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南アフリカの土産は刃物だった


まさかエジプトが恋しくなるとは誰が想像しただろう。

2月のプラハは寒い。

屋内はどこも半袖姿でオッケーなほど暖かかったが、外を歩くとまつげが凍るほどで鼻も耳も痛い。

さらに通勤するのに(大江戸線よりずっと深い)地下鉄に乗っていたが、毎朝オフィスの最寄り駅通路で、地上に上がる前に警察官に呼び止められた。

「身分証明証を見せろ」

毎朝毎朝これだ。

ほかの白人の外国人(非スラブ系) には何も言わないのに、有色人種の外国人には通せん坊して片っ端から身分証明証提示を、上から目線で横柄に命令してきた。

私の顔を既に覚えているはずなのに、嫌がらせのように大声で高圧的に「見せろ」と...


カイロのスーダン人もよくエジプト人の警察官に同じことをやられていたな、と思ったし、

戦争中、プラハでもユダヤ人も身分証明証を持ち歩き、常に方々で提示を求められたというが、

「ああこういう感じだったんだろうな」

としみじみ思った。ものすごく屈辱で嫌な気がする。

でもこれを在東京アメリカ人の友達(黒人)に話すと

「私もしょっちゅう東京の道端で、警察官に身分証明証を出して見せろって言われているわよ。嫌な気持ちになるわ。アメリカのメキシコ人の気持ちがとても分かったわね!」。

しかし、東京の証券会社に通う別のアメリカ人(白人) はそんなことない、呼び止められたことがないという。(←2012年の話)



ある朝、同僚の日本人男女二人がグリーンカード(外国人長期居住許可証)の携帯をうっかり家に忘れてしまった。

すると二人は警察署に連行され、似顔絵まで描かれ

「会社に電話をかけさせて」

といくら訴えても、電話を貸して貰えなかった。

チェコにいるアジア人の多くは不法滞在のベトナム人と北朝鮮人だそうで、二人も最初から不法滞在のベトナム人か北朝鮮人のどちらかだ、と決めつけられた。

最終的に会社にようやく電話をかけることができ、チェコ人上司が迎えた来てくれ事なきを得たが、この話を聞いた時

「迂闊にグリーンパスポートをなくせないな」

とゾゾッとした。

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↑外国人居住許可証と書いてあります

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↑私の出身(ジャパン)の呼び方はエジプトでは"ヤバーニ"、チェコではJAPONSKO(ヤポンスコ)!


プラハではどこか買い物に行っても、よほどの観光地を除きあとは英語が全く通じなかった。どこもかしこもチェコ語かドイツ語、(年寄りは)ロシア語しか通じないのだ。

厳寒のせいで喘息は出るわ(←さすがにタバコはもう吸えず)、地下鉄では毎朝犯罪者扱いのごとく、警察官に通せん坊されつっけんどんに身分証明証を求められ、

買い物をしても言葉が通じないだけでなく、不法滞在のアジア人という先入観と偏見で冷たい接客しかされない。

「ああ、エジプトが懐かしい。

気候はいいし(←脳内でかなり美化されている)、

街を歩けば"ウェルカムウェルカム! "と笑顔を向けられ(←ものすごく脳内修正されている)、

みんな親切でフレンドリーだった!(←凄い凄い勘違いをしている)」


さらに"私が可哀相"だったのは、日本から採用されてチェコにやってきた日本人は私も含め合計五人だった。男性二人と女性三人。

気付けばあっという間に私以外の男性二人と女性二人がそれぞれカップルになっていた。私だけあぶれたのだ!

アパートでは女性三人で暮らしていたが、毎晩男二人がやってきて、共有スペースの居間やキッチンでそれぞれ仲良くしている。

どうです? 気の毒でしょう、私が!


「ウ~ン、チェコ移住は早まったかな」

と喘息発作に苦しみながら、後悔の念で頭を抱えとエジプトへのホームシック ( ! ) で気持ちが暗くなった時、寝ていてある夢を見た。

それは私がエジプトを去る前に(つまりルクソールテロ事件がまだ起ていない頃)、最後にヨウコさんが自宅に呼んでくれた時の思い出の夢だった。


1997年の11月に入るか入らない時だった。

私がエジプトを去ると言ったら、最後にヨウコさんは夕食に呼んでくれた。

あの家は"気"が良くなくあまり行きたくはなかったが、一番の友達の招待だ。いそいそと出かけた。


出された食事は、何とかというハーブの葉っぱとアスワンの市場で購入した複数の香辛料(スーダン産)をふりかけまぶしたヨーグルト漬けのチキンの丸焼きだった。

三日間、冷蔵庫に入れて味を染み込みさせ、そしてオーブンで焼いたのだという。


この時、ヨウコさんもアムルも機嫌が良く、二人はとても穏やかだった。

ヨウコさんは必ず近いうちに、私が住む予定のチェコに訪れることを約束してくれ、そして夢を語った。

「当たるまでアメリカのグリーンカード抽選もトライし続けるわ! 二人で渡米して田舎街の片隅でもいいから、小さな食堂を必ず開くわ!」。

「ジャパニーズ料理でもエジプト料理でもない、"ヨウコの料理"の店にしよう!君は天才シェフだから絶対流行る!」

アムルも興奮してあれこれ語った。二人はとてもとても幸せそうだった。



「誰がヨウコさんを殺したの?」

震える手で受話器を握りしめ、うわずいた声で私が尋ねた。

「アムルよ、アムルがヨウコさんを殺したのよ。しかも二人は夫婦じゃなかったのよ」

「えっ!?」



南アに出稼ぎへ向かい、2,3ヶ月経った頃だっただろうか。

なんとひょっこり帰ってきた。それはあまりにも突然だった。

以下、アムルの供述の元によるものだ:


彼はケロッとひょうひょうとアパートに戻って来て、全然悪びれてもいない上、貯金をしてきたどころか逆に持ち金を使い切って帰国した。

出稼ぎだったはずなのに、どうも観光気分で南ア滞在を愉しんでいたらしい。


彼はニコニコして、南アで購入したというヨウコさんへのお土産のナイフを取り出した。

実物を私は見ていないので描写できないのだが、わざわざ土産で選んだくらいなので、工芸品だったのかもしれない。

といおうか、妻への土産でナイフ選ぶこと自体普通はありえないけど。


ヨウコさんはずっと誰とも口を利いていなかったし、ネットもない時代にがらんとした陰気な家に始終閉じ篭っていた。

ただでさえストレスが溜まっていて憂鬱になっていたところ、何の予告も前触れもなく、これまで一切連絡がなかった夫が脳天気に戻ってきた。しかも全財産使い果たして。

カーッと頭に血が上り、ヨウコさんはわめいた。そこから夫婦喧嘩になった。そしてアムルの手元には南アのナイフがあった。



「Help, help ME...」

ヨウコさんが所属する旅行会社にそんな電話がかかってきた。

電話に出たのはエジプト人スタッフだった。

彼はいろいろ聞き返えしたが、アムルが電話線を抜いたか受話器を切ったかしたらしく、通話は途絶えた。

スタッフ君は"ヘルプ、ヘルプミー"が気になったが、まさかそんな状況だとは全く想像もできなかった。

だから、ただの夫婦喧嘩でもしたのかな? まいいかと放置。電話のことを深く追求しなかった。そもそもヨウコさんの住まいがどこなのかも、旅行会社のエジプト人は誰も知らなかった。

同僚の日本人なら、彼女の住まいを把握していた。

しかしルクソールテロの事件後、内勤の仕事も全く皆無のためオフィスで働く日本人は一人も残っていなかった。

つまりヨウコさんが会社に助けを求めた時、彼女の住所を知るスタッフは誰一人いなかった。

そもそもこういう状況で、会社にしか頼れなかったのも可哀相でたまらない。エジプトには本当に信頼できる友人が一人ももう残っていなかったのだろう。

私がまだカイロに住んでいたら、真っ先に私に電話をくれたんじゃないかと思う。胸が痛い。

また警察署や救急車の番号も知らなかったのだろうな...


電話の後もアムルはヨウコさんの全身に再びナイフを刺した。結局合計20~30数カ所、彼女の身体をナイフで刻みまくった。

その後、彼は血まみれなった妻をベッドシーツで包み、タクシーに乗せた。そして自分で彼女を病院へ連れて行った。

がすでにヨウコさんの息は途絶えていた。



アムルは逮捕された。

ところが親がしゃしゃり出てきて、息子の無実を訴えてきた。


自分が彼女を刺して刺して刺しまくって殺したことは、本人が認めているのに、親は「息子は逮捕されてはならない」と主張してきたのだ。

どういうことかと言うと、これを、これを言いたくて以前に私がちょくちょく投稿に差し込んだ『名誉殺人』が登場する。


法律的にはアムルは犯罪者だ。しかしエジプトの伝統文化の見方解釈によっては、彼は犯罪者ではない。

以前書いたことを再度書くが、あるエジプト人新婚夫婦がいた。初夜に新婦が出血しなかった。

「処女じゃなかったのか!」

怒り狂った新婦が大きな石で新婦を殺し、遺体をナイル川に流した。(1994年の実際に起きた事件)

裁判所では夫は刑を言い渡せられた。しかし加害者の新郎は伝統的な名誉殺人を主張。無罪放免になった。

現代では法的には、名誉殺人は認められていないものの、実際にはこの風習は続いており警察も見て見ぬふりをするものだった。



今回、アムルの両親もこの名誉殺人を言い出した。名誉殺人で犯した行為なので、やむを得なかっただから息子を釈放せよ、と。


両親は彼らのアパートの番人に

「夫の不在中、日本人のヨウコは他の男を部屋にあげていた」

と証言させたのだ。


アムルの友達の泥棒野郎がヨウコさんのスーツケースを盗んだ時、この番人に目撃の一部始終を証言してもらっており、運悪くヨウコさんはその時に

「彼 (番人) は嘘をつかないいいモスリムだ」

と警察にはっきり言ってしまっている。



さらにところで、ここで驚きの事実が発覚した。

私ですら知らなかったのだが、二人の結婚は正式なものではなかった。

ただの宗教婚だった。

本当にこれは全く、全く知らされていなかったので私も心底驚いた。ショックだった。


法律婚というのはイスラムにおいても、国の法律によっても正式な夫婦であることを認めるもの。

かたや宗教婚は同棲の言い訳みたいなもので、イスラムの下では夫婦だが、国の法律では夫婦ではない。

かなり省略して言うと、宗教婚の長所は男女が一緒に住んで子供も作れ、子供に父親の苗字を名乗らせることもでき、そして男女は簡単に別れられること。

短所は法的効力や法的恩恵の何も貰えないこと。本当にただの同棲オッケーといっているだけのような形式上だけのものだったから。


そして宗教婚という形態というのは、女性(妻)がとても軽んじて見られものだった。ただの愛人だとか売春婦と同格に見られてしまうこともあった。

よってこのような事件が起きると、非常に女性(妻)の分が悪い。第三者や裁判官への心証が良くなさすぎる。


ただもしかしたらヨウコさんは、自分の結婚が宗教婚だとは知らなかった可能性もある。

アラビア語が読めなければ婚姻書類に何が書かれているのかさっぱり分からない上、

宗教婚でもイスラム教に入信し弁護士を呼んでキチッとした書類にサインをしなければならない。

法律婚だと様々な役所に足を運びうんざりするような手続きを山ほどこなして、そして政府の印紙や許可のサインも受理する。

でもこれもそもそも結婚には二種類あるだとかを知らなければ、何も違いも分からないし疑わない。

私の場合はたまたま日本大使館でアルバイトをした時に、長老のようなご年配日本人マダムさんに

「万が一のために教えておくわね」

とこういうことを聞いておいたがために、エジプトでは結婚が二種類あって、という裏話を知っていただけなのだ。


ヨウコさんが宗教婚だった(イコール、ただの薄っぺらい同棲だったという印象)、

そして生前彼女自身が「正直者」の太鼓判を押したアパートの番人に「マダムには男がいた、いつも来ていた」と証言させたこと。

さらにアパートから出てきたアルバムには、ミニスカートやノースリーブ姿 (←他の国々では普通の格好) で外国の街を歩き、

自分が担当したツアーのお客さんたちから送られた集合写真 (男女混在) 、ツアーグループの皆さんと和気あいあいしてビール(お酒)を乾杯する写真も貼られていた。

ものすごく印象悪い。堅気の女性に思われない。

この三点でアムルは減刑がほぼ確実になるだろう、と言われた。

「...」


私は慌ててヨウコさんから送られてきた数々のエアーメールを、急いで一つにまとめた。

それらには

「毎日彼の連絡を待ち (←固定電話しかない時代なので、外出したら万が一連絡が入った時に応答できない) 

ずっと家に引きこもり寝てばかりです。冬眠の熊さんと同じです。誰とも会っておらず誰とも話していません。おかしくなりそうです。」

これらがいつもいつも書き綴られていた。他に男がいない証拠になるのではないか。


私はヨウコさんの性格を知っていた。彼女は神経質で真面目だった。何においても、あれほどエジプト人を嫌がっていた彼女が他のエジ男に? フッ、 ありえない。


ヨウコさんからの手紙(消印の入ったそれぞれの封筒も) の束をまとめて、カイロの日本大使館に郵送した。

すると後日、間に入った日本人から電話がきた。


「Loloさん、あなたの名前がもし法廷で出ても構いませんか」

おかげさまで私はエジプトを出ている。だから全く怖くない。

「どうぞ」

と答えた。アムルを無罪放免確定にだけはしたくなかった。絶対彼には罪を償って欲しかった。


つづく




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