから実力のある人気の同僚たちがその日本人と組みたがるようになる。
力があるライセンスガイドやアシスタントと組めば、自分が何かトラブルに遭遇しても、すぐに彼らが簡単に解決してくれる。
例えば、ギザのピラミッドの意味不明な入場制限を突然設けられた時。
大ピラミッド(クフ王)の入場チケットを一日たったの200枚(だったかな?)しか売らない、といきなり新ルールが設けられた。
が、顔が利くライセンスガイドが自分と組めば、例え事前にチケットを買えていなくても、ぎりぎりになっても必ずグループ分の入場チケットが手に入るのだ。
エジプトは観光でもなんでも全てコネと賄賂。だから日頃のバクシーシもものをいった。
普段から方々でバクシーシをばらまいておけば、何かのときに必ずどこでもバワーブ(番人)らにも助けてもらえる。
だけど、マージのお金がなければ、彼らに握らせるバクシーシも払えない。そのためにもマージンはガイドにとって必要だった。
さて、エジプト人の日本語ガイドも、どんどん増えてきていたが、数パターンがあった。
まず、ちゃんとカイロ大学日本語学科を卒業し、ガイドの資格を持ったエジプト人たち。むろん、彼らは歴としたガイドだ。
そのほとんどは、出が貧しかった。
子供の時から家計を助けるために必死に働き、がむしゃらに勉強して学費に安いカイロ大学に入り、死ぬほど頑張って日本語ガイドのライセンスを取得した、という面々だ。
ガイドの資格は持っていないけど、日本語を話せるからということで、ガイドに借り出されるエジプト人たちもいた。(やはり彼らにも、ライセンスガイドは同行していた)
そんなに多くはなかったが、そのうちの数名は大学教授だった。
イスラームさん(仮名)はハーバードも出て、日本の国立大学にも留学の経験があった。
が、何度も書いているが、エジプトでは大学教授のサラリーはせいぜい700ポンドとかで(当時のレートで約21000円)、とても少ない。
だから背に腹は変えられず、ガイドのバイトに出てきていたのだ。エジプトでは、観光ガイドの社会的地位が高いと言っても、そこはやはり「自分は大学教授だぞ!研究員だぞ!」のプライドが上回る。
なのでお客さんや添乗員さんが「ガイドさーん!」と呼んでも、決して返事をしなかった。
全員に「イスラーム先生」と、絶対に"先生、先生"と呼ばせていた。笑
このように、エジプト人の日本語ガイドも増えてきていたが、まだまだ問題山積みだった。
お土産屋滞在時間を遺跡滞在時間よりかけてしまう日本語ガイド、一日に五軒もお土産屋に寄る日本語ガイド、日本語能力がイマイチな日本語ガイド、嫌がる日本人女性添乗員/女性客へのセクハラを繰り返す日本語ガイド...
よって、どうしても日本の旅行会社からは日本人ガイドのリクエストが多くなり、干されるエジプト人日本語ガイドたちが続々出てしまった。
自分たちに原因があるのに、あぶれたエジプト人日本語ガイドたちは怒った。だから、不満をあちこちで吹聴する。
「日本人ガイドたちが、日本の旅行会社や添乗員に俺たちの悪口を吹き込んでいる。だから俺たちにツアーの仕事が来ない。全部、日本人が横取りしているんだ」。
まともなエジプト人日本語ガイドには、途絶えず次々に日本からも指名が入っている。それに第一、本来ならば会社は日本人ガイドではなく、エジプト人ガイドを極力使いたい。
なぜなら、エジプト人を使えば全て観光地入場券/国内線チケット代/や宿泊代金も、ローカル価格でぐっと費用をおさえられた。
しかも別途、ライセンスガイドも雇う必要もなく、人件費も助かる。つまり会社の利益率が上がる。
それなのにも関わらず、会社は高くつく日本人ガイドたちを優先して使わねばならないほど、多くのエジプト人日本語ガイドへの苦情が殺到していたということだった。本来ならば、お客さんもエジプト人ガイドの方が喜ぶのだけど。
仕事を回されないエジプト人日本語ガイドたちは、とにかくあちこちで日本人ガイドの悪口を言い広めた。
その結果案の定、彼らの日本人ガイドへの悪口攻撃はどんどん広まり、他言語ガイドたちにまで怒り飛び火した。
そう、日本人ツアーとは全く関係ない言語のエジプト人ガイドたちまでもが
「日本人ガイドが横暴でエジプト人から仕事を奪っている。エジプトを馬鹿にしている、許せない」と憤慨していった。
そこで、
「よし、俺たちエジプト人ガイドで日本人ガイド全員を追いだそう!」。
日本人ガイド(通訳)を退散させろ、とがぜんやる気で盛り上がっていたのは、なぜかフランス語とドイツ語ガイドたちだった。
いつもいつもフランス人相手にフランス語を話し、ドイツ人相手にドイツ語を話していると、いろいろ影響を受けて自分たちも性格が悪くなるのか...。
中でも日本人を追い出せ、に一番躍起になったのは、ドイツ語ガイドのヒシャームだった。
それには理由はあった。彼には年下の従兄弟がいて、日本語ガイドだったのだが、従兄弟君はガイドを干されていた。それにヒシャームは怒っていた。
ヒシャームには分からないが、従兄弟君の日本語レベルがめちゃめちゃだった。
その上、彼は複数の女性添乗員にしつこく言い寄り、一日に四回も土産屋にグループを連れて行くなどしていた。いくら会社から注意されても、態度を改めなかった。
だから、従兄弟には仕事が回って来なかった。日本人ガイドの存在有無は全く関係なかったのだ。
しかし、そういう経緯を知らない(言っても絶対信じないだろう)ヒシャームは、
「日本人ガイドが従兄弟から仕事を奪った」
とわめき、
「ここはエジプト人の国だ。外国人がエジプトの歴史を案内するのはおかしい。出ていけ!」
そしてなんと
「日本人ガイドを追い出そう!」という投書まで、アルハラム新聞という、最も大きな新聞に掲載させた。(しかも複数のエジプト人ガイドの連名も載った)
これには日本人ガイドらは呆気に取られた。
なぜなら、言い掛かりも甚だしい。日本人ガイド云々文句を言う前に、エジプトの労働基準法の確立を訴えるとか、
テロなどの影響で欧米人観光客が来なくて仕事がないなら、その補償を政府に要求する方が賢明ではないだろうか。
そして、日本人ガイドのおかげで仕事にありつけないエジプト人英語ガイドたちが助かっているという事実があり、
有能なエジプト人日本語ガイドたちは、常に一杯の仕事で埋まっていたというのはどう解釈するのか。
もろもろ分かっているエジプト人ガイドたちは、だんまりを決め込み、「日本人ガイドを追い出せ!」とカッカあつくなっている同業者たちを、冷めた眼差しで見ていた。
そういう"大人"なエジプト人ガイドたちは、結構私たちを助けてくれて、
例えば、私が王家の谷で次はトトメス三世の王墓に行こうとすれば、
「そっちには、今日本人嫌いのガイドがいるから、行かない方がいいよ」
とこっそり教えてくれたりした。
(追記:ツタンカーメンの王墓を発見した、イギリス人のハワード・カーターもルクソールで観光ガイドをしていましたな...)
一部のエジプト人々ガイドがいよいよ暴走し出した。
エジプトでのテロやデモの報道を見ても分かるとおり、もともとエジプト人というのは何て言おうか、血の気が多くカッカしやすい性分の人間が多い。(そのかわり、和解できればさっぱりするというの長所はある)
彼らは、観光地で日本人がガイドをしていると、大声でわめいて妨害したり突っ掛かりったりし始めたのだ。
中でも、従兄弟が不良日本語ガイドだという、あのドイツ語ガイドのヒシャーム。こいつの嫌がらせはもっとも酷かった。
ヒシャームも私もしょっちゅうツアーに出ていたので、必然的に博物館、ピラミッド、神殿のあちこちでバタッと出くわす確率が高かった。
その都度、彼は露骨に意地悪をしてきた。
相手にしないようにしていたが、ピラミッド入場の順番待ちで行列に並んでいても、パッと自分のドイツ人グループを連れて横入りしてくるとか、
ドイツ人グループに向かい、私でも理解できるようにわざわざ英語で
「日本人がエジプトの遺跡で我が物顔で好き勝手やっているんです」
とため息混じりの演説(悪口)をしたり...
ずっと無視して相手にしないようにしていた。でも、ついに奴は飛行機の高いタラップの上で、私の背中をドンッと押すという行為までにエスカレートした。
この時は、ギザのクフ王のピラミッドの中で、
「ライセンスを見せろ」と大勢のお客さんたちの前で、凄まれた。
ヤラレタ。
ヒシャームは知っているのだ。
英語のライセンスガイドのオバチャンは、面倒くさいのでピラミッドの中まで同行しない。
外で誰かとお茶を飲んでくつろいでいる。(←こんなにサボって楽しているのに、受けとるギャラもマージンもは私と同額...)
「....」
私が黙っていると、ピラミッドの中にいる警察官に「無免許でガイドをしている、このヤバーニー(日本人)を捕まえろ」と言い出した。
南部田舎出身の警察官君は戸惑っている。
そりゃあそうだ。
日本人が単独でピラミッドのガイドをするのは、何年間も暗黙の了解になっているし、上からも逮捕指令など出たこともない。
困った田舎者警察官は、「あ、あの、彼がそういうことを、い言ってい、いるので今後、き、気をつけてね...」。これで終わった。
ちなみに、もしエジプト政府/観光庁の方針で、日本人ガイドは全面禁止になれば、私もやむを得ないと思う。
だけど国の方が「日本人ガイドの皆さん、ありがとう」と言っているのだ。
ヒシャームごときのせいで、この仕事を無くすのはシャクでたまらない。第一、失業したら留学も続けられない。
「よし!アブシンベルのガイド、ムスタファの言った作戦決行だ!」
ムスタファが言ったのは、
「強い人脈とコネを持つライセンスガイドとコンビを組め。いつもそういうライセンスガイドに離れないでくっつけ。
そうすれば、"ザコ"ガイドは何も手出しができない。そこで各都市の最強ライセンスガイドたちの名前を、特別に教えてやるよ」。
こうして、ムスタファのおかげで、ヒシャームを超える、ヒシャームに勝てるライセンスガイドらの名前を入手したが、
問題はその凄腕ライセンスガイドたちを指名しても、彼らは土産屋で買い物をしない(=マージンが稼げない)ツアーしか回ってこない私なんぞとは、絶対組んでくれやしないこと。
ウ~ン、やっぱり難しいなあと考えていると、日本に営業に行っていたエジプト人ツアーオペレーターに
「農○ツアーはごっそり契約してきたぞ! farmerツアーだ。そういうわけで、君の次の担当は農○ツアーでよろしく!」。
「...」
農○ねぇ...
一本目の農○ツアーをカイロ空港まで出迎えに行った。あの時の第一印象は、今でも忘れられない、インパクトがとても強かった。笑
空港の入国ゲートから出てきた農○ツアーは、いまどき(90年代だけど)観光旅行の団体旗を持っていた。
そして全員がお年寄りだった。
おじいさんたちは農○のロゴの入ったキャップを被り、ジャージ、ゴム長靴。おばあさんたちは農用フード、ジャージ、首にはタオルそしてもんぺにしか見えないズボン姿だった。
「うわっ...」
しかもものすごく難易度の高い方言で、皆さんの言っていることがまるで分からない。多分、両替とかトイレのことを聞いてきているのだと思うが、アラビア語より難しい。
(※よって以下、本当は添乗員さんの通訳がいちいち入っているのですが、それは省略します)
同じ飛行機に乗って来た、パッ○のツアーグループが今度はゲートから出て来た。
パッ○の添乗員さんは全身ブランドの派手派手女性だった。彼女はこっちを見て睨んでいる。
農○ツアーグループが天下のルパッ○のグループよりも、ひと足先に出て来たのが、どうも気に入らなかったらしい。だからエジプト人空港アシスタントを怒鳴りつけていた。
ちなみに、パッ○のお客さんたちは同じ日本人だけども、見るから垢抜けていて、服装もお洒落だった。
農用フードではなく、翼の大きい"hat"、シャネルのサングラス、シルクのブラウスに形のよいパンツ、そしてブランドスニーカー。
「どうせ連れて歩くなら、都会的なお客さんたちの方がかっこいいな」と内心思わないでもなかったが、仕方ない。
そのまま空港からバスでギザへ観光に向かった。
スフィンクスのそばで下車をすると、農○さんたちは、皆さんリュックサックからカメラを一斉に取り出した。
それを見て、私は「えっ!?」度肝を抜いた。
どれもこれも五十万円以上は軽く超える、最高級の一眼レフばかりだったのだ。
そのくせ
「ガイドさん、このカメラはどうやって使うかね?」と自分の高級一眼レフカメラの使い方を私に聞いてくる。
(余談ですが、本当に農協○さんは全員、いい一眼レフカメラを持っていたので、農○ツアーをずっと担当をしたおかげで、私も一眼レフカメラに詳しくなりました。笑)
私がそのカメラのレンズ蓋を開けてフォーカスを絞っていると、おじいさんは、
「やれやれ」と突然ラジオ体操を始めた。
えっ!? スフィンクスの前でラジオ体操!?
もうひとりは肩にナナメ掛けしている水筒の蓋を開け、味噌汁をズズッと豪快に音を立てて飲み出した。スフィンクスの前で味噌汁...
すると突如、目の前に乱暴な運転のランボルギーニの車が現れた。
普通はスフィンクスのある複合体真ん前まで車は入って来れないので、どこかの湾岸諸国の王族なのだろう。
味噌汁爺さんは、全く動じることなく、そのランボルギーニを眺めた。
「あれは運転しにくいから、結局人にあげたっぺなあ。結局ケイが一番運転しやすいっぺ」。(※難しい方言の再現ができないので、こういう印象の話し方だった、という風に書きます)
ラジオ体操爺さんも
「うんだべな。おらもベントレー、もう処分したでよ。ケイがいいんだわな」。
「さぁ、行くっぺ」
味噌汁爺さんは、水筒の蓋をまた締めて、そしてカッカ痰を吐き捨てた。凄いな、多分ナポレオンもスフィンクスの前で痰を吐き捨てていないだろう。
「あ、ま、待ってください!」
気づいた時には、味噌汁爺さん、勝手にすたすたスフィンクスの方へ歩き出していた。しかも足が速い、異様に速い。
「皆さんも行きますよ~!」
私は慌てて、ほかのおじいさんおばあさんたちに大声で呼びかけた。
皆さん、それぞれ(最高級一眼レフで)撮影を続けていたり、砂漠の地べたに座りこんで梅干しを食べていたり、全くやっていることはばらばらだった。
だけど、機敏にさっと体勢を整え、すぐさますたすたスフィンクスを目がけ歩き出した。しかもやっぱり全員、速い、歩きが速い。
「...」
いろいろ呆気に取られ、状況を飲み込めていない私はちらっとスフィンクスの顔を見た。するとスフィンクスは爆笑してウィンクしてきたように見えたのだった。
多分、スフィンクスも
「ナポレオンの次に農○ツアーが来たんかいな!」と腹の中で爆笑したんじゃないかなと思う。
つづく
(次が"目には目を、歯には歯を"のラストです。農○様々で、ヒシャームを大人しくさせられました。また、最後まで読んでいただければ、私の"農○愛"と感謝の念を知っていただけると思います🙇。)
↑ネットから。スフィンクスとナポレオン
↑↑目の前のピザハットかKFCから撮影。ちなみになんで写真が少ないんだ、と思いきや思い出しました。いい写真は全部フロッピーディスクに落として、写真は捨てている! でも今家にあるノートパソコンには、FDが使えない!😂
↑隣は某局ディレクター。あとのエジプト人は全然無関係の人たち。カメラを向けたら、勝手に入ってきました😆
↑エジプトに来た当初。お腹を下し、さらにメンタルもやられ一気に痩せた頃。
↑ピラミッド入口。私の後ろは護衛です。
↑ギザのクフ王ピラミッドの入口。こういう日本のビデオカメラは、エジプト人全員が欲しがっていました。そしてこういうダサい服は、全てエジプトで買ったもの。
↑アラビア語だけでなく、象形文字のヒエログリフまで勉強して、トホホでした。
↑ダハシュールの屈折ピラミッド。近隣軍事施設の関係で、観光できるようになったのは、2000年過ぎてからだったはず。私の肩に見えているのは日傘。
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